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燈影草紙

序章:煤けた家禄

明治も半ばを過ぎた頃、東京の、かつては武家屋敷が軒を連ねたという一角も、今やその面影を急速に失いつつあった。新しい時代の波は、古い土塀を崩し、その跡に洋風のペンキ塗りの家や、せせこましい町人の長屋を建てさせた。その喧騒から取り残されたように、古びた一軒の武家屋敷が、息を潜めて佇んでいた。主は、神崎健三郎という名の士族であった 。

この家は、健三郎が父から受け継いだ唯一の財産であった。黒光りする太い柱、歳月を経て飴色になった天井板、そして客間として使われることもなくなった八畳の座敷。それらすべてが、神崎家のかつてのささやかな誇りを、声なく語っているかのようであった 。しかし、その誇りも、もはや過去の遺物でしかない。版籍奉還の後、政府から下賜されたわずかばかりの秩禄は、健三郎が慣れぬ商いに手を出して失敗した際にその大半が消え、今では細々とした暮らしを支えるのがやっとであった 。

健三郎の一日は、静寂のうちに始まり、静寂のうちに終わる。朝は早く、まだ薄暗い庭に出て、亡き妻が愛した小さな草木の手入れをする。昼は縁側に座して書を読むが、その文字は彼の心に深くは届かず、ただ目の上を滑っていくだけである。そして夜。夜こそが、この家がその本来の貌を現す時間であった。

健三郎は、文明開化の象徴として世に広まりつつあった石油ランプを一つだけ持っていた 。行灯のぼんやりとした光に比べれば格段に明るいその灯りも、彼の家の古びた闇を完全に払拭するには至らなかった。ランプを卓袱台の中央に置くと、光は部屋の隅々にまで届かず、濃い影が生まれる。その影は、ランプの芯が吐き出す不規則な息遣いに合わせて、まるで生き物のように揺らめき、踊った 。煤けた柱の陰、古びた箪笥の背後、そして固く閉ざされた妻の部屋の襖の向こう。それらの闇は、昼間には見えぬ深さをたたえ、健三郎の孤独を静かに縁取っていた。

彼は、この揺れる光と影が作り出す世界に、ある種の奇妙な安らぎを感じていた。新しい時代の眩い光は、彼のような過去に取り残された者にとっては、あまりに強く、痛々しい。それに比べれば、この家の、ランプの光が作り出す朧げな世界は、彼の心象風景そのものであった。失われたものへの追憶、未来への漠然とした不安、そして、すべては移ろいゆくという諦念。それらが混じり合った、静かで、物悲しい情調。明治という時代が合理主義と科学の名の下に迷信や怪異を打ち払おうとしている一方で 、健三郎の家は、まるで古い時代の魂が寄り集まるための聖域であるかのように、ひっそりと息づいていた。

第一部:残り香

その年の秋は、ことのほか長く、陰鬱であった。空は鉛色の雲に覆われ、冷たい雨がしとしとと降り続く日が幾日もあった。そんなある夜のことである。健三郎が独り、ランプの灯りの下で夕餉の膳を片付けていると、ふと、どこからともなく甘い香りが漂ってきた。

それは、梅の花の香りであった。まだ寒さの厳しい早春に、他のどの花よりも先に咲き誇る、あの気高く、清冽な香り。しかし、今は霜月も近い晩秋である。庭の梅の木は固い蕾すらつけておらず、このような香りがするはずはなかった。

健三t三郎は箸を置き、鼻をくんと鳴らした。香りは確かに存在する。それは廊下の闇の奥から、まるでためらいがちに、しかしはっきりと漂ってくる。彼は立ち上がり、ランプを手に廊下へ出た。揺れる光が、古い板張りの床を頼りなく照らす。香りは、妻が使っていた部屋の前で最も濃くなるようであった。その部屋の襖は、彼女が亡くなって以来、開かれたことがない。

「風のせいか…」

彼は独りごち、自分に言い聞かせた。どこか遠くの家で咲いた蝋梅の香りが、雨に湿った夜気と共に、この古い家の隙間から迷い込んできたのだろう。そう思うことにした。合理的な説明を求めるのは、この時代の人間としての、いわば習性のようなものであった 。彼は自分の部屋に戻り、何事もなかったかのように残りの膳を口に運んだ。しかし、その夜、彼はなかなか寝付かれなかった。鼻の奥に、あり得べからざる梅の香りが、いつまでも淡く残っていたからである。

