第二章『もがけ 闇の中を』 第1話
今にも雨が降りそうな港町の石畳を複数の人影が走る。
人影は二つのグループに分かれており、後方を走る数人は夜の静寂を破るように大きな足音を響かせた。
「止まりなさい!」
桃色のサイドテールを揺らしながら、後方グループを率いる女性衛兵が静止の声を上げる。
逃走する影は、声を無視し更に速度を上げる。
激しく石畳を蹴るブーツからは衛兵達と対称的に足音ひとつ聞こえない。
逃げる影の前に、新たな人影が家の隙間から現れた。
「隊長!」
心強い援軍を得た女性衛兵の声に力がこもる。
隊長と呼ばれた男性は迫る影の前で、腰のエストックを右手で抜いた。
「連続殺人犯。お前の凶行もここで終わりだ」
菱形の切っ先をむけられ、ついに影が止まる。
後ろから追っていた女性衛兵達も足を止め、各々武器を構えて退路を塞ぐ。
衛兵達にランタンを向けられ、影の形が浮かび上がる。
影の正体は顔から足下までを覆う黒いローブ。揺らめく光を浴びるとまるで油を塗ったような光沢を持っていた。
もう一歩近づけば微かな血の臭いにも気づいただろう。
隊長は無言で佇む影の右足を狙い、両手で構えたエストックを動かす。
脛に到達する前に躱されたが、捕縛する為、腕や足など急所を外して突きを繰り返す。
影が右肩を狙う刺突を跳躍で避ける。
その着地点を見て、その場にいた衛兵達は声を失う。
先端につれて細くなる剣の腹。そこに器用に両足を載せていた。
隊長が剣を引くより前に影が動いた鎧を着込んだ右肩を踏み台にして勢いをつけ、家の壁を駆け上がる。
下から照らされるランタンの光が追いつかないほどの勢いで、黒い影は煙のように消えてしまった。
「終え。あいつを逃すな!」
女性衛兵の力強い一声で、人間離れした逃げ足に呆然としていた衛兵達は、ランタンを屋根に向けながら賊が消えた方向に走っていく。
「シルルマン隊長、お怪我は?」
「大した事はないよ」
踏まれた右肩が無事である証に何度か回してから、エストックに歪みがない事を確認してから鞘にしまう。
「スパルツォ。君も奴を追うんだ。僕のことは心配いらないから」
「分かりました。殺人鬼の捕縛は私達にお任せください」
スパルツォと呼ばれた女性衛兵はレイピアを持ち、影が去った方に走り出す。
騒々しい足音が聞こえなくなった大通り、シルルマンは一人空を見上げる。
空を覆いつくす雨雲も、ムーケルデンが封じられた月の邪魔はできないらしく、月光が町と自分を包み込んでいた。
しばし月光浴を楽しみ歩き出す。向かうはつい先ほど確認された殺人現場。
大きく開かれた二階の鎧戸から、室内で灯りが動いているのが分かる。
部屋に入ると、まず血の臭いに出迎えられた。
室内にはシルルマンを含めて五人。うち二人は意識がない。
動いているのは二人の衛兵で、暗い部屋の中をランタンで照らしているが、首を傾げているのを見る限り、手がかりは見つけられていないようだ。
それよりも早く部屋を出たいと、青ざめた顔が物語る。
意識のない二人はこの部屋に住んでいたリボータル人の壮年の夫婦。妻の方は気絶している。
夫の方がこの部屋に異臭を振り撒く張本人で、うつ伏せに倒れ首の辺りを中心に赤い湖が生まれている。
傷口を検めると、まるで獣の牙か爪に襲われたように大きく引き裂かれていた。
影が巨大な肩の上から街を見下ろすと、闇を切り裂くランタンは見当違いな方向に向けられていた。
追手を撒いた影は、松明を掲げる石像の肩の上にいた。
見上げると、石像の頭の影から三日月が覗き込んでくる。
『クラウン。いつまでここにいるの。もう兵士達はいなくなったわ』
クラウンと呼ばれた影の背中からヌルリと現れる暗紫の骸骨。
耳朶を震わす妖艶な声は確かに成人の女性だが、その出どころは肉も骨も皮もない骸骨からだった。
「ちょっと気分転換したかっただけ」
ローブに水滴が落ちる。夜空を覆う雨雲は我慢できなくなったのか、大量の雨を落としていく。
『じゃあ、帰りましょうよ。風邪をひかれたら私が母様に怒られてしまうのだから』
骸骨が消えると、クラウンは石像の肩を後にする。
石像のローブが付着していたところは、赤黒く染まっていたが、大量の雨が清掃人となって洗い流していく。
三日月は見つめる。まるで瞳のように、下界で蠢く下賎な生き物を見つめ続ける。