「親知らず子知らず」
静謐な夜、満月の光が海面を銀色に染め上げていた。波の音だけが響く寂寥とした海岸線に、一人の旅人が佇んでいた。彼の名は源太郎。都会の喧騒を逃れ、心の安らぎを求めてこの辺鄙な海辺の村にやってきたのだ。
宿で夕食を取りながら、源太郎は地元の古老から、この浜辺にまつわる奇妙な言い伝えを耳にした。「親知らず子知らず」と呼ばれるこの浜は、昔から不思議な出来事の舞台だったという。好奇心に駆られた源太郎は、月明かりを頼りに浜辺へと足を運んだのだった。
潮の香りが鼻をくすぐる中、源太郎は砂浜に腰を下ろした。遠くに灯台の光が瞬いている。波の音を聞きながら、古老から聞いた言葉を反芻する。
「この浜では、月が満ちる夜に不思議なことが起こるんじゃ。親を失った子と、子を失った親が出会うという。だが、互いを認識することはできん。それゆえ『親知らず子知らず』と呼ばれておる」
物思いに耽っていた源太郎の耳に、かすかに子供の泣き声が聞こえてきた。初めは幻聴かと思ったが、確かに聞こえる。声の主を探そうと立ち上がり、波打ち際へと歩み寄った。
月明かりに照らされた砂浜に、一人の幼子が座っているのが見えた。4、5歳ほどの男の子だ。波に濡れた着物を纏い、すすり泣いている。源太郎は不思議に思いながらも、幼子に声をかけた。
「どうしたんだい? 迷子かい?」
幼子は顔を上げ、涙目で源太郎を見つめた。その瞳には、言い表せない深い悲しみが宿っていた。源太郎が手を差し伸べようとした瞬間、突然、海から大きな波が押し寄せてきた。
「危ない!」
源太郎は咄嗟に身を引いたが、波は既に彼の足元まで迫っていた。波が引いた後、幼子の姿は消えていた。
驚きと困惑に包まれる源太郎。しかし、それはまだ始まりに過ぎなかった。
波が引いた砂浜に、今度は一人の老婆が膝を抱えて座っていた。皺だらけの顔に、長年の悲しみが刻まれているようだ。老婆は源太郎を見ると、かすれた声で尋ねた。
「あんた、わしの子を見なかったかい?」
源太郎は先ほどの幼子のことを話した。すると老婆は悲しげに微笑んだ。
「そうか、またあの子が来たのか...」
老婆の目に涙が光る。源太郎は混乱しながらも、老婆に尋ねた。
「おばあさん、一体どういうことですか? さっきの子はあなたの...?」
老婆は深いため息をつき、語り始めた。
「わしの息子は、60年前の嵐の夜に海に消えたんじゃ。漁に出たきり、帰らぬ人となった。あの子が最後に見た景色が、この浜だった」
老婆の声は悲しみに震えていた。
「それからというもの、満月の夜になると、あの子がこの浜に現れるようになったんじゃ。だが、わしには触れることも、声をかけることもできん。ただ遠くから見守ることしかできんのじゃ」
源太郎は息を呑んだ。古老から聞いた言い伝えが、現実となって目の前で起きていたのだ。
老婆は続けた。「この浜には、わしたちのような魂が集まるんじゃ。子を失った親、親を失った子。互いを求めながらも、永遠に巡り会えない。それが『親知らず子知らず』の浜に秘められた悲しい宿命なんじゃ」
源太郎の目に涙が溢れた。人知を超えた悲しみの物語に、言葉を失う。
「だが、わしらは諦めちゃおらん。いつかきっと...」
老婆の言葉が途切れた。源太郎が我に返ると、老婆の姿はなく、ただ波の音だけが響いていた。
月明かりに照らされた浜辺には、幾筋もの足跡が残されていた。大人の足跡、子供の足跡。親と子の、永遠に交わることのない足跡が、砂浜一面に刻まれていたのだ。
源太郎はしばらくその場に立ち尽くしていた。やがて、東の空が白み始める。夜が明けると共に、不思議な出来事の痕跡も消えていった。
宿に戻った源太郎は、一睡もできなかった。翌日、彼は古老を訪ね、昨夜の出来事を語った。古老は深くうなずき、こう言った。