それから十日ほど経った夜。雨は上がっていたが、空には雲が垂れ込め、月影一つ見えなかった。健三郎が寝支度を整え、布団に入ろうとした、その時であった。

— さらり。

絹の衣が擦れる音。衣ずれの音であった。それはあまりにも微かで、耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほどであったが、健三郎の耳にはっきりと届いた。音は、やはりあの開かずの間の内から聞こえてくる。彼は息を殺し、闇に耳を澄ませた。家の外では、夜風が竹藪を揺らす音が低く響いている。その音に混じって、再び、衣ずれの音がした。

— さらり、さらり。

まるで、誰かが部屋の中で静かに身じろぎでもしているかのようだ。健三郎の背筋を、冷たいものが走り抜けた。恐怖というよりは、むしろ深い当惑であった。この家には、彼以外に誰もいない。いるはずがないのだ。

その時、音に続き、今度は微かな歌声が聞こえてきた。それは言葉にならない、ただの鼻歌のようなものであったが、その旋律には聞き覚えがあった。妻が生前、繕い物をしながら、あるいは庭の草むしりをしながら、よく口ずさんでいた故郷の古い唄であった。その声は、悲しげで、それでいてどこか懐かしさに満ちていた。

健三郎は、布団の上に座ったまま、身じろぎもせずにいた。危険を予感し、不安が徐々に高まっていく、怪談話によくある心持ちとは少し違っていた 。彼の心を占めていたのは、恐れよりも、むしろ胸を締め付けるような切なさであった。その香りと、音と、歌声は、彼を脅かすものではなかった。それらはむしろ、何かを必死に伝えようとしているかのように、ひたすらに哀しく、優しかった。それは、憎しみから生まれた怨霊の仕業などでは断じてない 。それは、愛の名残、記憶のこだまであった。

第二部:綻びる記憶の絹

その夜を境に、健三郎の世界は静かに変容し始めた。あり得べからざる香りと音は、彼の心の奥底に固く閉ざされていた記憶の扉を、ゆっくりと、しかし確実に押し開いていったのである。彼はもはや、それらの現象を気のせいや偶然として片付けることができなかった。なぜなら、それらはあまりにも鮮やかに、今は亡き妻、花江の面影を呼び覚ますからであった。

ランプの灯りの下で目を閉じると、瞼の裏に、在りし日の光景が甦る。

あれは、まだ二人が祝言を挙げて間もない頃。士族としての体面は保たれていたものの、暮らしは決して楽ではなかった。それでも、そこには穏やかな幸福があった。花江は、口数の少ない女であったが、その眼差しは常に優しく、健三郎への深い愛情に満ちていた。彼女は、この古い家の小さな庭をことのほか愛した。春には菫を摘み、夏には朝顔を育て、秋には縁側から二人で名月を眺めた 。

「あなた。ご覧になって。あの梅の木に、もう蕾が」

まだ雪のちらつく二月の朝、庭先に植えたばかりの若い梅の木を指さし、嬉しそうに言った花江の横顔。その頬は寒さでほんのりと赤く染まっていた。あの時、彼女の髪から漂ってきたのと同じ、清冽な梅の香り。

記憶の糸は、さらに手繰り寄せられる。

明治の御一新は、武士の世を終わらせた。健三郎もまた、刀を置き、髷を落とした。家禄は金禄公債に替えられたが、その価値は年々目減りしていく 。彼は一念発起して始めた商いに失敗し、神崎家の暮らしは坂道を転がり落ちるように困窮していった。

そんな中でも、花江は決して不平を口にしなかった。彼女は黙々と内職に励み、乏しい食卓にささやかな彩りを添えようと努めた。健三郎は、己の不甲斐なさに歯噛みしながらも、そんな妻の健気さに救われていた。彼は気づいていなかったのだ。彼女が、自分の体を蝕む病の気配を、彼にひた隠しにしていることに。

ある日、健三郎が町から帰ると、花江が大切にしていた嫁入りの時の絹の着物が、箪笥から一揃いなくなっていることに気づいた。問いただす彼に、彼女は俯いて、小さな声で言った。

