第一章 第1話 『幸せか 寝転がるだけの日々は』
外から差し込む陽の光が顔を照らし、鳥達が1日の始まりを喜んで囀る。
そんな誰もが体を動かしたくなる陽気の中、男はいびきをかいて眠り続けていた。
昨日の日の入りに夕飯を食べ、今に至るまで惰眠を貪っていたせいか、腰が痛くなって時々目が覚める。
何度か寝返りをうって楽な姿勢を見つけると、また怠惰な楽園へ足を踏み入れる事を繰り返した。
楽園に行けなくなった。寝ようとしても体に拒否された。
瞼を閉じてしばらく寝転がっていると、体の節々が痛くなり、しょうがなく起き上がった。
最早日課である、右手の布を歯を使ってきつく縛り上げると、その辺に脱ぎ捨ててあったシャツを着る。途端に頭の中で鈍い痛みが渦巻く。
頭を振っても痛みは壁のシミのように纏わりついていた。
酒臭いため息を放つと、ベッドから起き上がりコップの転がる床を歩いて、家の出入り口を覆う布を開けると、容赦ない日光が襲いかかってきた。
目を閉じて不快感をやり過ごしながら外に踏み出したところで、足の裏をくすぐる感触に立ち止まる。
落ち葉に包まれた右足。緑の葉は柔らかく。まるで羽毛のように包み込んでくれる。
だが男は家に引っ込み、ブーツを履いてから外に出た。
木や落ち葉は所々湿った所が見受けられ、鼻の粘膜にへばりつくような湿気の匂い。そこから推量すると、寝ている間に雨が降ったようだ。
木漏れ日で和らいだ光に目を細めながら用を足すと、喉の渇きを覚えて近くの川を目指す。
流れる川を覗き込む。暗い銀髪は洗う以外は手入れをしていないので、方方に手を伸ばすように伸び放題。同色の顎髭には昨日の食べカスがこびりついていた。
(俺を聖人と言ってた奴は今の姿を見て腰を抜かすだろうな)
手で掬った水は澄み渡っており、酒で灼けた喉を心地よく癒してくれる。
我慢できずに頭突きするような勢いで頭を川の中に入れ、驚く小魚も丸呑みする勢いで口を開いて水を飲む。
新鮮な水を飲むたびに、頭の痛みも薄らいでいった。
息苦しくなったところで川から顔を上げ、髪や髭についた水滴を首を振って落とす。
その光景はまるで……。
「まるでワンちゃんみたいね」
不意に少女の声が耳に届く。男は驚く様子もなく顔を拭う。
「本物の犬、見た事あるのか」
少女は肩から下げたバックから一枚の絵を取り出した。
「まだ。けど、ティサオン様の書いてくれた絵で知ってるの」
シャツの袖で顔を拭き終えた男が少女の方を見た。
陽の光で煌めくプラチナブロンドの髪は枝毛ひとつなく、ゆったりとした緑色のワンピースを着ている。
見た目十代の少女は落ち葉の絨毯を裸足で踏みしめながら、男に近づいて鼻を顰める。
「ディアス。昨日もずっとお酒飲んでたわね」
鼻をつまみながら手を扇子のように仰いだ。
「なんでみんなワインを飲むの。一口飲んだだけで口の中を火傷したのかと思ったわ」
少女は腕を組んでお冠の様子。
「見た目だけでなく、舌がお子様のメルルには良さがわからないのさ」
「メルルを見た目で判断しないで。これでも百歳越えてるんだから」
「はいはい」
ディアスは軽くあしらい、家に戻る道を進むと、後ろからついてくるメルルが声をかけてくる。
「『今日は何をしていたんだ。メルル』とか聞いてくれないの?」
仕方なく鸚鵡返しをする。
「今日は何をしていたんだ」
感情を込めず、視線はまっすぐ家に向けられていたが、背後のメルルは嬉しそうだ。
「チェルの様子を見に行ったの。今日は昨日より元気そうで、一緒に朝ごはん食べたのよ」
「お前が朝飯にはならなかったのか」
「チェルは肉食だけど、友達のメルルを食べるわけないでしょ!」
「あいつの大きさじゃ、お前を食べても腹は満たされないか」
メルルは大きく頬を膨らませる。
「もうそう言うことばっかり言ってると友達辞めちゃうよ」
ディアスは一瞬立ち止まるも歩みを再開する。
