想い
第二部、第四話。
「そういえば、カオルさんなんだけど」
「どうしたの?」
「僕が知ってるカオルさんって、ぜんぜん違う見た目なんだよね」
「そうなの?」
「あの……なんというか」
「気になるから早く言いなさい」
「鎧武者というか……」
「鎧武者って、あの?」
「うん……」
「ぷっ」
「あっ! 笑ったな!」
「あははっ、だって、鎧武者だよっ? おかしいよ!」
「しょうがないじゃん! そう見えたんだから!」
「あんな綺麗な人が鎧武者ねぇ……あんたほんと見る目ないわ」
「たしかに、ちょっとしか見てないけど美人だった気がする」
「あ、浮気するの?」
「あ、ご、ごめん」
「あはは! 馬鹿ね! わたしが嫉妬するとでも思った?」
「なんだよ……」
「むしろ大歓迎よ。カオルさんだったらさらにね」
「たしかにカオルさんはいい人だけど……」
「なによ」
「こわい」
「ふふっ、ま、あんな目にあったら怖くて当然かしら」
「そうだよ。目が鬼だったよ」
「あんたが自殺なんてしようとするからでしょ」
「それは、そうだけどさ……」
「……だったらさ、感謝ついでに会いに行ったら」
「えっ」
「カオルさん、待ってるかもよ」
「待っては、ないと思うけど……」
「きっと待ってるわよ。それに」
「それに?」
「あんたのこと、嫌いじゃないと思うけど」
「そっ、か」
「そうそう」
「え、でも、カオルさんはいまどこにいるの?」
「二葉県の農村部ね。住所は……ちょっと待ってて」
リコがなにかを探している。
「なんでそんなの分かるんだよ……不思議なパワーってやつ?」
「ちがうわよ。このまえ電話がかかって来たでしょ……あ、これこれ」
「あ、あれ! 珍しいと思ったんだよ」
「カオルさんからよ。ほら、これ」
「おー」
そのメモには、二葉県の詳細な住所が書かれていた。
「あ……でも、遠くないの? ここ」
「電車とタクシーで二時間位? 全部で五千円くらいかかるんじゃない?」
「お金ない……」
「そのくらい貯金から出しなさいよ」
「リコに殺されるうう」
「殺してやるからさっさと行きなさい」
「冷たいなあ……」
「はいはい」
次の日。僕は西京駅に来ていた。
西京って、ほんと人が多い。
水守島で住んでた頃が懐かしい。
ほんとはもっともっと田舎に住みたかった。
でも、田舎に貸アパートなんてあまり多くないし、僕みたいに免許もなくて家賃の扶助がある人間には、西京は暮らしやすい。
というよりも、西京くらいじゃないと住めない。
慣れない電車に揺られながら、いろいろと考えてた。
リコは、どんな気持ちなんだろう。
あんなに早く死んじゃって、僕やカオルさんにしか見えなくて、それでも、あんなに、明るくて。
強くて。
僕の幸せを願ってくれてて。
自分は中継ぎだなんて言って。
リコだって、もっと生きたかったはずなのに。
リコが弱音を吐いてるのを見たことがない。
僕は……。
『次は終点んー宵無駅いー』
電車が停まる。
そろそろ、降りなきゃ。
歩いて駅員さんのところに向かう。
切符を見せて証明がわりに穴を開けてもらう。
駅の構内から出る。
ロータリーに、電話で予約してたタクシーが待ってる。
手を上げてお辞儀する。
後部座席のドアに証明書をかざすと、自動で開いた。
「今日はご利用ありがとうございます。目的地は貝間市唐掛一―五―二十で間違いありませんね」
「はい」
「料金はおおよそで三千五百円ほどとなります。よろしいですか」
「大丈夫です」
「それでは、出発します」
「お願いします」
車がゆっくりと出発する。
あいかわらずここの会社の人は運転がうまい。
そして丁寧だ。
会話も極力しないし、気を使わなくてすむ。
僕はただ、外の景色を見ながらぼーっとすればいい。
また、物思いにふけっていた。
カオルさんは、僕のことをどう思ってるんだろう。
そもそも、僕はカオルさんのことをどう思ってるんだろう。
心強い人?
頼もしい人?
強い鎧武者?
怒ると怖い人?
暴力的な人?
メイさんの手下?
僕を……救ってくれた人?
リコの言う通り、じっさいに会ってみないと分からないのかもしれない。
会ったら印象が変わるかもしれない。
そもそも僕はなんのために会いに行ってるんだっけ?
