引っ越し
第二部、第六話。
リコと再会してから二年が経った。
僕のうつ病は、治っていなかった。
「なんでだよ……」
僕は、いつものようにリコと二人で居間に居た。
「タクミ……」
「お酒だってやめたし、生活習慣だって、食事だって変えたし、薬は毎日ちゃんと飲んでるのに」
「なかなか、うまくいかないものね。お酒は呑んでたけど」
「ほんとにね。ごめんなさい。一升瓶の件は忘れてください」
ここ数年で変わったことといえば、リコの勧めで「精神障害者保健福祉手帳」というものを取得したこと、新聞配達のバイトを、補助程度に始めたことくらいだった。
「でも、よく頑張ってると思うよ、タクミは」
「そうかな……」
「そうよ! 毎日、しんどくても朝早く起きてるし。バイト、続いてるし」
「もっと、がんばらないと」
「無理、しないで」
「はは。リコにも、ごはん、食べてもらいたいから」
「私、別に食べなくてもいいよ」
「だめだよ。リコといっしょに食べるのが楽しいんだから」
「もう」
「でもね、先生にも言われたんだ。少し薬を減らせるかもしれないって」
「そうなの?」
「うん。状態は安定してきてると、思う」
「よかった」
「でもね、僕、もっと社会に貢献したい」
「そう、なのね」
「僕を生かしてくれた社会に、恩返ししたい」
「……えらいわ」
「そう、かな」
「そんなこと思える人、なかなかいないと思う」
「そうだと嬉しいけど」
「……あ、そうだ」
「なに?」
「タクミに、いい知らせがあるの」
「なんだろう」
「隣の部屋、空いたでしょ?」
「うん」
「だれが越してくるでしょうか?」
「えっ?」
「だーれーがー越してくるでしょうか?」
「それって……」
「早く言いなさいよ」
「リコが知ってる人っていったら……」
「うんうん」
「メイ、さん」
「あんた、わざと言ってるでしょ」
「カオルさんが越してくるの!?」
「そうよ」
「おー!」
「あんたのこと心配して、わざわざ隣に越してきてくれるんだから、こんどこそ感謝しなさいよ」
「それは、もう」
「イチャイチャしなさい」
「やめてよ……」
「ふふふ」
「でも、カオルさん、大丈夫なのかな」
「なにが」
「あの人、生活力なさそうだから」
「あんたね……」
「あくまでも、人間として、だよ?」
「私は人間としてのカオルさんは知らないからなんとも言えないわ」
「あの人、お金の価値がわからないって言うし、いつも玄米ご飯ばっかり食べてるし」
「そうなんだ」
「大丈夫かなあ」
「じゃ、あんたが教えてあげなさいよ」
「え……」
「手取り足取り教えてあげなさい」
「なんかいかがわしいんだよなリコさんは」
「ふっふっふ……」
ちょっと一息ついて、ため息交じりの声を出す。
「あー、中卒でも働ける仕事ないかなあ……」
「あんたがちゃんと勉強しないからでしょ」
「しょうがないじゃん。そんな状況じゃなかったんだよ」
「いつもメソメソシクシクナヨナヨしてたもんね」
「あっ! その言い方はうつ患者に失礼だぞ!」
「関係ありませんー」
「その顔!」
まったく、リコはどうなってるんだ。
こんなふざけた人になってしまって。
こんな、魅力的な人になってしまって。
こんな、こんな……。
「なに悲しそうな顔してるのよ」
「リコが生きてればなって」
「しょうがないわよ」
「世の中ってこんな理不尽なのかな」
「そうよ」
「そうなの?」
「もっともーっと理不尽なことなんて山ほどあるわよ」
「そうなんだ……」
「あのねえ。妄想でもなく現実にこうやって会話できてるだけで奇跡だってこと、もっとちゃんと考えなさい」
「まあ、それは……」
「あんたは、私に心を預けすぎなのよ」
「信頼したっていいじゃん」
「そういう問題じゃなくて、心の拠り所の問題」
「ふむ?」
「おじさんやおばさん、カオルさん、病院の先生、仕事先の人、これから関わる沢山の人。そういう人たちに、心を少しずつ分けるの」
「心を、分ける」
「そう。心を預けて、心を預かって、辛いことに備えるの」
「どういうこと?」
「リスクは分散しなさいってこと。私だけに心を預けてたら、何かあった時に全部持っていかれるでしょ」
「なるほど……」
