帰宅
第二部、第五話。
「う、うう……」
頭が痛い。ここは、どこだ。
ご飯のいい匂いがする。
リコ?
いや……広すぎる。
家が、広すぎる。
ああ……。
昨日、カオルさんとお酒、呑んでたんだっけ。
服は外着のままだ。
頭が、痛い。
足音が、する。
「おっ、タクミくん、起きたのか」
「はい……」
「ははは、ひどい顔だな」
「見ないでください……」
「可愛いぞ」
「やめてくださいよ。もう」
「ははははっ」
この人は、ほんとに。
「ご飯。食べるか?」
「ちょっとだけ、もらいます……」
そのあと一合ほど玄米をもらって、水を飲む。
カオルさんは朝から一升? ほんとに元気だ。
「で、昨日の話だが」
「リコのことは忘れませんよ」
「そうだよなあ」
「死んでも忘れません」
「……そうか」
「たとえ忘れたとしても、それは僕が死んだあとです」
「うん」
「生きてる間に忘れることは絶対にありません」
「ほんとうにそうなるから、怖いんだよ」
「なにがです?」
「キミたちの力は強すぎる」
「力、ですか」
「そうだ」
「強すぎてはいけませんか?」
「だめだ」
「なぜ」
「とにかくだめなんだ」
「秘匿事項ですか」
「ああ」
「困ったものですね」
「私も困っているよ」
「そう、ですか」
そこでいったん会話が途切れた。カオルさんは玄米ご飯をおいしそうに食べている。
特権、か。そういえば。
「カオルさん、昨日、僕のことを守るって言ってましたよね」
「ああ」
「なにから守るんです? 言えればで構いません」
「うーん。強いて言うなら不幸からかな」
「不幸?」
「不幸は誰にでもある」
「そうですね」
「だが、キミたちにかかる不幸は……分かるだろ?」
「普通じゃないと?」
「さあ」
「またぼかすんですね」
「言えないことは言えない」
「ふむ……」
「……ま、だいたいのことは話せたかな。タクミくんはいろいろと言いたいことがあるだろうが、また次の機会にな」
「……分かり、ました」
「あ、そうだ。リコちゃんは元気そうか」
「まあ、はい。それはもう」
「なら、よかった」
「はあ」
「ちゃんと、大事に、思い出を作るんだぞ」
「え?」
「今だけだ」
「忘れませんからね」
「はははっ」
「……あの、僕」
「そろそろ帰るか? リコちゃんが心配してもいけないしな」
「はい」
僕は歯磨きをして、服を整えて、顔を洗って、カオルさんのもとへ戻る。
「これ、渡しておく」
「なんですか?」
「紙切れだ」
紙切れ。なにか大事なことでも書いてあるんだろうか。
「えっ!?」
「紙切れだろう?」
「これ……一万円札じゃないですかっ!」
「私には、それの価値は分からん」
「ものすごい価値がありますよ! これで帰れます! ありがとうございます!」
「それに意味があるとは思えん」
「は、はあ……でも……」
「その紙切れに価値があると思うのは、その紙切れの価値を信じている人だけだ。私は価値がないと信じている。だから価値はない」
「なんか、謎かけみたいですね……」
「はっ。この世は謎だらけだ。言いたいことは山ほどある」
「なるほど……」
「じゃ、駅まで送ってやろう」
「あっ、車の運転できるんですね?」
「そんなものを私が持っていると思うか?」
「えっ、じゃあ歩きで? 二時間くらいかかりますよっ」
「ばかやろう。そんなに歩けるか」
「じゃあどうやって」
「瞬間移動だ」
「はあっ?」
「テレポーテーション、瞬間移動、言葉にするとうさんくさいな」
「そんなことできるんですか?!」
「まあ、できるな」
「な、なるほど……」
「心の準備はいいか?」
「な、なにをすればいいんですか?」
「まず立ってくれ」
「はい」
「深呼吸」
「はい」
「私の手を握れ」
「えっ!」
「恥ずかしがるな」
恥ずかしいよそりゃ。
「はい……」
「目をつぶって」
「はい!」
「いくぞ」
なにも感じなかった。だけど、匂いが、光が、音が、変わった気がした。
「ほら、ついたぞ。目を開けていい」
「えっ?」
目を開ける。宵無駅のロータリーだ。嘘でしょ。
「す、すごいですね」
「そうだろう?」
「めちゃくちゃですね」
「そうだよな」
「ま、まあ、楽ができました。ありがとうございます」
「それはよかった」
「カオルさんは、またすぐ帰るんですか?」
「そうするよ」
「いろいろと、ありがとうございました。お世話になりました」
「いえいえ。また来るといい」
「喜んでお邪魔させて頂きます」
「私も、タクミくんが来ると嬉しいからな」
「え?」
「いや、はは。なんでもない」
「それじゃ……また」
「ああ、また。あ、お酒、送っておくからな」
