第二章 第2話
船室のドアが、一定のリズムかつ壊れるほどの勢いで叩かれるなか、ディアスはため息をついて応える。
「今行くから、そこで待っててくれ」
「早くしないと着いちゃうよ〜!」
ドアのノックにメルルの声が混ざる。
起床したばかりのディアスがドアを開けようと手を伸ばしたところで、扉に穴が空いて裏拳が飛び込んできた。
避ける間も無く激痛に襲われ、顔を顰めて額を抑える。
「ディアスさま。申し訳ありません」
「メルル。俺にリボータルの血が流れてなかったら、額の骨が陥没して……何でアルフェが謝るんだ」
部屋の前にいたのはメルルとアルフェ。
ノックしていたのが誰か分かり怒りが霧散する。
「そんな眉間に皺寄せると父様みたい」
思い出し笑いをするメルルを見ていると、一度散った怒りが集まってくるような気がする。
「メルル様に非はありません。私が力が強すぎたのがいけなかったのです。叱責するならどうか私を」
ディアスは伸びてきた顎髭を撫でる。
「分かった。アルフェは悪くない。それに子供の悪戯でめくじら立てるほど俺は子供じゃないしな」
メルルは頬を膨らませる。
「ディアスの方が歳下じゃん」
「大人か子供かは年齢じゃ測れない。その時の行動で決まるんだよ」
「はいはい。子供の負け惜しみね」
ディアスとメルルの視線は正面衝突し、今にも火花が散りそうだ。
「メルル様。早く甲板に出ないと街に着いてしまいます。それとディアス様。船長がお呼びです」
仲裁が入ったことで、火花で船が火事になるのだけは回避することができた。
「そうだった。こんなことしてる場合じゃなかった! 早く上に行きましょ」
機嫌が悪かったのも一瞬のこと、メルルはディアスの手を引いて階段を登る。
その力はアルフェに負けず劣らずだった。
甲板に出ると、最初に出迎えたのは強い陽射し。手で庇を作り船長を探す。
停泊の準備だろうか、デッキ上では船員達が汗を流しながら慌ただしく動いている。
シャツの上から隆起する筋肉が大きく盛り上がり、露出した部分にはタトゥーが彫り込まれている。恐らく船員全員リボータルなのだろう。
「ディアスほら、アレ見て! アレ!」
女性の裸婦像が象られた船首でメルルが進行方向を指し示す。
「巨人よ。しかも二人も!」
「ああ、巨人だな」
二人が感嘆の声を上げたのは二つの石像で、船を迎え入れるように港の北端と東端に立って松明を掲げていた。
手に持つ松明は激しく燃え盛り、陽の光の下でもはっきりと見える。
大きさは定かではないが、もし動いたら今乗っている船を軽々と持ち上げてしまいそうだ。
「リボータルって凄いわ! あんな巨人を作っちゃうんだから」
メルルは素直に感動している様子で続ける。
「そうだ。帰ったらエレナへ・キャルマにメルルの石像を作ってもらおうっと」
「やめとけ。王の苦悩が増えるだけだ」
「……そうね。これ以上シワが深くなったお父様を見て悲しむお母様なんて見たくないもん」
メルルは母の為と自分を納得させるが、その顔からは、どうにか石像を作れないか考えているように見えた。
「お楽しみのところ邪魔するぜ」
男の声に振り向くと、他の船員とは明らかに雰囲気の違う肌の浅黒い男が立っていた。
頭にはバンダナ。口元には豊かな髭を蓄えている。
胸元が大きく開いたシャツからは、自分の魅力に絶対の自信があるかのようだ。
「おはよう。バルネロ」
メルルに呼び捨てにされても、怒る様子はない。
「おはよう嬢ちゃん。今日も元気いっぱいだな」
「それはそうよ。毎日初めて見るものばかりだもの! それにあの二体の巨人。あれを見てメルルも自分の石像を作ってもらおうって決めたんだから」
やはり諦めきれなかったようだ。