「だから、カオルさんとも仲良くしてほしいし、おじさん達とも仲直りしてほしいの」
「ううん……」
「私は、タクミの人生の一部でしかない。言ったでしょ。タクミのことは連れて行かないって。あんたの心も、連れて行きたくないの」
「僕、強く、なれるかな」
「なれるわよ。私がいなくなっても、強く生きるのよ。ぜったい」
「がんばる、よ……」
「もう。情けないんだから」
やっぱり、情けないままだった。
リコに認めてもらえる僕になるには、遠いのかも知れなかった。
でも、いいか。
なんだかんだ、恵まれていた。
父さんとも、いつか仲直りできるかな。
そう信じて、頑張るしかない。
頑張った先に、なにかがあると信じて。
それから数週間が経ち。
カオルさんが、ほんとに越してきた。
珍しく呼び鈴が鳴らされ、リコに促されるまま玄関に向かう。
ドアを開ける。
「よお」
「カ、カオルさん!」
そこには、都会らしいというか、ジーンズに白シャツ、おしゃれな靴を履いたカオルさんが立っていた。
手には紙袋を持っている。
「いやあ、ファッションというのは分からないな。みようみまねだ」
「いや、すごく、似合って、ますよ」
「ほんとうか?」
カオルさんがはにかむ。
ほんとに似合っていた。
なにを着ても似合う。
僕もファッションには疎いからよく分からないけど、だからこそ良かった。
「ふふっ」
リコが笑ってる。
また茶化してるな、もう。
「おっ、リコちゃん!」
「カオルさん、いらっしゃい。どうぞどうぞ、お入りください」
リコが促し、カオルさんがドアを閉めて中に入る。
そのまま二人で居間の方に向かう。
カオルさん、鍵をしめ忘れてる。
「カオルさんっ、鍵っ」
「おっと、すまない」
「もー」
「ははは。いつもの癖でな」
たしかに、いつもカオルさんは鍵を閉めない。
でも都会でそれは危ない。
ちゃんと教えないと。
鍵をかけてから、居間でくつろぐカオルさんに語りかける。
「カオルさん、女性の一人暮らしで鍵のかけ忘れは問題ですよ!」
「すまなかった。今度から気をつける」
「お願いしますね」
「なにかあったら、タクミに助けてもらえばいいんですよ」
リコがにやける。
またこいつは……。
「お、そうか。タクミくん、頼んだよ」
「あのですね。カオルさんのほうが僕よりもよっぽど強いと思いますが」
「そうでもないぞ」
「え」
「私もタクミくんに助けられたいな」
「ええっ」
「ほら、言ったでしょタクミ」
「リコ……」
冷たい目をリコに向ける。
でも、カオルさんはどういう意味で言ってるのかなあ。
「それよりも! せっかくカオルさんが来たんですから、お祝いしましょう!」
「そうよね!」
「助かるよ。あ、ついでにこれ、渡しておく」
カオルさんが紙袋から何かを取り出す。蕎麦だった。
「おお。蕎麦ですか」
「おそばですか! カオルさん、よくお調べになってますね!」
「まあ、メイさまにほとんど教えてもらっているがな」
「大丈夫ですよ。これからはタクミが教えてくれますから」
リコが僕にウインクする。
おいおい……。
ちょっとドキッとしたじゃんか。
「たしかに。ぜひ頼みたい」
カオルさんもキラキラした目で僕を見る。
うっ。
まぶしい。
「……わ、わかりましたよ……。なにかあったら僕に聞いて下さい……」
「よし」
「やった」
なんでリコまで喜ぶんだよ……。
仕方ないな、まったく。
「あ、あの……お祝い……」
「あ、そうね! ちょうどお昼時ですし、なにかお作りしましょうか?」
「いちおう三人分の缶ビールは用意してありますが……」
「それはありがたい。雰囲気が出るな。もし良かったら、その蕎麦でも使ってくれ」
「そうですね! じゃ、昼から蕎麦とビールで乾杯しましょうか!」
昼から、という言い方が微妙に引っかかるけど。
そもそもリコってお酒飲めるんだっけ。
リコが僕に買わせた調理器具で蕎麦を茹でる。
そういえば、そばってあんまり作ってもらったことなかったな。
なんか新鮮だ。
リコが作っている間に、カオルさんが僕に話しかけてくれる。
「最近の調子はどうだ? タクミくん」
「ええ。悪くはありません。完全に治ったわけではないですが」