「少し、虫干しに出しておりますの」

健三郎は、その言葉を信じた。いや、信じたかったのだ。彼が、妻が自分の薬代のために、思い出の詰まった着物を一枚、また一枚と手放していることなど、夢にも思わなかった。

— さらり、さらり。

あの夜に聞いた衣ずれの音は、彼女が箪笥から着物を取り出し、名残惜しそうにその絹地を撫でていた時の音ではなかったか。そして、あの鼻歌は。あれは、病の苦しさを紛らわすために、あるいは夫に心配をかけまいと、無理に明るく振る舞っていた時の、あの哀しい旋律ではなかったか。

記憶は、残酷なまでに鮮明であった。やせ細り、日に日に顔色を失っていく妻の姿。それでも彼の前では決して笑顔を絶やさなかった、その痛々しいまでの優しさ。医者に見せる金もなく、彼はただ、なすすべもなく彼女が衰弱していくのを見守るしかなかった。

花江は、秋の長雨がようやく終わった、ある晴れた日の午後に、静かに息を引き取った。まるで眠るように穏やかな死に顔であった。その枕元には、健三郎のためにと編みかけたままの、冬物の羽織が置かれていた。

「…すまなかった」

健三郎の口から、嗚咽と共に言葉が漏れた。何年も忘れていた、いや、忘れようと努めていた涙が、堰を切ったように頬を伝い落ちた。彼は自分の無力さを恥じ、彼女の深い愛情に気づかなかった己の愚かさを呪った。

梅の香りも、絹の音も、哀しい歌声も、すべては花江の魂の囁きであったのだ。それは恨み言ではなかった。ただ、忘れないでほしいという、愛する者への切ない呼びかけであった。彼女は、死してなお、この家に留まり、孤独な夫を案じ続けていたのである 。その霊は、恐ろしいものではなく、あまりにも哀れで、いじらしいものであった。これこそが、古くからこの国に伝わる、物の心を解する者にのみ感じられる、あはれという情なのであろう 。

第三部:彼岸の縁側

涙が枯れ果てた時、健三郎の心には、不思議なほどの静けさが訪れていた。長年彼を苛んできた悔恨と自己嫌悪の棘が、涙と共に洗い流されたかのようであった。彼はもはや、妻の気配を恐れてはいなかった。むしろ、その存在を、いとおしくさえ感じていた。

その夜は、雲一つない、冴え冴えとした満月であった。銀色の光が庭一面に降り注ぎ、木々の葉を白く照らし、縁側の濡れ縁に霜のような模様を描き出していた 。健三郎は、何かに導かれるように、ゆっくりと座敷の障子を開けた。

冷たい夜気が、肌を刺す。

そして、彼は見た。

縁側の、いつも花江が座って月を眺めていた場所に、人影があった。

それは、紛れもなく花江の姿であった。しかし、生身の人間ではない。彼女の姿は、月の光そのもので編まれたかのように、淡く、透き通っていた。輪郭は朧げで、着物の柄も定かではない。顔の造作も、まるで水面に映った影のように揺らいで見えた 。それでも、健三郎には、それが花江であることが、疑いようもなく分かった。彼女は、ただ静かにそこに座り、庭の梅の木を、あるいはその向こうの夜空を、じっと見つめているようであった。

健三郎の心に、恐怖は一片もなかった。ただ、懐かしさと、胸が張り裂けるような切なさだけが、波のように押し寄せてきた。彼は、まるで大切な客人を迎えるかのように、静かに縁側へ下り、彼女から少し離れた場所に、そっと腰を下ろした。

この縁側という場所は、不思議な空間であった。家の中と外とを繋ぐ、あわいの場所。それは、此岸と彼岸、生者と死者とが、束の間、言葉を交わすことを許される、境界の領域なのかもしれなかった 。

「花江」

健三郎は、囁くように呼びかけた。

「ずっと、独りで寒かったろう。…私が、愚かだった。お前の苦しみに気づいてやれず、ただ己の面目ばかりを考えていた。許してくれとは言わぬ。だが、これだけは聞いてほしい。お前の真心に、心から感謝している」

彼の言葉に、花江の幻は答えなかった。ただ、その輪郭が、ほんのわずかに揺らめいたように見えた。それは、風のせいだったのかもしれない。あるいは、彼の涙に滲んだ目のせいだったのかもしれない。

