鏡の中の約束
江戸時代末期、京都の老舗呉服屋に伝わる古い鏡があった。その鏡は代々、店の娘たちが婚礼の日に身支度をする際に使われてきた。鏡は美しい銀色の縁取りがされ、磨き上げられた表面は月光のように柔らかな輝きを放っていた。
呉服屋の一人娘、菊乃が婚礼の日を迎えたのは、桜が満開の春のことだった。菊乃は幼なじみの武士、啓介と結ばれることになっていた。二人は幼い頃から互いを想い合っていたが、身分の違いから、この結婚には多くの困難が伴っていた。
婚礼の朝、菊乃が例の鏡の前に座ると、不思議なことが起こった。鏡に映った自分の姿が、まるで別の人のように動き始めたのだ。鏡の中の菊乃は悲しげな表情で、ゆっくりと首を横に振った。
驚いた菊乃が鏡に手を触れると、冷たい水面に触れたような感覚がした。そして次の瞬間、菊乃は鏡の中に吸い込まれてしまった。
鏡の向こう側は、菊乃の知る京都とは違う世界だった。そこは色彩が薄れ、音が反響する不思議な空間だった。そこで菊乃は、鏡の中の自分と対面することになる。
「あなたは誰?」菊乃が尋ねると、鏡の中の自分は悲しげに微笑んだ。
「私はあなたの前世よ。百年前、私もまた大切な人と結ばれる直前だった」
鏡の中の菊乃は、自身の悲劇的な過去を語り始めた。彼女もまた身分違いの恋に落ち、婚礼の日を迎えたが、嫉妬に狂った別の男に命を奪われてしまったのだという。
「私は大切な人との約束を果たせなかった。だからこそ、あなたには幸せになってほしい」鏡の中の菊乃は涙を流しながら言った。
その時、鏡の外から啓介の声が聞こえてきた。「菊乃、どうしたんだ?」
菊乃は我に返り、鏡の中の自分に問いかけた。「どうすれば戻れるの?」
鏡の中の菊乃は優しく微笑んだ。「あなたの幸せを心から願えば、鏡は道を開くでしょう」
菊乃は目を閉じ、啓介との未来を思い浮かべた。幸せな家庭、笑い声の絶えない日々、互いを支え合う人生。
目を開けると、菊乃は再び自分の部屋にいた。鏡に映る自分は、幸せに満ちた表情をしていた。
その日の婚礼は、春の陽光のように明るく温かいものとなった。啓介と手を取り合い、誓いの言葉を交わす時、菊乃は鏡の中で出会った前世の自分を思い出した。
それ以来、菊乃は幸せな日々を過ごしながらも、時折鏡を見ては、そこに映る自分に感謝の言葉を捧げるのだった。そして、鏡に映る自分が微かに微笑むのを見る度に、菊乃は不思議な温かさを感じるのだった。
年月が流れ、菊乃の娘が婚礼の日を迎えた時、菊乃は静かに微笑みながらその鏡を娘に手渡した。鏡は代々の想いを宿しながら、これからも呉服屋の娘たちを見守り続けることだろう。