バルネロは小型の斧が沢山差し込まれたベルトに手を置きながら、歯を見せて豪快に笑う。しかし馬鹿にした様子はなく、純粋にその提案を称賛した笑い声に聞こえた。
「そりゃいい。そん時は俺様の知り合いの職人を紹介してやるよ」
「本当、ありがとうバルネロ」
メルルが勢いよく抱きつくと、揺れる船内でバルネロはしっかりと受け止める。
「嬢ちゃんはいつも楽しませてくれるからな。それくらいお安い御用さ」
「バルネロ船長。それで呼び出した要件は?」
「ああ、そろそろ港に着くぜって言おうとしたんだが、先に嬢ちゃんが教えてたから俺様の要件は終わりだ」
バルネロはメルルを下ろすと、メインマストを見上げた。
「最初あんた達を連れて行く事に船員達は懐疑的だったが、今じゃそれも杞憂だったな」
バルネロが見上げたマストの先端にアルフェが佇み周囲に異常がないか警戒していた。
「マギゼルだっけ。あのお人形さんの望遠鏡のような眼が役に立ってくれたよ」
「ちょっとアルフェはメルルの友達よ。道具みたいに言うのは失礼だわ」
「おおっとすまんすまん。えっと、そうアルフェのおかげで今まで以上に順調な航海だった。感謝してるよ」
「お安い御用よ」
メルルは、アルフェへの称賛を自分の事のように受け止める。
「さて、もう港に到着だ。嬢ちゃん達は下船の支度をしな。忘れ物しないようにな」
バルネロは自らアガスズィ号を操舵して、巨人が佇む港近くにある岩影に船を停めた。
因みにアガスズィという名は船首の裸婦像の名前で、世界で一番愛しい人だと、指を見せつけながら蜂蜜酒片手に語っていた。
アガスズィ号から下ろした小舟に向けて縄梯子が降りる。
「じゃあ三人とも。気をつけてな」
メルルは縄梯を降りながら答える。
「バルネロも捕まらないでね」
先に降りたディアスは船体が傾かないようにバランスを取り、上を見ないように梯子を降りるメルルを支える。
アルフェはメルルが無事に降りたのを確認してから、バルネロ達に一礼してから危なげなく縄梯子を降りる。
アルフェが小舟に乗り換えたのを確認してから、縄梯子が回収された。
甲板からバルネロが顔を出す。
「楽しかったぜ嬢ちゃん」
「こっちも楽しかったわ!」
メルルが手を振ると、俄に甲板が騒がしくなる。
「おっといけねえ。見つかっちまった」
「ねぇバルネロ」
船員に指示を出していたのか、一度頭を引っ込めたが、メルルの呼びかけに再びこちらに顔を見せる。
「嬢ちゃん、港に行くなら今だぜ。それと助けがいる時は呼んでくれ。すぐに駆けつけるからよ」
「どうやって呼ぶの?」
「娼館だ。どこの大陸でもいいから、娼館で合言葉を言いな。『恋愛は自由』ってな。そうすれば言伝が俺様に伝わるからよ」
そう言い残して、アガスズィ号は地平線の彼方に消えた。
余裕の表情を見ている限り、バルネロが捕まるとは到底思えなかった。
ディアスは二本の櫂を操って小舟を港につける。
バルネロの船に注目が集まったおかげで、小舟のことは全く眼中に入っていないらしい。
港街を見守る石像の加護だろうか、港の人達は活発に活動している。
他の大陸からやってきた商業船や漁船に積まれた、溢れんばかりの荷物を運ぶ人足達。
待遇が良いのか、一生懸命に取り組み、仕事を怠ける様子は見られない。
子供達は巨人の靴のような船に興奮し、カモメは鳴きながら飛び交い、猫達はおこぼれをもらおうと船の周りに集まっている。
人も物もこの街には十分にあるようだ。
「バルネロ様からの情報ですが、この街はアトラードのディアーノ家が治めているそうです」
「見て。ティサオン様の地図によると、この街は昔小さな港だったみたい。チュムラ・トスミナズィの合戦の英雄、カインツ・ヴァグナーテ王子の活躍は、ここから始まったのよ」