『カオルさん、待ってるかもよ』
リコの言葉を思い出す。
僕のことを待ってる?
そんなことあるのかな。
僕は、カオルさんの事をよく知らない。
そもそも、見た目だってよく知らないんだ。
たしかに、あの世界でカオルさんは僕のことを見たと思う。
だからといって、そこまで僕に興味があるとは思えない。
『あの世で後悔するんだな』
あの時の目。
本当に怖かった。
でも。
ちょっと待てよ。
そもそも僕に興味がない人が、助けてくれるか?
「勝手に死ねば」と思うか「どうでもいい」「巻き込まれたくない」と思うのが関の山なんじゃないか?
だったら、カオルさんは。
カオルさんは、僕が自殺しかけたことに。
本気で、怒って、くれてたんじゃないのか。
「お客さん。そろそろ着きますよ」
「あっ……はい」
二十分があっという間だった。昔から、考え出すと時間がすぐ過ぎる。
「三千四百円になります」
「はい……これで」
「三千四百円、ちょうどですね。ありがとうございます」
「いえいえ」
「それでは、またのご利用をお待ちしています」
「はい」
タクシーが帰っていく。
僕の目の前には、のどかな田園風景が広がっていた。
それと、いかにもな古民家がひとつ。
ここに、カオルさんが住んでいるはずだ。
玄関の方に向かう。
簡素なチャイムが取り付けられてる。
押す。
ビーッと言う音が中でした。
あれっ、ピンポンじゃないんだ。
しばらく待つ。
カオルさん、こないな。
もう一回押してみるか。
ビーッ。ぜんぜん反応がない。
あれ……留守かなあ。
困るなあ。
家の周りをぐるっと散策してみることにした。
田んぼ、ばっかりだ。
いいな。
こういうところで暮らしたいな。
玄関の裏に回ったところで、遠くに畑仕事をしているような人影が見えた。
もしかして、カオルさんかな?
近づいてみる。
作業着と麦わら帽子をかぶった、まさしく畑仕事っていう格好でカオルさんが作業してる。
「カオルさーんっ」
カオルさんがこっちに気づいたみたいだ。
「カオルさん! タクミですっ! 急ですみません!」
「おおっ! タクミくんじゃないかっ!」
カオルさんが小走りでこっちにやってくる。
近くに来てすぐに僕の手を握る。
ちょっと恥ずかしい。
「タクミくん! 元気になったのか!」
「はい……あの、あのときは」
僕がなにかを言う前に、カオルさんが僕の首に手をかけてハグをしてくれた。
めっちゃ恥ずかしい。
「……すまなかった。元気で、よかった」
「あ、あの……あの……」
カオルさんが手を離し、肩に手をかけて僕の顔を近くで見る。
必然的に僕もカオルさんの顔を見る。
カオルさんが、こんな綺麗な人だったなんて。
容姿だったら俳優さん、モデル、いやリコにだって負けてない。
たぶん僕は顔が真っ赤になってる。
だってしょうがないよ。
「なんだ? 顔を真っ赤にして」
「カオルさん、顔、近いです……」
「おっと。すまなかった。こんな汚れた姿で申し訳ない」
「そういうことじゃなくて……」
「とにかく、会えてよかった。水でも飲んでいくか?」
「は、はいっ!」
なにを喜んでるんだ僕は。
気をしっかり持つんだタクミ。
家に戻るカオルさんのあとをついていく。
歩く姿すらもさまになってる。
玄関の引き戸を開けて、中に入る。
僕が引き戸を閉める。
土間だ……懐かしい。
カオルさんが長靴を脱ごうとしているのを見て、僕も靴を脱ごうとして框に座ってなんとなく引き戸の方を見た時、気付いた。
そうだ。
長い都会生活で忘れてた。
田舎は、鍵を閉めないところがある。
みんないい人だから犯罪者がいない、とかそういうことじゃない。
そうじゃなくて、都会と田舎の最大の違いは。
人間関係の深さだ。
都会の人は、田舎の人間関係を甘く見てると思う。
ま、そんなことより、いまはこの懐かしさを謳歌したいと思った。
木の板で覆われた囲炉裏部屋があって、別の部屋は畳がしかれてる。
いいなあ。
住んでみたいなあ。
懐かしいなあ。
おじいちゃん、おばあちゃんの家がこんなだったなあ。
「ここで待っててくれ。いま用意してくる」
「はいっ」
僕は囲炉裏部屋で待つように言われる。
なんとなくカオルさんを目で追う。
壁の向こうに行ってしまう。
水を用意してくれるんだよね?
