救国の聖女のはずが、敵国に寝返る黒騎士団長と一夜をともにしてしまいました。
――そうこれは一夜の過ちから始まる物語。
聖女の一日は、まだ朝日が昇る前から始まる。
日が昇る直前に仄かに光る星を見つめ夜の精霊に祈りを捧げ、日が昇れば陽光の精霊に祈りを捧げる。
静かに、緩やかに、感謝に包まれて過ごす。それが聖女の日常だ。もちろんそれが昨日までの私の日常でありすべてだった。
「……ど、どうしてこんなことに」
朝日が昇る前に目を覚ました私は、隣に眠る黒髪の超絶イケメンの隣で体をこわばらせた。
彼の瞳が開いたなら瞳射すくめられてしまいそうな鋭い金色の瞳だということを私はもう知っている。
そして、昨夜はその瞳はどこまでも私のことを慈しむように甘く細められていたことも。
起こさないように細心の注意を払い、白くて装飾のない衣服をかき集め、それらを何とか身につけると、私は部屋をそっと抜け出した。
――この国レザリアの北端、辺境の街の路地裏にある隠れ家のような宿屋。
そこを飛び出すと、初雪がちらついていた。
私はまだ誰もいない辺境の街をよろけながら駆け抜けたのだった。
***
私、シュリアは辺境にある小さな神殿に勤めるしがない巫女だ。
そして、ゆくゆくは救国の聖女になる。
(今朝取り戻してしまった記憶によれば……)
巫女が一人しかいない小さな神殿の何もない部屋に転がり込む。
「……どうして、よりによって、一夜のお相手が敵国に寝返る黒騎士団長レイブン・ウィザー様なのよ!? そもそもシュリアは清らかな救国の聖女だったはずよね?」
今の私は王国の外れの小さな神殿のしがない巫女で、まだ救国の聖女だと呼ばれているわけではない。
中央神殿に神託が降りて、見いだされた私が救国の聖女に任命される物語の始まりは、花が咲き誇る暖かい日だったはず。
今は、初雪が散り始めたばかりなのだから、まだ三ヶ月ほど猶予があるだろう。
私が救国の聖女になることは、ゲームの世界であるこの世界の決まり事なのだ。
「……この世界だけでなく、前世も含めてはじめてだったのに」
記憶を取り戻した今、彼が私の推しであったことも知っている。
ゲームの中の彼はメインヒーローではない。それでも、金色の瞳と黒い髪を持つ彼に私は……。
(課金した……!! 全身全霊、自由になるお金のすべてをかけて!!)
推しを目の前に、記憶を取り戻していなくても、その誘いを断るなんてできなかった。
あの瞳に見つめられると、拒否なんてできるはずもない。
もちろん、昨晩なぜか、理由を説明できない強い孤独感にさいなまれていたのだとしても……。
『愛している……』
その低くて甘い声と、その言葉は私から自由を奪ってしまった。
「……絶対寝返ったレイブン様と戦場で相まみえて戦ったりしない! 不幸な結末なんて認めない……」
レイブン様にはハッピーエンドはない。
推しが被る不幸な結末。戦場で相まみえる、かつて愛し合った悲劇の二人のメリーバッドエンドがゲームに定められた未来なのだから。
***
思い出した記憶は、私を混乱させるに十分だった。
聖女として生きてきた日々、それはこの道が正しいという一点の曇りもない信念の上に成り立っていた。
けれど私は多種多様な価値観の存在を知ってしまった。神殿の奥に籠もり、祈りを捧げているかぎり、決して知るはずのなかった価値を……。
「レイブン様が敵国に寝返らなければ良いのだけれど」
けれど、それは難しいことを私はもう知っている。シナリオでは、聖女を守る騎士だったレイブン様は、呪いにより心を蝕まれ、この国のすべてを憎むようになった。
彼の母は聖女で王族に嫁いだけれど、便利な駒として利用され魔力を使い果たせば最後にはうち捨てられた。そして彼自身も王族の呪いを引き受ける器にされてしまったのだ。
敵として戦場で相まみえ、最期の時に語られるレイブン様の真実。どんなに探しても見つからなかったハッピーエンド。
「……寝返らないのが無理なら、私も一緒に」
そっと手のひらを見つめれば青白いほのかな光が浮かび上がる。私の生まれは孤児院で、この力を持つからこそ大切な場所を守ることができている。
「でも、私は大切な人たちを見捨てられない……」
私は昨夜の出来事をなかったことにすると決めた。そして、救国の聖女にならないと決意したのだった。