興奮気味のメルルが話す数千年前の英雄譚をアルフェは黙って聞いていた。
街の方へ向かっていると掲示板を見つけた。
懸賞金のかけられた犯罪者の情報が記されている。
その中の一枚は、ここまで連れてきてくれたバルネロ。大陸間で密輸をしている罪で懸賞金がかけられていた。
それとは別に複数の殺人事件の容疑者や、逃亡中の窃盗犯などの情報が記されている。
「月の使徒?」
貼り紙に書かれているのは、この街で暗躍する邪教の情報だった。
ムーケルデンを復活させようと活動しているらしく、使徒と呼ばれる人間の体には月の使徒であることを示す印が体のどこかに刻まれているらしい。
(どこの大陸にも異教徒というのはいるものだな)
「ディアス。早く宿取りましょうよ。何見てるの?」
「いや、つまらないものだ」
「つまらないの見てもつまらないだけよ」
ディアスの方を見て歩いていたメルルが人とぶつかる。
「あっ、ごめんなさい」
ぶつかったのは老婆で、港の日差し対策だろうか、頭にスカーフを巻いている。
メルルは老婆の傍に落ちた杖を拾って渡す。
「おばあさん大丈夫?」
「ええ。どこも怪我してないわ。あら、貴女……」
老婆は差し出された杖に目もくれず、メルルの頬に手を伸ばした。
皺の深い顔からは想像できないほど、眼差しは強く、メルルも固まってしまう。
「メルル様。いかがなされましたか」
そこにアルフェが割って入る。
「こちらの御婦人は?」
老婆はメルルから素早く手を引っ込めた。
「ごめんなさい。この子が私の診療院で以前世話していた子にそっくりだったの。それで懐かしくなってしまって。あ、杖拾ってくれてありがとね」
アルフェが問いかける。
「お怪我はありませんか」
老婆は答えてからマルルに向き直る。
「ええ、本当に大丈夫。お嬢ちゃん、気にしないでね」
老婆は笑顔で会釈し、人の波の中に消えていく。
「メルル様。私たちも行きましょう」
「うん」
ディアスがメルルに合流する直前、アルフェが直立したまま前を見据えた。
「衛兵がこちらにやって来ます」
「なんで? メルル達悪いことしてないよ」
ディアスは面倒ごとになりそうで、ため息をつく。
「アガスズィ号から小舟でやって来たところを見られたか」
衛兵達が足並みを揃えて迫ると、民は二つに分かれて道を開けた。
賑やかな港に静寂が訪れ、多くの目がディアス達に注がれる。
三人を取り囲む衛兵達を見て、ディアスは違和感を覚える。
「アルフェ」
「メルル様を守ればよろしいのですね」
理解が早くて助かると心の中で呟きながら、ディアスは二人の盾になるように前に出た。
包囲が完了すると、隊長と思われる桃色の髪の女衛兵が進み出た。自分より上背のあるディアスに臆することなく、桃色の瞳を向け声を発する。
「貴方に月の使徒の疑いが出ています」
「すまないが俺はこの街に来たばかりだ。月の使徒という名前も今日初めて知ったんだ」
「貴方達の関係は?」
刀剣のような目つきが、メルルとアルフェを巡りディアスに戻る。
「旅の仲間だ」
「旅ですか。そうですか」
あまり信じてもらえていない雰囲気だが、説得するしかない。
ディアスはメルルを指差す。
「彼女が世界を見て回りたいと言ってな。俺は護衛として雇われたんだ」
「なるほど、武器を持っている理由もわかりました」
「じゃあ包囲を解いてくれるか」
「あとひとつ質問に答えてもらえれば」
女性衛兵が指差したのは布が巻かれた右手の甲。
ディアスの背中に冷や汗が流れる。
「布を取って手の甲を見せなさい」
「それは、できない」
「ならば月の使徒として、貴方を捕縛します」
宣言とともに腰の剣を抜き放つ。
百合の鍔から伸びる細い刀身が真っ直ぐディアスの顔に突きつけられた。