なにかが回転するような音と、水が跳ねる音がした。
そして、水が流れる音。
そうか。
この家には、井戸があるんだ。
「はい。お待たせ。冷たい水だ」
「ありがとうございます!」
「ふふふ」
「いただきまーす」
「どうぞ」
おいしい。
さっきカオルさんが笑ってた。
顔が熱くなる。
落ち着け僕。
水を飲み干す。
不思議とのどが渇いてた。
「……そんなに喉がかわいてたのか?」
「そ、そうですね……」
「なら、もう一杯」
「すみません……」
原因は分かってた。
緊張してる。初めてだった。
カオルさんのことは知ってるはずなのに。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ございます」
カオルさんが見てる。
なんか、飲みづらい。
さっきは飲めたのに。
「どうした、飲まないのか?」
「あとで飲みます……」
「なんだそりゃ」
自分でもめちゃくちゃだと思った。
でも、感情ってのはそううまくいかない。
「まあ、ゆっくりしていくといいぞ」
「そうですね。夕方くらいには」
「泊まっていくといい」
「とまっ!?」
「変な意図はない。リコちゃんのことを聞きたいだけだ」
「そっ、そうですか」
ほっとした。
いや、ほっとしたのか?
なんだか複雑な気持ちだ。
「ラジオでも聞くか? 静かすぎるのも居づらいだろう」
「は、はい」
「なんか固いぞ、タクミくん。私とタクミくんの仲じゃないか」
「はは、は……。そう、ですね」
「まったく」
カオルさんは黒の短髪で、それがすごく似合ってる。
リコも短髪だけど、またそれとは雰囲気がぜんぜん違って、なんか……。
カオルさんがラジオをつける。
ラジオパーソナリティの声が、明るい雰囲気を彩る。
でも、僕はそれどころじゃなかった。
ラジオを聞いているふりをして考えてた。
なんだろうこの気持ち。
リコが救命士として僕の手を握ってくれてたって聞いた時と、似たような気持ち。
これって……これって……。
まずい、まずいよ。
だって卑怯じゃない?
僕の目に鎧武者としか映ってなかった人が、現実でこんな美人として現れて。
リコは死んじゃったけど、目の前に現れてくれてるし。
僕の気持ちは、春の気温くらいぐちゃぐちゃだった。
そのまま、時間が流れた。
とっくに夕方だった。
かえ、らなきゃ。
「あ、あの、カオルさん」
「どうした?」
「ぼく、やっぱり帰ります」
「だめだ」
「なぜ、ですか」
「キミに伝えなきゃいけないことがある」
「そうなんですか?」
「ああ」
「なんのことですか」
「リコちゃんのことだ」
「リコに、なにかあったんですか?」
「いつものことだ。キミたちにはいつもなにか起こっている」
「それは、否定しません」
「とりあえず、夕飯を作ってやるから、待ってろ」
「分かり、ました……」
「いい子だ」
いい子?
すごく子供扱いされてる気がする。
そもそも、メイさんのしたで働いてるってことは、いったい何歳なんだろう?
あんまり気にはならないけど。
そのままラジオを聞きながらカオルさんの姿を見る。
夕飯って、かまどで作るんだよね。
米をめちゃくちゃ大きな木箱から――たぶん米びつから――すりきり十杯くらい。
「一升!?」
「どうした、驚かせるな」
「いや、こっちが驚きますよ……僕、そんなに食べられませんよ!」
「タクミくんは一合か二合くらいだろう」
「えっ、てことは」
「私が八合くらいだ」
「ええ……」
どんだけ食べるんだろう。
「さて、タクミくんに見せたいものがある」
「え……火加減は見なくていいんですか」
「大丈夫だ。なんとかなる」
絶対なんとかならない……。
「とりあえずこっちに来い」
「はい……」
なるべく逆らわないでおこう。そう思った。
土間に降りてカオルさんのそばに寄る。
かまどに近づく。
「僕、ごはん見ておきましょうか」
「いいから、こっちに、来るんだ」
「ひええ……」
襟を掴まれて、強引に連れていかれる。
勝手口から外に出る。
「前を見ないと危ないぞ」
「へ?」
どういうことだろう。前を見る。
「階段!?」
「地下への入口だ。わくわくするだろう?」
しません。
というか怖い。
「カオルさんに処刑されるうう」
「するか。とって食いもしない」
「ほんと、ですか……?」
「うるうるした目はやめろ」
「ははは……」
「さ、降りるぞ」
「本気ですか」
「当たり前だ」
嫌な予感しかしない。
カオルさんが置いてある懐中電灯を手に取り、先を進む。
なにが待ち受けているのか。
これは恐怖の始まりに過ぎない。
……そんなわけなかった。
「カオルさん、これって!」
「どうだ、すごいだろう!」
見渡す限りの酒。酒。酒。
棚に並ぶ一升瓶のラベルが、華々しい。
「どうなってるんですか!?」
「メイさまから私へのプレゼントだよ」
「すごい……」
古今東西、この国、いや全世界の酒蔵から取り寄せたみたいな数だ。
ん?