(友達か、ここに来るまでに友人と呼べる奴は何人だったっけ)
顔に霞がかかって誰も思い出せない。共に戦場を駆けた戦友はいたが、彼ら夫婦は幸せだろうか。
ディアスの戻った家は、大きな木の根元にできたうろだ。穴の入り口は布がかけられ、それが即席の玄関代わり。
布をかけているだけなので、隙間から風や雨、虫などが入ってくる時があるが暮らす分には困らない。
体を屈めて家の中に入ると、メルルも勢いよく入ってきた。
「なんで入ってくるんだ」
「ディアス一人にしたら、寝るか、ワイン飲むかでしょ。運動しないとお腹でちゃうんだからね」
文句を言いながら部屋の片付けをしてくれる。
「散らかしたまんまなんて、子供みたいだよ」
「子供の頃がどれだけ幸せだったか聞かせてやろうか」
「今、片付けに集中」
シャルクの少女が片付けをさせたまま、ベッドに横になる。
目を閉じると厳しくも優しい両親との生活。そして流行病で全滅した故郷の村を思い出したところで意識が覚醒した。
湿った頬をぬぐって部屋を見回すと、出入り口の隙間から夕陽が見えるが、メルルの姿は見当たらない。
「お節介な奴め」
そう呟き、嫌な記憶を一刻も早く忘れる為に酒を飲もうと立ち上がったところで気づく。
「ん? コップがないな」
ワインを飲む木のコップだけでなく、滅多に使わない皿やお椀などの食器も見当たらない。
眠気で麻痺した頭で考えていると、外から鼻歌が聞こえてくる。
出入り口の布を勢いよく開けると、両手いっぱいに食器が入った籠を持ったメルルと鉢合わせた。
「きゃあ」
驚いたメルルがバランスを崩し、背中から倒れそうになったので、素早く腕を動かして彼女の小さな背中と籠を支えた。
「あ、ありがとう」
メルルの背中から手を離し、片手で食器の入った籠を家に持っていく。
メルルは体勢を立て直しながら、文句を言った。
「ちょっと、メルルより食器の方が優先なの」
「そうだ。これがないと飯も酒も楽しめない」
「怪我したかもしれないのよ」
「大丈夫だ。お前の運動神経の良さは知っている」
ぶっきらぼうな口調だが、メルルはそれを聞いて頬を緩める。
「分かってるなら、いいのよ!」
渾身の力で背中を叩かれ、持っていた食器を落としそうになった。
何か言う前にメルルは「じゃあね」と言って旋風のように走り去っていった。
急に静かになった室内で大きなため息をつくと、洗ってもらったコップを手に取り、酒樽からワインを注ぐ為に蛇口をひねる。
赤い液体は、コップ三分の一を満たしたところで止まってしまう。
コップと出入り口の方を交互に見つめ、一際大きなため息をつくと、残り少ない貴重なワインを一気に飲み干し、ベッドに体を投げ出した。
翌朝、いつもよりスッキリした目覚めを迎えた。
起きてすぐお腹を宥める。
珍しく朝一番に空腹を覚えたので、腰にナイフを提げて外に出ると快晴だ。木の枝の上で朝食を求めるように小動物達が忙しく動き回っている。
メルルの姿はない。
いつもなら必ず先に起きて、散歩したり狩りをしているはずなのに。
(そうか。俺が早起きしたからか)
探し歩いているうちに腹が減ってきた。周りにはリスや兎が無防備な姿を晒しているが、狩猟道具がないのではどうしようもない。
ナイフを投擲する事も考えたが、失敗して刃が欠けたりしたら面倒なので止めた。
顔の高さに木の実を見つけたので、もいで口に放り込む。
酸味に顔を顰めながら噛んでいると甘みが出てきた。しかし小指の先ほどの大きさでは、森全ての木の実を食べても腹は満たされない。
新しい食べ物を探していると、りんごの木を見つけた。
無造作に一つをナイフで切り落とすと、そのまま齧り付く。耳心地のよい歯応え。甘酸っぱい蜜。瞬く間に一個平らげおかわりを手に取る。
二個目はナイフで小さく切り分け、空腹を満たす為に時間をかけて味わった。