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幽霊の花嫁

吾輩は今、筆を取りながら、この奇怪なる物語を書き記そうとしている。これから語る出来事は、遠い昔のことではない。むしろ、つい先日のことと言っても過言ではないだろう。しかし、その内容たるや、常識では到底理解し難いものである。


私は、日本の片田舎にある古い旅館に滞在していた。その旅館は、深い森に囲まれた山間の温泉地にあり、周囲には人家もまばらで、静寂に包まれていた。旅館の主人は、年老いた夫婦で、その人柄は温厚であり、客人に対する心遣いも行き届いていた。


ある夜のこと、私は夕食後に露天風呂に浸かっていた。満月の光が湯面を銀色に染め、周囲の木々のざわめきが心地よい。そんな中、ふと耳に入ってきたのは、遠くから聞こえてくる三味線の音色であった。その音色は哀調を帯び、どこか物悲しげであった。


好奇心に駆られた私は、湯から上がると、音の源を探しに出かけることにした。浴衣に着替え、下駄を履いて、旅館の外へと足を踏み出す。三味線の音は、旅館の裏手にある小道から聞こえてくるようだった。


月明かりを頼りに、私はその小道を進んでいった。道は次第に細くなり、やがて鬱蒼とした森の中へと続いていく。三味線の音は、まるで私を誘うかのように、時に強く、時に弱く響いてきた。


小一時間ほど歩いただろうか。突如として、私の目の前に一軒の古びた家が現れた。その家は、月光に照らされて、幽玄な雰囲気を醸し出していた。三味線の音は、まさにこの家から聞こえているようだった。


躊躇いながらも、私は家の入り口に立った。そっと障子を開けると、驚くべき光景が目に飛び込んできた。部屋の中央には、白無垢姿の若い女性が座っていた。彼女の手には三味線が握られており、その指が繊細に弦を弾いていた。


女性は、私の気配に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。その瞬間、私は息を飲んだ。彼女の顔は、信じられないほど美しかったが、同時に深い悲しみに満ちていた。そして、その顔は、まるで月光のように透き通っているように見えた。


「お待ちしておりました」と、女性は微笑んだ。その声は、まるで風に揺れる風鈴のように、かすかに響いた。


私は言葉を失った。この状況が現実なのか、それとも夢なのか、判断がつかなかった。


女性は三味線を置き、ゆっくりと立ち上がった。「私の名は菊乃。あなたに、私の物語を聞いていただきたいのです」


菊乃の物語は、哀しく、そして恐ろしいものだった。彼女は、かつてこの地域で最も美しいと評判の娘だった。多くの男性が彼女に求婚したが、彼女の心を射止めたのは、ある武士の息子だった。二人は深く愛し合い、やがて婚約の約束を交わした。


しかし、その幸せは長くは続かなかった。婚礼の前日、その武士の息子は、敵対する家臣との争いに巻き込まれ、命を落としてしまったのだ。菊乃は深い悲しみに暮れ、婚礼の日、白無垢姿のまま、この家に籠もった。そして、婚礼の日から百年もの間、彼女は三味線を弾き続け、愛する人の帰りを待ち続けていたのだという。


「私は、あなたに似た方を百年待ち続けていました」と菊乃は言った。「あなたは、私の婚約者の生まれ変わりなのです」


その言葉に、私の背筋に冷たいものが走った。菊乃の姿が、徐々に透明になっていくのが見えた。そして、彼女の手が、私の手に触れようとした瞬間―


「旦那様、大丈夫でございますか?」


私は、突然の声に目を覚ました。目の前には、旅館の女中が心配そうな顔で立っていた。


「旦那様、露天風呂で眠ってしまわれていましたよ。風邪を引いてしまいます」


私は、混乱しながらも湯から上がった。体は冷え切っており、指はしわくちゃになっていた。どうやら、私は露天風呂で眠ってしまっていたようだ。


しかし、耳には依然として三味線の音が残っていた。そして、手には、一輪の菊の花が握られていた。


翌朝、私は旅館の主人に、昨夜の出来事について尋ねてみた。主人は、驚いた表情を浮かべながら、こう語った。


「その話は、この地方に伝わる古い伝説でございます。百年前、ある娘が婚礼の日に花婿を失い、悲しみのあまり亡くなったという話です。その娘の名は、確か菊乃といったはず…」


私は、思わず手の中の菊の花を見つめた。それは、昨夜握っていたものと同じだった。


その日、私は急いで旅館を後にした。しかし、耳には今でも、かすかに三味線の音が聞こえる気がする。そして時折、月明かりの中に、白無垢姿の女性の姿を見る気がするのだ。


この物語が真実なのか、それとも単なる幻想なのか、私にはもはやわからない。ただ、この世界には、我々の理解を超えた何かが確かに存在するのだと、私は今でも信じている。


そして私は、いつかまた、あの三味線の音に導かれ、菊乃に会いに行くのかもしれない。その時、私は彼女の手を取り、百年の時を超えた愛の物語に、終止符を打つことができるだろうか。


それとも、私もまた、永遠に続く待ちの時間の中に取り込まれてしまうのだろうか。


その答えは、誰にもわからない。ただ、月明かりの夜に、どこからともなく聞こえてくる三味線の音に、耳を澄ますことしかできないのだ。

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