「カオルさん、ここ、なんかやけに広くないですか?」
「気づいたか。空間自体も特注品だ」
「とんでもないですね……」
ずるい。ひたすらずるい。
「さ、好きなものを選んでくれ」
「え、いいんですか!?」
「私とタクミくんの仲じゃないか」
昼にも聞いたけど、どんな仲なんだろう。
「でも、重くて持ち歩けないかもです」
「大丈夫だ。送っといてやる」
「なにからなにまで、ありがとうございます……」
「いいんだよ。タダ、だしな」
「プレゼント、ですか」
「ああ」
うらやましい。
僕はおいしそうなお酒を選んで、カオルさんに伝える。
「それか。なかなか渋いな」
「ははは……お酒、けっこう好きでして」
「おっ、それは頼もしいな」
カオルさんは、置いてあった木箱に瓶を五本ほど積んで、肩に抱える。
「あの……それ、今日呑むんですか?」
「ああ」
「……」
「どうした、そんな目をして」
酒豪なのか?
うわばみなのか?
酒仙なのか?
「……」
「引くんじゃない」
「ひっ、すみません」
「はははっ」
あいかわらず、見た目に似合わず豪快な人だよなあ。
……あ。だからなのか。
だから、僕は鎧武者に見えたのかもしれない。
隙がない。
鉄壁の、鎧武者。
でも、僕は、カオルさんのことは嫌いじゃなかった。
むしろ、この豪快さ、男らしさ、そして変わらない美しさが、好きだった。
地下から戻って、家に入る。
かまどの方から白飯のいい匂いが立ち込めている。
あれ?
いつもと香りが違う気がする。
「おっ、ご飯ができてるみたいだぞ」
カオルさんが釜の蓋を開ける。
なんか茶色い。もしかして。
「カオルさん、この色と匂い……」
「ああ。玄米だぞ。健康にもいいからな」
な、なるほど。
あまり玄米を炊いて食べたことがないから、おいしいのか分からない。
「ま、食べてみれば分かるさ」
「分かりました」
そもそも僕はごちそうになる身分だから、文句は言えない。
カオルさんが茶碗にご飯をよそってくれる。
自分は木桶にものすごい量を盛っている。
そのまま持ってきた。
「なんか壮観ですね……」
「そうか? いつもの半分だぞ?」
「半分!?」
「ああ、タクミくんの前で少し恥ずかしくてな」
「ぜったい嘘ですよ」
「はははは」
なんか、いろいろとすごかった。
そういえば。
「おかずとかはないんですか?」
「あー、そういう洒落たものはないんだ」
おかずの一品があっても、洒落たうちには入らないと思う。
「よくご飯だけでそんなに食べられますね……」
「食べてみれば分かる」
ほんとかな?
火のない囲炉裏の前でふたりで向き合う。
「んじゃ、食べるとしようか!」
「はい、ありがたく、いただきます」
「いただきます!」
ひとくち食べる。
「う……」
「どうだ?」
「うまいっ! あいや、おいしい!」
「だろう?」
甘い。そして食感がいい。
口に入れると香りが広がって、噛むと味が染み出してくる。
「玄米ってこんなにおいしかったんですね……」
「私は白飯より玄米のほうが好きだな。あとは、これも特注品だ」
「なるほど、これなら納得です」
「気に入ってくれたか?」
「もちろんです!」
「そうか、それは、よかった」
あれ? なんか、ちょっと恥ずかしそう?
でも、僕はそこにつっこめなかった。
「さ、呑め呑め」
カオルさんが湯呑みに注いですすめてくれる。
「ありがとうございます、でも……」
「……もしかしてリコちゃんに止められてるのか?」
「はい」
「仲睦まじいな。羨ましい限りだ」
「そんなんじゃ」
「そんなんだろう?」
「……」
カオルさんが玄米をおいしそうに食べ、お酒を呑みながら言う。
いいなあ。
「栄養は偏ってますけど、いい暮らしですね……」
「だよな。私もそう思う」
「なんでこんなに恵まれてるんですか」
「ま、これは私の特権として許してくれ」
「なんの特権ですか」
「キミを守る特権だよ」
「えっ!?」
特権? 僕を守る?