「そうか。まあ、タクミくんの気持ちが楽になったのなら良かったよ」
「ずっと言えてなかったですが、その節は、ほんとにありがとうございました」
「いやいや。暴力は良くなかった。すまなかった。反省している」
「カオルさんは……どうして、僕のことを」
「キミのことが、好きなんだよ」
「えっ!?」
驚いた。
リコが菜箸を落とす。聞き耳立ててやがるな。あわてて拾う。
「あ、いや、変な意味じゃない」
リコがちょっとがっかりしているのが伝わる。
「そう、ですか」
「人としてな。だから、キミが命を捨てようとしているのを見て、頭に血が上ってしまった。すまない」
「いえ、僕も、目が覚めました」
「それなら、よかった」
「おかげさまで、いまもリコとなんとかやっていけています」
「そうか」
「はい。最近は新聞配達もやってるんですよ!」
「おお」
「これで二人分くらいの食費は稼げます」
「いいじゃないか」
「でも、ですね」
「ああ」
「ずっとバイト、フリーターというわけにもいかなくてですね」
「まあ、そうかもな」
「なにか手に職を……と思っているのですが、中卒ではいろいろと厳しくて」
「ほう」
「困っているところなんです」
「タクミくん」
「はいっ」
「それについて、メイさまからいい知らせがある」
「え!?」
「キミは、『国家公務員の障害者選考』というのを聞いたことはあるか?」
「国家公務員、ですか!?」
「そうだ」
そこでリコがそばを皿に盛り付け、三人分持って来る。
「できましたよー。面白そうな話ですね。あと、おつゆとかつゆ椀とか、必要なものは二人で持ってきてね!」
「はーい」
「分かった」
カオルさんに手伝ってもらいながら、必要な食器類をすべて食卓に揃える。
ぎりぎり載る広さだ。
もうちょっと大きいの買おうかな。
「じゃ、いただきまーす」
「いただきます!」
「いただきます」
三人が揃って声を上げる。おいしそうな蕎麦だ。食べながら話を続ける。
「それで、その、『国家公務員』の話、聞かせてください」
リコが蕎麦をおいしそうに食べながら聞く。
「ああ。どうやら障害者手帳というものを持っている人間は楽に国家公務員になれるらしくてな」
「はい、はい」
「しかも年齢制限が五十九歳までという、破格の設定らしく」
「へえー」
「賢い障害者、つまりタクミくんのような人間は、勉強さえしっかりすれば通ると思うぞ」
「そ、そんなのがあるんですね」
びっくりした。
僕にもなれるだろうか。
「ほら。タクミの病気だって意味があったじゃない」
「たしかに」
「障害者だからって、損することばっかりじゃないのよ」
「そうだね」
「救済してくれる社会に感謝しなさい」
「分かってるって」
「ははは」
カオルさんが笑ってる。
「タクミくんとリコちゃんはあいかわらず仲が良いな。羨ましいよ」
「いえ。私は、中継ぎですから」
「中継ぎ?」
「タクミのこと、カオルさんに任せてもいいですか?」
「リっ、リコっ!」
急に何を言い出すんだ。
驚きで箸が止まる。
「もちろん」
え……。
カオルさん……?
「リコちゃんが安心して旅立てるように、私もがんばるよ」
「カオル、さん」
僕が何も言えなくなってしまった。
「ま、今日のところはいろいろと話せたし、乾杯しようじゃないか!」
「そうですね」
「わかり、ました」
三人で缶ビールを突き合わせて遅めの乾杯をする。
なんか、こういうのっていいな。
しばらくして。
「うっ……うっ……カオルさあん」
リコが泣いてる。
こいつ、酒に弱いぞ。
しかも泣き上戸だ。
「よしよし」
「わたしい、カオルさんとタクミが仲良くしてくれてうれしいですうう」
「ああ」
「タクミのことお、たのみましたああ」
「分かってるよ」
その後、カオルさんにより掛かるようにしてリコは寝てしまった。
カオルさんに話しかけられる。
「……タクミくん」
「は、はい」
「リコちゃんのこと、手放せるか」
「それは……」
「いつかは、手放さなきゃだめだぞ」
「はい……」
分かってる。
いつかは、手放さなくちゃいけない。
そのいつかは、かならず来るんだ。
そして、その日は、そう遠くないかもしれない。