16 半井と才華
それにしても普通に派遣社員で働いてるだけなんだけど、気をつけなきゃいけないことが増えた。小遣い稼ぎにそういったことをやりたがる奴は大勢いる、誰かが稼げば自分にもできると簡単に真似をする。別れさせ屋とか、出世しそうな同期を陥れてくれとか、こいつの受験を失敗させてほしいとか。誰かに必ず迷惑をかけるやばい仕事というのはいくらでも転がっている。
そういうのは必ずコントローラーがいるはずだ。管理したり指示してる奴ほどそっちの世界に足を突っ込んでるやつなんだけどな。
咄嗟に自分のカバンに入れてしまっていた才華の手記。引き出しにしまうことができなくて自分のカバンに入れたんだけどいまだに俺が持ったままだ。全てじっくり眺めている時間もなかったから、昨夜改めて全部見たんだけど。それの最後に書かれていた内容を眺める。
『世の中透明感があるっていう表現があるけど嘘だと思う。具体的に透明感があるってどういうことって聞いてみると説明できない人がほとんどだ。透き通っている、みずみずしさがある、すっきりしていて気分が良い、そんな感じだろう。
透明であることの失望感と危機感は、本当に無色透明なやつじゃないとわからないものだ。比喩表現で軽々しく透明感があるなんて使わないでほしい。化粧なんて特にそうだ、顔に絵の具のようなものを塗りたくっておいて透明感があるってなんだよ、意味がわからない。
べたべたべたべた、化粧、服、髪の色、アクセサリー、カバン、靴。いろんな色を自分に塗りたくってごちゃごちゃとよくわからない存在になっているのに、透明感があるっていうのを褒め言葉として使っている。何なんだろうな、やめて欲しい。腹の底から苛つく』
自分が無色透明であることを自覚していた。自分の生きたいように自分を作り替えていたらそうなってしまったんだろう。でもこの文章からは色鮮やかに、ごく普通に生きている人たちへの素直な羨望が伺える。
馬鹿にしているわけでも嫌っているわけでもない、そうなれなかったことへの虚無感しか伺えない。私太ってるからと言う女に本当だ太ってるねと言うとキレる。私ブスだからと言う奴に本当にブスだと言うと言い返してくる。俺って服のセンスないからさと言う人に対してマジでダサイねって言うと舌打ちする。そういった連中とは明らかに違う。
自虐ネタで本当は心の底から思ってもいないことを、自分を下げて見せることで相手を優越感に浸らせる。そんなことないよ、と言って欲しいから。自分はちょっとかわいそうな奴だと気にかけてもらうための材料にする。そういった連中がまるで理解ができない、でもどこか羨ましくもある。そんな気持ちが見て取れる。
もしも、こうなら、そうしていれば。たら、れば、を考えるのは一秒だって無駄だ、その選択をしなかったし実際そういう生き方をしてこなかった。自分の選んだ道以外の選択肢が、自分の選んだとのよりも幸せの道だって信じて疑わない。
そんなはずないのにな。自分の選んだ道が実は最善だったかもしれないと誰も考えない。
そういった意味では才華は自分自身を蚊帳の外に置いてものすごく客観的に見てきた、分析もしていた。自己評価があまりにもできすぎている、だからこそ何もない。こういう家庭環境の人間は探せば世の中に何百人といるはずなのに、自分自身を消してしまうような考え方や生き方を選択する奴はほとんどいないだろう。これから彼は、これからも無職透明であり続ける。
そういった意味では俺とよく似ている。俺よりもずっと実力がある有栖川さんとは真逆だ。今回俺がこの依頼をこなすのは確かに、すべての事情を知っていたら絶対に避けるべきだった。
俺はいつだって無色透明に足を突っ込んでいるのだから。そうならずに済んでいるのはこの派遣会社に勤めることで自分の枠組みを作ってる。へたくそなアーティストのように絵の具をベタベタ塗りたくっているからだ。仕事によってキャラクターは使い分けているが最近はこの「半井宗」が一番居心地が良い。それは半井宗が、ちょっと透明に近い不透明な人間だから。
写真で言うとピンボケみたいなものだ、不確かで中途半端ではっきりしなくて。でもだからこそ確かにそこに存在している。それがわかったから才華も、駅で俺を見て自分から駆け寄ってくることをしたんだと思う。身体が咄嗟に動いていた。なんだこいつ? そう思ったんだろうな、俺もそう思うよ。
手記は丁度真ん中のページで終わっている。本当によく観察しないとわからなかったけど、これ中心にあったページがまるまる一枚分切り取られている。有名文具メーカーのノートだ、これの枚数は四十枚のはずなのに三十八枚。閉じた時、中央の微妙な開き具合に違和感があって気が付いた。