「いいからどんどん食べてくれ。ご飯が冷める。お酒も、飲むよな?」
「はい。お酒は、いりませんけど……」
「飲む、よな?」
「ひいい」
これは別にパワハラじゃない。
カオルさんは腕力はあるけど権力はない。
それに、僕自身がほんとは飲みたかったのだ。
「いただきます……」
カオルさんはほんとに元気だ。
なんだか、僕まで元気がもらえる。
そのあと、お酒を飲みながらおいしすぎる玄米を食べた。
こんなご飯を毎日食べられるなんて、幸せすぎるよカオルさん。
「ごちそうさまでしたー」
「ごちそうさまでした。いや、おいしかった」
「ご飯だけでも食べられるもんですね」
「タクミくんもそう思うか?」
「はい。一升や二升は無理ですけど……」
「だから、引かないでくれよ?」
「善処します」
「はははは」
「ふふ……」
なんか楽しかった。
今日は、いい日だった。
酔いも回ってきて、いい気分だった。
「おっと、タクミくんの酔いが回り切る前に言っておかないと」
「なんですか?」
「リコちゃんのことは、忘れるんだ」
「はあっ!?」
酔いが吹き飛んだ。
「忘れるってどういうことですか!?」
「忘れないといろいろと面倒なことになる」
「面倒なことってなんですか」
「それは教えられない」
「はい?」
「教えることは調和に反する」
「調和ってあの?」
「そうだ」
「わけが分からないですね……」
「現実はな、残酷なんだ」
「どう残酷、なんですか」
「キミたちにとっての地獄だ」
「そんな……」
「とにかく、リコちゃんのことを忘れることが、誰にとっても幸せなんだ」
「少なくとも僕にとっては不幸です」
「そうとも言えないな」
「なんでですか!」
「私からは言えないんだ。よく考えてみろ」
「あんまりですよっ!」
「キミたちがなにをしてるのか。なにが起こるのか。よく、考えてみろ」
「カオルさんっ!」
「キミたちは良くも悪くも特別なんだ……私は風呂に入ってくる」
「逃げないでくださいっ!」
「すぐ出てくるさ」
カオルさんが出てきたあと、僕は促されるままに風呂に入らされた。
リコを……忘れる?
冗談じゃない。
僕たちがやってきたことは誰のためだ?
なんで僕たちばっかりこんな目に合わなくちゃいけないんだよ。
でも……。
でも、考えてみたら……。
風呂から出て、カオルさんが呑んでる部屋に入る。
「分かりました」
「なにか分かったかな?」
「お酒、潰れるまで飲みます」
「ははっ、そうきたか」
「カオルさんのせいですからね」
「いいぞ、こっちにこい」
カオルさんのそばでお酒を飲む。
カオルさん、すごくいい匂いがする。
「タクミくん。キミは、よく頑張った」
「頑張りましたよ、僕は」
「もうひと押しだ」
「なにが、です」
「リコちゃんのことをきっぱり忘れて生きるんだ」
「いやです」
「わがままをいうな」
「わがままですよ」
「なら」
「僕にはわがままを言う権利があります」
「まあ、あるがな」
「だから使わせてもらいます」
「権利を行使することがなにを意味するか、だ」
「なにかよくないことが起こる、と?」
「……」
「沈黙、ですか」
「ノーコメントだ」
「分かりました」
だいぶ、酔いが回ってきた。
「でも、です、ね」
「なんだ?」
「リコは、いい子、なんですよ?」
「そうだな」
「あんな、素敵な子、いませんよ」
「分かってる」
「リコの存在そのものを忘れるなんて、僕には……僕には……」
「できない、よな」
「いっしょう、リコと、くらしたい、のに」
「ああ」
眠い。
すごく、眠い。
「うんめいって、かなしい、です、ね」
「だから……」
「え……?」
「だから、私がいるんじゃないか」
「かおる、さん、が……?」
「キミのことは、私が守る」
「かおる、さん……」
「だから、今はお眠り」
「うっ……うっ……」
「よしよし。いい子だ」
朦朧とした意識の中、カオルさんの香りと、腕の優しさだけが、僕を包んでくれていた。
たまに長くなります。
第四話の読破、ありがとうございます。