月夜の約束
京都の古刹、清水寺の奥にある小さな庵。そこに住む一人の僧侶、清明は、毎夜、月が昇る頃になると庭に出て、亡き妻・小夜の供養をしていた。
清明と小夜の縁は、十年前の春に遡る。清明がまだ若く、僧侶になる前のことだった。彼は清水寺を訪れた際、桜の花びらが舞う中、小夜と出会った。彼女は寺で奉公する娘で、その慎ましやかな佇まいと優しい笑顔に、清明は一目で心を奪われた。
二人は互いに惹かれ合い、やがて結ばれた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。結婚から五年後、小夜は突然の病に倒れ、あっという間に命を落としてしまったのだ。
悲しみに暮れた清明は、妻との思い出が詰まった清水寺で僧侶となることを決意した。そして毎晩、小夜との約束を守るように、月を見上げては彼女のことを想い続けた。
ある秋の夜のこと。いつものように庭に出た清明の耳に、かすかな足音が聞こえてきた。はじめは風の音かと思ったが、次第にはっきりとした人の歩む音になっていく。
清明が振り返ると、そこには白い着物をまとった女性の姿があった。月光に照らされたその顔を見て、清明は息を呑んだ。紛れもなく、それは五年前に他界した妻・小夜だったのだ。
「小夜...?」清明の声は震えていた。
小夜は優しく微笑み、清明に近づいてきた。「清明様、お久しぶりです」
その声を聞いた瞬間、清明の目から涙があふれ出た。小夜の姿は幽かに透けており、まるで月の光で作られているかのようだった。
「どうして...どうしてここに?」清明は混乱しながらも、喜びを隠せずにいた。
小夜は静かに答えた。「あなたの想いが、私を呼び戻したのです。毎晩、私のことを想って供養してくださっていることはよく分かっています。その強い思いが、この世とあの世の境を越えて、私を引き寄せたのです」
清明は小夜の手を取ろうとしたが、その手はすり抜けてしまった。小夜は悲しそうな表情を浮かべ、「私はもうこの世の者ではありません。触れることはできないのです」と言った。
それでも清明は喜びを感じていた。「小夜、一緒に月を見よう。昔のように」
二人は庭の石畳に腰を下ろし、満月を見上げた。清明は小夜との思い出を語り、小夜も時折微笑みながら頷いていた。月の光に照らされた二人の姿は、まるで絵巻物の一場面のようだった。
しかし、夜が更けるにつれ、小夜の姿はだんだんと薄くなっていった。
「もう、行かなければなりません」小夜の声も、次第に遠くなっていく。
清明は慌てて小夜の手を掴もうとしたが、やはり空を掴むだけだった。「行かないでくれ、小夜!もう少しだけ...」
小夜は悲しげな表情を浮かべながらも、優しく微笑んだ。「清明様、私たちの愛は永遠です。でも、もう私を呼ばないでください。安らかに眠らせてください」
「しかし、小夜...」清明の声は震えていた。
「あなたの供養のおかげで、私は成仏することができました。でも、あまりに強い想いは、私の魂を引き留めてしまうのです。私はあなたを見守っています。どうか、前を向いて生きてください」
小夜の姿は、朝日の最初の光と共に消えていった。最後に残ったのは、かすかな桜の香りだけだった。
清明は長い間、小夜が消えた場所を見つめていた。悲しみと共に、これが最後の別れだという覚悟が彼の心に芽生えた。
その日から、清明は毎晩の供養を続けたが、もう小夜を呼び戻そうとはしなかった。代わりに、彼女の冥福を祈り、自らの人生を全うすることに努めた。時折、月明かりの中に小夜の姿を見たような気がすることもあったが、それは彼の想像だったのかもしれない。
月日は流れ、清明も老いていった。そして彼の最期の時、枕元に小夜の幻影が現れ、優しく微笑んだ。清明は安らかな表情で目を閉じ、二人の魂は月の光に包まれながら、永遠の時を過ごすために旅立っていったのだった。