第一章 第5話
ディアスはメルルと一緒にチェルの巣へ向かっていた。
前を走るメルルは夜闇の下でも、野兎のように木の根を軽々飛び越え息を切らす事なく駆け抜ける。
それに比べてディアスは息も絶え絶えだ。
一年前から酒浸り、運動といえば顔を洗う時に川に行くくらい。
騎士団で鍛えた筋肉の上には厚い脂肪に覆い隠されてしまった。
だが、贅肉の重しが乗っかっているとはいえ、筋肉はまだ現役。肺は限界を迎えつつあったが、それでも手足は動き、前を走るメルルを見失わずに済んだ。
前を行くメルルが止まったので、ディアスも横で止まる。
膝に手をついて息を整えようとしたが、そんな暇はなかった。
空き地の中央の大木の上で、一羽のファルガウスがのたうち回るように暴れていたが、不意に生き絶えたように動きを止めた。
「チェル!」
メルルの声に反応しチェルは首を巡らす。
「よかった。生きて––」
メルルを見つけた途端、チェルは鋭く鳴き声を上げ、翼をはためかせる。
ディアスはチェルが次の行動に移る前に、メルルを抱えて地面に伏せる。
その真上を槍の穂先のような嘴が掠めていく。
二人が顔を上げると飛び去ったチェルは高度を上げ方向転換しようとしていた。
「逃げるぞ」
有無を言わさず立ち上がらせて走る。
後ろを見るとチェルは翼を畳んで高度を下げていた。
まるで鏃のような姿で枝を折り木の葉を散らしながら、メルルの背中を貫こうとする。
ディアスはタイミングを測ってもう一度メルルと共に地面に伏せる。
鏃が通り過ぎると、周囲の落ち葉が舞い散ってディアス達に降りかかる。
それを払う間も無くすぐに走り出す。
ただ逃げてるだけではいずれ殺される。
走りながら左右を見ると、二人を受け入れてくれそうな大きさの樹洞を発見した。
チェルが見ていない間に飛び込み、身を小さくして隠れる。
樹洞の外から羽ばたきが聞こえてきた。どうやらこちらを見失って、周辺を捜索しているらしい。
潜んでいる木の真上で羽ばたきが続く。何か言おうとするメルルの口を抑えて息を殺す。
自分の心臓が破裂するように高速で脈動している。
ディアスはこんな時に騎士団員時代に似たような経験をしたことを思い出した。
異教徒の討伐で罠に嵌って壊滅した時、味方の屍の下に潜り込んで生き延びたことを。
その時も自分の心臓が嫌にうるさく、援軍が来なければ自分で心臓を貫いていたことだろう。
そんな過去を思い出していると、自分の鼓動と違う鼓動がある事に気づく。
正体は一緒にいるメルルの心臓の脈動。
こちらを見たメルルは恐怖のためか涙目になっていた。
ディアスは死ぬわけにはいかないと強く自分に言い聞かせて、人差し指を唇に当てて静かにするように促す。
メルルが頷いたのを確認し、チェルが見逃してくれるのを待つ。
木の一部だと言い聞かせるように気配を消していると、木の葉を散らす羽ばたきが次第に小さくなっていく。
完全に消えたところで樹洞から身を乗り出した。
辺りは枝葉が散乱し、落ち葉の絨毯が捲れたところは土がのぞいている。
「チェル、行っちゃった?」
「ああ、俺たちに興味を失ったようだ」
命拾いで気が緩んだのか、次のメルルの言葉を理解するのに少し時間が必要になる。
「じゃあ追いかけないと」
「……追いかけてどうする」
「父様と母様が殺されるのを止めるに決まってるじゃない」
「お前一人で何ができる。あの巨体でしかも空を飛んでる奴に」
「ここで待ってろっていうの」
「そうだ。都の衛兵が討伐してくれる」
「都が襲われるのを知っているのはメルルとディアスだけ、お父様達はまだ知らない。だから助けにいくの!」
ディアスは、背中を向けて駆け出すメルルを止めるべく追いかける。
森を熟知しているメルルは、野兎のようにすばしっこくて捕まえられず、声をかけても無視されてしまう。
メルルは自分の家に飛び込む。出てきた時には世界地図を入れたバッグを置いて、狩りに使う矢筒を背負い手には長弓を持っていた。
「本気で止めに行くのか」
「行くわ。ディアス、お願い一緒に来て」
「俺も?」
「メルルが視たときディアスが一緒にいた。あとアルフェもいたの」
今日会ったばかりのマギゼルの名前が出てきて驚く。
「だから港に行ってアルフェに理由を––」
メルルは走ろうとした体勢で固まる。
ディアスが彼女の顔を見ると、メルルの目は開いたまま何も見ていない。
まるで今いるところとは違う場所を見ているように焦点が合っていなかった。
弾かれたようにメルルが声を張り上げる。
「伏せて!」
その声に反応して、何も考えず地べたに伏せる。
直後に頭上から風が巻き起こった。顔を上げると目の前にいたメルルの姿がない。
少し経ってから上から折れた弓と矢筒が落ちてきた。
夜空を見ると、舞い戻ってきたチェルがメルルを捉えたまま去っていく。
ディアスはすぐに追いかけるも、夜の闇に消えていってしまった。
「くそ!」
ディアスは手近な木に拳を叩き込む。メルルに警告されなければ、同じように連れ去られたか、爪で刺し殺されていた。
ここ一年で大きなため息をつくと、もう一度足を動かす。
向かったのは自分の家。チェストを開き咄嗟に手に取ったのは、傷をつけた丸盾。
盾を背負いチェルが飛び去った方角に向けて駆ける。
港に到着したものの当たり前だが船はない。泳いでも後を追おうと真っ暗な海に向かうと、暗闇に佇む人影に気づく。
「アルフェ」
声をかけると、石像のように固まっていたアルフェが唇を動かさずに返事をする。
「ディアス様。騒がしかったですが、何かあったのですか」
「ああ、ファルガウスが暴れ出して、メルルが攫われたんだ。俺は今から助けにいく。アルフェも来てくれ」
「かしこまりました。ところでディアス様。どうやって海を渡るのでしょうか」
「船がないから泳いでいくしかない」
言いながら海に飛び込もうとすると、球体関節の指に袖を引かれる。
「夜の海は危険です。それに時間もかかります。なので私にお任せを。今用意しますので、少し離れてください」
意味がわからぬまま後ろに下がる。
「風による飛翔」
詠唱を唱え終わると、アルフェの周辺に竜巻のような風が巻き起こり、舞い上がった落ち葉が散っていく。
「準備できました。私に捕まってください」
言われた通り手を握るも、アルフェの身長はディアスの鳩尾くらい。
「失礼致します。私の首に手を回してください」
何か言う前にアルフェの両手がディアスを抱え込む。
背中と足を抱えられたお姫様抱っこ。羞恥心で顔が熱くなる。
だがメルルを救う為と羞恥心を抑え込むと、視界がゆっくりと上昇し、次の瞬間島を離れて海上を北東に進んでいた。