シナリオで出会うより早く、私と出会い一晩をともにしたことで、彼を蝕む呪いが解けて黒騎士団長が隣国に寝返らないという、物語の大幅な路線変更が起きるなんて思いもよらずに……。
***
早朝に泉まで水を汲みに行き水の精霊に祈りを捧げる。薪を拾い火を焚いては火の精霊に祈りを捧げ、空を仰ぎ見れば風の精霊に祈りを捧げる。
美しい一輪の花を見れば土の……。
(土の……。あら、祈りを捧げようと思ったのに、花が摘まれてしまった)
見つめていた白い花が、長い指先に摘み取られた。残念に思って顔を上げた私は、体をこわばらせる。
動けない私を優しく見つめ、黒い騎士服を着た人が、ゆっくりと近づいてくる。
その人は私のオーロラに輝く白銀の髪に、可憐で素朴な白い花を挿した。
「――ようやく見つけた」
実は私の知っているゲームの展開であれば、もう隣国に寝返っているはずのレイブン様。
けれど、いつまでも前線で活躍していらっしゃるから、しかも最近は英雄と呼ばれ始めたものだから、おかしいな、とは思っていたのだ……。
そんな私の困惑なんてもちろん知らないだろう。
レイブン様は私の髪をそっと手のひらにのせて口づける。
そして私を見上げてきた金色の瞳が獲物を見つけた猛獣のように細められたものだから、思わず後ずさりたくなる。
「レイブン様……」
「おや、あの夜出会っただけの俺の名前を知っていたのか……?」
「……それは、黒騎士団長様は有名ですから」
「つれないな? あんなにあの夜激しく……」
「わ、わー!?」
どうしてあんなに積極的になってしまったのか、今でも困惑している。
でもあの日、この世界にたった一人で取り残されたように思えて人肌を求めてしまったのだ。
今思えば、それは記憶を取り戻す予兆だったのかもしれない。
(そして、記憶を取り戻す前であっても、推しの魅力は絶大だった)
「会いたかった」
「んっ!?」
強引に重ねられた唇。
流れ込んでくる魔力は、あの夜に比べて清浄で温かい。
あの日、レイブン様の魔力はどこか薄暗く悲しくなるほど冷たかったというのに……。
唇が離れると、安堵すると同時にこの世界にたった一人になってしまったような孤独が押し寄せる。
もう一度口づけしてほしいと願っている。そのことを否定できない。
「君のおかげで、戦う度に重くなっていった呪いが解けた」
「……偶然ではないのですか?」
「……中央神殿の神託に寄れば、真の聖女が生まれているらしいな。彼女は全ての汚れを祓い、世界を救い出すという……。そして目撃情報に寄れば、その聖女は珍しいオーロラの光を帯びた白銀の髪とアイスブルーの瞳を持つという。まるで、あの夜出会った彼女のようだな?」
「そ、そうなのですねー」
棒読みになってしまった自覚はある。
悲劇が起きると知っていて何もしないということに罪悪感がありすぎて、名前と素性を隠して聖女が活躍するべき場所にそっと馳せ参じて事件を解決していたことは……墓場まで持って行くつもりの秘密なのだ。
「君が望むなら全てを隠し通そう……。君の許可なくそれらの情報が漏れることがないように情報統制は完璧に行っているんだ」
「ありがとうございます?」
「君のためなら隣国に寝返るも、この国を手中にするも……」
「……普通の騎士団長様のままでいていただけると嬉しいです」
そうすれば、レイブン様といつか戦場で対峙することを恐れ、隠れ暮らす必要もないのだ。
物語からは大きくズレてしまった。
――呪いが解けた黒騎士団長は聖女とともに……。
でもこのあと、メリーバッドエンドを回避した英雄と聖女がどんな結末を迎えるのかなんて、私はもう知りようがない。
お姫様のように横抱きに抱き上げられて、頭頂部に軽く落ちてきた口づけ。
「そばにいてくれないか……。君を愛してしまったんだ」
推しからの言葉は威力が高すぎて、首を縦に振る以外の行動は全て封じられてしまった。
――これは一夜の過ちから始まる物語。
黒騎士団長はこの国を守る英雄になり、救国の聖女は必要とされない。
物語の中で時々美しい髪をした聖女が活躍するとしても、それはあくまで正体不明の聖女なのだから。
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