鳴竹の怨
明治も終わりに近づいた頃、出雲の山深い村に一人の旅人が訪れた。その男の名は昌治といい、古い伝承や言い伝えを収集することを生業としていた。村に着いた昌治は、まず庄屋の家を訪ねた。そこで彼は、この村に伝わる奇妙な話を耳にしたのである。
「この村の奥にある竹林では、夜になると不思議な音が聞こえるそうだ」と庄屋は語った。「その音は、まるで女の泣き声のようだという。村人たちは恐れて、日が暮れるとその竹林には近づかない」
昌治は興味をそそられた。「その竹林に、何か言い伝えでもあるのですか」と彼は尋ねた。
庄屋は深いため息をついて答えた。「そうだな。昔々、この村に美しい娘がいたそうだ。その娘は、竹細工の名人だった若者と恋に落ちた。二人は固い約束を交わし、結ばれる日を心待ちにしていた」
「しかし」と庄屋は続けた。「ある日、その若者が竹を取りに行ったきり、帰ってこなくなってしまった。娘は毎日のように竹林に通い、若者の名を呼び続けた。そうして幾月も過ぎ、ついには娘も姿を消してしまったという」
昌治は身を乗り出して聞いていた。「それで、その後はどうなったのですか」
「それ以来、竹林からは夜な夜な泣き声が聞こえるようになったのだ。村人たちは、娘の魂が今も若者を探し続けているのだと信じている」
昌治は、この話に強く惹かれた。彼は是非ともその竹林を訪れ、自分の耳で不思議な音を確かめたいと思った。
翌日、昌治は村人の案内で竹林への道を教えてもらった。しかし、誰一人として彼に同行しようとはしなかった。
「気をつけて行っておくれ」と、年老いた村人が言った。「日が暮れる前に戻ってくるんだぞ。夜の竹林は、この世のものとは思えぬ」
昌治は、その忠告に軽く頷いて答えた。「ご心配なく。必ず日没前には戻ってまいります」
しかし、彼の心の中では、夜の竹林こそ見たいという思いが強くあった。
昌治は、村はずれの細い山道を登っていった。道の両脇には、鬱蒼とした木々が生い茂っている。時折、山鳥の鳴き声が聞こえるだけで、辺りは静寂に包まれていた。
やがて、道は開けて一面の竹林となった。夏の日差しを遮る竹の葉が、そよ風に揺れて心地よい音を立てている。昌治は、この平和な光景に、噂に聞いた不気味な話が嘘のように思えた。
彼は竹林の中を歩き回り、何か変わったものはないか探した。しかし、日が傾き始めても、特に奇妙なものは見つからなかった。
「やはり、あれは単なる言い伝えだったのか」と、昌治は少し残念に思いながら、帰り支度を始めた。
その時だった。
かすかな風が吹き、竹がこすれ合う音が聞こえた。しかし、その音は次第に変わっていった。まるで、誰かが泣いているような音に。
昌治は、その場に釘付けになった。彼は耳を澄まし、音の正体を確かめようとした。
すると突然、彼の目の前の竹が大きく揺れ、その間から一人の女性が現れた。
女性は、古い時代の着物を身にまとい、長い黒髪を風になびかせていた。その姿は半透明で、月光がすけて見えた。
昌治は息を呑んだ。彼は、目の前に現れたのが人間ではないことを直感的に理解した。
女性は悲しげな表情で昌治を見つめ、か細い声で語り始めた。
「あなたは、私の声を聞いてくださったのですね。長い間、誰も私の声に耳を傾けてくれる人はいませんでした」
昌治は、恐怖と好奇心が入り混じった感情で、女性に問いかけた。「あなたは...伝説の娘なのですか?」
女性はゆっくりと頷いた。「そうです。私は、愛する人を待ち続けているのです。彼は、きっと私を探しに来てくれるはず。だから、私はここで待ち続けなければならないのです」
昌治は、哀れみの気持ちを抑えきれなかった。「しかし、もうそれほど多くの時が過ぎています。あなたの愛する人は、もうこの世にはいないかもしれません」
女性の表情が、一瞬苦痛に歪んだ。「そんなはず...ありません。彼は必ず戻ってくると、約束したのです。私は、その約束を信じています」
昌治は、何か言葉をかけようとしたが、適切な言葉が見つからなかった。
そのとき、女性の姿がさらに透明になっていくのが見えた。
「もう、夜が明けます」と女性は言った。「私は、また竹の中に戻らなければなりません。でも、あなたに会えて嬉しかった。久しぶりに、誰かと話せた気がします」
女性の姿が消えかけたとき、昌治は思わず叫んだ。「待ってください! あなたのお名前を教えてください」
かすかに聞こえる声で、女性は答えた。「私の名は...篁。忘れないでください...」
そして、女性の姿は完全に消えた。周囲には再び、朝もやの立ち込める静かな竹林だけが広がっていた。
昌治は、その後も何度か竹林を訪れたが、二度と篁の姿を見ることはなかった。しかし、夜になると確かに竹のこすれる音の中に、かすかな泣き声が混ざっているのを聞いた。
彼は村に戻り、篁の話を村人たちに語った。多くの人々は、昌治の話を半信半疑で聞いていたが、中には涙ぐむ老人もいた。
「私の祖父が、その娘のことを話してくれたことがあったのを思い出した」とその老人は言った。「娘の名は篁。そして、彼女の恋人は竹細工の名人で、遠い都にその技を見込まれて旅立ったのだという。しかし、その後音信不通となり、二度と村には戻ってこなかった」
昌治は、自分が聞いた篁の物語が、確かに実在の人物のものだったことを知り、胸が痛んだ。
その後、昌治は篁の話を書き記し、広く世に伝えた。彼の著書は多くの人々の心を打ち、竹林を訪れる人も増えた。
しかし不思議なことに、篁の泣き声は次第に聞こえなくなっていった。代わりに、穏やかな竹のさざめきだけが聞こえるようになったのだ。
村人たちは、昌治の行為によって篁の魂が鎮められたのではないかと噂した。彼女の物語が多くの人に知られ、彼女の想いが受け止められたことで、彼女は安らかに眠りについたのかもしれない。
昌治は、その後も日本各地を旅して不思議な話を集め続けた。しかし、彼の心の中で最も鮮明に残っていたのは、あの夜の竹林で出会った篁の姿だった。
彼は時折、ふと立ち止まっては竹林を見上げることがあった。そんな時、微かな風に揺れる竹の葉音の中に、篁の切ない想いが今も残っているような気がしたのである。
そして、彼はいつも心の中でつぶやくのだった。
「篁よ、あなたの物語は決して忘れられることはない。あなたの深い愛と、果たされなかった約束は、永遠に人々の心に生き続けるだろう」
今でも、出雲の山奥にあるその竹林を訪れる人々がいる。彼らは、静かな竹林の中に佇み、風に揺れる竹の葉音に耳を傾ける。そして、その音の中に、はるか昔に生きた一人の娘の、永遠の想いを感じ取るのである。




