蜃気楼の時空門
明治時代後期、富山湾沿岸の魚津の町に、不思議な噂が広まっていた。春から夏にかけて、海上に幻のような景色が浮かび上がるというのだ。地元の人々はこれを「しんきろう(蜃気楼)」と呼び、古くから海の彼方にある理想郷の姿だと信じていた。
その現象を研究するため、東京から若き気象学者・霧島が調査にやってきた。霧島は、地元の老漁師・浜崎から案内を受けることになった。浜崎は、蜃気楼には特別な力があると主張していたのだ。
ある朝、浜崎は霧島を海岸に連れ出した。海面が鏡のように静かな中、突如として水平線上に奇妙な光景が現れ始めた。遠くの島々が宙に浮かび、見たこともない街並みが波間に揺らめいていた。
「あれは単なる大気の屈折現象ではない。時空の歪みなのじゃ」と浜崎は語った。「昔から、蜃気楼の中に消えていく者がおる。そして、どこからともなく現れる者もおるのじゃ」
科学者である霧島は、そんな話を迷信だと一笑に付した。彼は、温度差による光の屈折で説明できる現象だと確信していた。
しかし、その日の夕暮れ時、霧島は信じられない光景を目にした。蜃気楼の中から、一艘の古い和船が実体化して浜辺に漂着したのだ。船から降り立ったのは、まるで江戸時代から来たかのような姿をした男女だった。
驚愕する霧島に、浜崎が告げた。「蜃気楼は時空を超える門なのじゃ。時に、過去や未来の人々がこの世界に迷い込む。そして…」
その時、霧島の体が徐々に透明になっていくのに気がついた。彼は恐怖に駆られ、浜辺を走り出したが、足が地面から離れ、蜃気楼に引き寄せられていくのを感じた。
「霧島殿!」浜崎が叫ぶ声が遠のいていく。
気がつくと、霧島は見知らぬ世界にいた。そこは、未来の富山のようでもあり、過去の姿のようでもあった。街並みは幻想的で、空には奇妙な乗り物が飛び交っていた。
そこで霧島は、蜃気楼によって運ばれてきた様々な時代の人々と出会った。彼らは皆、自分の時代に戻る方法を探していたのだ。
老賢者のような男性が霧島に語りかけた。「蜃気楼の門は、心に強い想いを持つ者だけが通れる。自分の属する時代と場所を明確に心に描き、それを強く願えば、門は開かれるのじゃ」
霧島は必死に自分の時代を思い浮かべた。魚津の浜辺、浜崎の姿、そして自分の研究のことを。すると、彼の周りの風景が歪み始め、再び蜃気楼の中に吸い込まれていくのを感じた。
目を開けると、霧島は魚津の浜辺に横たわっていた。浜崎が心配そうに覗き込んでいる。
「お帰りなさい、霧島殿。あなたが消えてから、三日が過ぎましたぞ」
それから霧島は、蜃気楼の真の姿を理解した者として、その神秘を守ることを決意した。彼は表向き、蜃気楼を科学的に研究する学者としての立場を保ちつつ、その裏で、時空の門の管理人としての役割を果たすようになった。
今でも、富山湾に蜃気楼が現れる日には、不思議な出来事が起こるという。時代錯誤な人々が現れたり、現代の人が一時的に姿を消したりするのだ。そして、魚津の町には、代々蜃気楼の秘密を守り、時空の迷い人を導く人々が存在すると噂されている。
蜃気楼は、人々の心に驚きと畏怖の念を抱かせ続け、富山の海の最も美しく、そして神秘的な現象として、今もなお人々を魅了し続けているのだ。