「ありがとうございます!」
カオルさんが手を振ってくれる。僕も、手を振る。
ほんとに、いい人だ。
いまは、帰ろう。リコの待つ家へ。
「おかえり」
「ただいま」
いつものように自動ドアかって位のタイミングで鍵が開く。リコと顔を合わせる。挨拶をする。
居間へと歩きながら話をする。
「朝帰りねっ!」
「なんか嬉しそうだね、リコ」
「カオルさんとなにかあったのかなって」
「なにもないよ」
「えー。つまらないわね」
「何かあったほうが良かったの?」
「まあね」
「そんなに期待しなくても」
「カオルさんとタクミのラブストーリー、見たかったなあ」
「ないない」
「あるわよ」
「なんで」
「カオルさん、あんたのことぜったい好きよ」
「へっ?」
「にっぶいわねえ。一晩過ごしておいて分からなかったの?」
「その言い方は違うと思う……」
「と、に、か、く。カオルさんには感謝しなさいよ」
「あっ!」
「なによ」
「お礼言うの忘れてた……」
「はあっ!?」
「ごめん……」
「あんた、何しに行ったのよ……」
「ほんとだよね……」
「どうせ、カオルさんに鼻の下伸ばしてたんでしょ」
「そっ、そんなこと」
「あるんでしょ」
「……」
「私には、わ、か、る、のよ!」
「そんなあ……」
「ふふふっ!」
「ははは……」
こういうやり取りも自然にできるようになってた。
『ちゃんと、大事に、思い出を作るんだぞ』
カオルさんの言ってた意味が、なんとなく分かる気がした。
きっと、今だけだ。
今だけの、ひとときの夢なんだ。
ずっと忘れない、夢。
この夢が、僕を生かしてくれる。
忘れさえ、しなければ。
居間のクッションに腰掛ける。
「カオルさん、なんか言ってた?」
「うーん」
「なあに?」
「言いづらいことなんだけど……」
「なになに」
「リコのことを、忘れろってさ」
「えっ!」
「ひどいよね」
「ううん」
「え……」
「私も、忘れて欲しい」
「なんでだよ」
「タクミのためにならないから」
「なに言ってんだよ。忘れたら元も子もない」
「ねえ、タクミ」
「なに」
「私たち、力を使いすぎだと思わない?」
「それ、カオルさんも言ってたような気がする」
「しかも、自分たちの都合のいいように」
「それは……」
「あるわよね?」
「ある、かも」
「このままだと、いつか」
「いつか?」
「いつか、なにかを払わなくちゃいけなくなるわ」
「そんな、もんかな」
「そんなもんなのよ」
「それが、リコを忘れるってこと?」
「かもしれないわね」
「それは……それは、いまこうしてリコと過ごしてる記憶もなくなるってこと?」
「たぶんね」
「そんなの」
「耐えられないって、あんたは言うんでしょ」
「うん」
「もっと大きなものを払わなくちゃいけなくなったら?」
「例えば」
「たとえば、他人の命を、たくさんとか」
「生贄ってこと?」
「そうよ」
「それは……」
「いやでしょ?」
「うん……」
「他にも、触る人をみんな不幸にするとか」
「地味に嫌だね……」
「地味どころじゃないわよ? 自分の愛した人が自分のせいで不幸になるのを見るのは、どんな気分かしらね」
「そうならないために、リコを忘れろって?」
「そうよ」
「僕にとっては、本末転倒なんだよね」
「なんでよ」
「そりゃそうだよ。僕の生きる意味はリコに偏ってる」
「だから、それをやめないとってこと」
「それはやめられない」
「だめだってば」
「僕は、リコを世界一愛してるから」
「……」
「誰よりも、おじさんおばさんよりも、愛してるから」
「ばか、ね……」
「馬鹿でいい。僕が受けた苦しみは、今の生活を受けるに値するものだよ」
「そう」
「うん」
「でも、あんまり期待しすぎないでね」
「なにを?」
「世の中は、そんなに単純じゃないの」
「どういうこと」
「喜びと悲しみは釣り合わないってこと」
「ううん……」
「まだ、あんたには分からないかもね」
「……」
リコは、なにを見てきたんだろう。
釣り合わない。
それは、僕にとって悲しい言葉で。
いつかほんとに、リコのことを忘れなくちゃいけないんだとしたら。
僕は、その時。
その時……。
生きて、いけるだろうか。
それだけが、心に強く残っていた。
「ねえ、タクミ」
「ん? どうしたの」
「これが玄関においてあったんだけど、これタクミの?」
リコが見覚えのある一升瓶を持ってくる。
「あ……いや、あの……」
「タクミの、でしょ?」
「は、はは……」
「タークーミー?」
「あの、ですね。カオルさんに無理やり……」
「どうやって玄関に置くのよ! 言い訳しないで!」
カオルさん。恨みます。
そのあと、僕はリコにこってり絞られた。