健三郎は、堰を切ったように語り続けた。二人の出会い、ささやかな祝言、貧しいながらも楽しかった日々の思い出。そして、彼女を失ってからの、色のない、空虚な歳月。それは、懺悔であり、追憶であり、そして、今さらながらの恋文であった。

彼は、どれほどの時間、そうして語り続けていただろうか。東の空が、わずかに白み始め、満月がその光を和らげ始めた頃、彼はふと、花江の姿が、先ほどよりもさらに淡く、希薄になっていることに気づいた。彼女の存在は、夜の闇が朝の光に溶けていくように、ゆっくりと、静かに、周囲の気に融け込んでいく。

やがて、彼女の姿は完全に消え失せた。そこには、冷たい夜明けの空気と、庭の梅の木から漂う、幻のような甘い香りだけが残されていた。

怪異は、終わったのだ。それは、経文や御祓いによって退散させられたのではない。ただ、一人の男の心からの言葉によって、満たされ、鎮められたのである。死者の魂が求めるのは、断罪でも、忘却でもない。ただ、生者からの真心のこもった記憶と、感謝の言葉なのだ。その時、魂は怨念から解き放たれ、家と子孫を見守る穏やかな祖霊へと還っていく 。健三郎は、その夜、古くからこの国の民が信じてきた死生観の、その厳かで優しい真理に触れた気がした。

終章:春の雪

冬が過ぎ、再び春が巡ってきた。

あの夜以来、健三郎の家で不思議な出来事が起こることは、二度となくなった。梅の香りも、絹の音も、哀しい歌声も、もう聞こえない。しかし、彼の心は、以前のような空虚な静寂に満たされてはいなかった。そこには、穏やかで、温かい何かが、常に息づいていた。彼はもはや、過去に囚われた亡霊ではなかった。彼は、美しい過去と共に生きる術を学んだのだ。

彼の暮らしは、相変わらず質素で、静かなものであった。しかし、その一日一日は、以前とは違う意味を持っていた。庭の梅の木に水をやり、その幹を撫でる時、彼はそこに花江の温もりを感じた。縁側に座して空を眺める時、彼は雲の形に彼女の笑顔を探した。彼女は、幽霊としてではなく、この家の、そして彼の心の一部として、確かに存在し続けていた。

その年の三月、庭の梅の木は、これまで見たこともないほど見事な花を咲かせた。薄紅色の花びらが、枝もたわわに咲き乱れ、甘い香りをあたり一面に漂わせている。健三郎は、満開の花の下に立ち、その生命の輝きに目を細めた。

その時である。空から、白いものがひらひらと舞い降りてきた。

雪であった。

春の雪。季節外れの、淡雪であった。それは、まるで名残を惜しむかのように、静かに、優しく、満開の梅の花の上に降り積もっていく。薄紅色の花びらの上に、純白の雪が薄化粧を施していく。

健三郎は、その光景を、ただ黙って見つめていた。

生命の絶頂である満開の花と、すべてを終わらせる冬の象徴である雪。温かい春の光と、冷たい雪の感触。その二つが同時に存在する、この世のものとは思われぬほど、はかなく、美しい情景。

それは、喜びとも悲しみともつかない、ただ胸の奥深くを静かに震わせる、深い感動であった。咲き誇るものも、いずれは散りゆく。出会うものも、いずれは別れる。この世のすべてのものは、須臾にして移ろいゆく定めにある。その逃れられぬ真実の中にこそ、この上ない美しさと、尽きせぬ哀しみがある 。

健三郎は、雪に濡れる梅の花を見つめながら、そっと目を閉じた。彼の心には、もはや何のわだかまりもなかった。花江の魂は、今、この美しい光景の中にいる。花の香りとして、雪の冷たさとして、そして、春の陽光として、彼を優しく包んでいる。

彼は、ようやく物のあはれを知る心を得たのであった 。そして、その心で世界を見渡す時、ありふれた日常の片隅にも、いとおしむべき無数の魂が息づいていることに気づくのであった。

ランプの灯りが揺れる夜も、もう孤独ではなかった。影は、ただの影ではなく、優しい記憶の揺らめきとなった。健三郎は、その穏やかな光の中で、残りの人生を、静かに生きていくのであろう。今は亡き、愛する人の思い出と共に。

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