第一章 第4話
一羽の熊鷹が弓の大陸を飛び立つ。
彼女は同族に煙たがられ、つがいで唯一の味方であった夫も、既にこの世にいない。
妊娠し、安全にかつ心安らぐ土地を探して目をつけたのが南東にある小さな島だ。
上空を滞空しながら観察していると、案の定他の同族はおらず、ヒトも一人で子供のような姿しか見えない。
ここなら良さそうだと、島に降り立ち、適当な住処を探す。
見つけたのは朽ちた大木で、幹の上部は禿頭のように枝葉が全て落ち、丁度良い窪みが出来ている。
自分の体も入る大きさである事を確認し、周囲の落ち葉や枝を隙間なく組み合わせ、将来産声を上げる命の為の巣を作り出した。
新居に慣れた頃、ついに新しい命を産み出す。
初めて見る我が子は丸く硬い殻に包まれていた。それでもこれが自分の子供だと直感で分かる。
軽く触れるか触れないかの力加減で殻を突く。
すると殻の内側から僅かな胎動を感じ、胸の内になんとも言えない暖かさが湧き上がるのだった。
三日、五日、七日、晴れの日は共に日光浴し、雨の日は身を挺して屋根となった。
そんな日々を過ごしているうちに不安が込み上げるようになってきた。
殻に包まれた我が子は今もそばにいる。
触れていれば温もりも感じる。しかし一向に殻を破る気配はない。
いつ元気な姿を見せてくれるのか、同族から煙たがられ、一人を選んだ彼女には生物としての本能しか頼るものなく、何の知識も持ち合わせていなかった。
そんな日々を過ごしていると、今日もまたシャルクの少女の視線を感じる。この島に来てからちょくちょく様子を伺っていたのに気づいていた。
しかし筋肉も脂肪も少ない小さな子供、餌はもちろん、脅威になるとも思えなかった。
その少女が木陰から身を乗り出し、こちらに近づいてくるではないか。
巣に居座ったまま、視線だけはシャルクを注視する。
万が一でも我が子の脅威になるのなら、嘴で貫くか、爪で引き裂いてやればいい。
それよりも、目の前のシャルクが囮で、周囲に伏兵がいるのかもしれない。警戒を怠らず平静を装う。
裸足で落ち葉を踏みしめたシャルクの少女は立ち止まり開口一番こう言った。
「こんにちはファルガウスさん。メルルっていうの。よろしくね」
更に距離を詰めてくるので、こちらから嘴を突きつけ威嚇する。
メルルはそんな嘴に腕を伸ばし、そっと掌で触れた。
「あれ、貴女もしかしてチェル?」
その名を聞いた時、幼い記憶が蘇り、メルルの次の行動に反応できなかった。
勢いよく羽毛に覆われた首筋に抱きついたのだ。
「この暖かさ。チェルなのね。こんな大きく綺麗になって見違えたよチェル」
チェル。その名は幼い頃に名付けられた。
『あなたはチェル。チェルって響きが可愛いでしょ』
父でも母でもなく、シャルクの少女がつけてくれた名前。
よく見れば、目の前の少女はチェルが幼い頃の記憶からほとんど変わっていない事に気づく。
むしろ変わってないせいで過去の記憶と結びつかなかったのだ。
唯一変わっているといえば、肩口までのプラチナブロンドの髪が膝裏まで伸びていることくらい。
チェルは旧友との再会にゆっくりと瞼を閉じ、首筋に伝わる温もりでほんの一時満ち足りた気持ちを味わった。
それからというもの、メルルは毎日チェルの様子を見に来た。
彼女に子育ての知識はなかったが、声を聞いたり、体を抱きしめてもらう。
それだけで心の支えになっていた。
ある日、都に戻っていたメルルが助けたというヒトの男を島に連れて帰ってきた。
その男はチェルの元に現れることはなかったが、メルルはそんな彼を気に入ったのか、よく話題に上がるようになる。
聞いた話によると、アトラードとリボータル、半々の血を引いているらしく、大陸での生活が嫌になってこの島に流れ着いたらしい。
メルルはよくその男の元に行っているようだが、年頃の少女が持つ恋愛感情ではなく、子供らしく友達の一人として見ているようだった。
毎日の出来事を楽しそうに話すメルルの笑顔や温もりでもチェルの心の奥底にわだかまる濁りを浄化することはできない。
我が子の殻は一年経っても内側から破れる気配は全くなかった。
チェルは自由に空を飛びたい欲求や、食欲、睡眠欲。それらの切なる叫びを無視して我が子の世話に注力してきた。
しかし殻の内側から返事はない。
メルルの前では我慢したが、単身になった時、特に月が現れた時は全てを投げ打ちたい思いが強くなる。
巣である大木の目立たないところを見つけては、槍のような嘴で穴を開け、剣のような爪で何度も傷をつけた。
それで苦しみを紛らわせても、心臓が一回血を送らせる間に、満ち潮のように再び苦しみがやってくる。
いっそ我が子を自ら砕いてしまおうか。そんな考えを過ごす夜を繰り返すうちに、劇的な変化が起きた。
寝ずの番をしていたチェルの体に水紋が起きるくらいの小さな振動を感じる。
夢うつつだった意識が覚醒し、振動の元を確認すると、思った通り殻の内側から弱々しくもはっきりとした胎動が伝わってくる。
ついに我が子の顔を見れるのかと、一足飛びに感動を覚えていると、卵は予想外の行動を始めた。
コロンコロンとまるで殻が意志を持ったように転がる。
コロンコロンと移動して行き着いた先は巣の縁を超えた外。
そこには足場はなく、重力の手に引っ張られるように、真っ直ぐ間断なく落ちていった。
一部始終を見て金縛りにあったチェルが動けるようになったのは、液体の詰まった容器が割れる音だった。
信じられずに見下ろすと、確かに殻は砕けている。中の我が子ごと。
チェルは巣から地面に降り、顔を間近に寄せる。
夢であってほしいと切に願ったが、殻は粉々に砕け、中の液体から漂う生臭い臭いが、現実を突きつける。
割れた殻の欠片から、ソレは這いずって出てきた。
チェルにとっては取るにたらない小さなトカゲ。
陽の光も吸収しそうな黒いトカゲは滑るように動くと、四本の足を使ってチェルの体を登り始める。
メルルに抱きつかれる時とは明らかに違う嫌悪感に、体を捩って振り払おうとするが、トカゲは意に解さず登る。
嘴を使って引き剥がそうとしたが、それがトカゲの狙いだった。
僅かに開いた嘴の隙間に飛び込んだ。
吐き出す間もなく、トカゲは口内から喉を通ってチェルの体内に留まると、細胞と一体化していく。
一瞬の間にトカゲと一つになったチェルの脳内にある映像が浮かぶ。
それは我が子に襲いかかるシャルク達だった。
映像が終わり視界に映るのはメルルと男。
まずは二人を血祭りに上げようと、チェルは翼を限界まで広げて威嚇する。