第二章 第4話
少年が目を覚まして初めにする事は、カーテンを開ける事でも体を起こす事でもない。
両の太腿をつねる事だ。
指に疲れが溜まって限界を迎えるまで力を込める。それでも痛みは感じない。
分かりきっている事だが、やめる事はない。
控えめなノックが耳に届く。
「トーラ、入っていいよ」
ベッドの上から返事をすると、トーラが部屋に入ってくる。
「お早う。クラウン」
彼女が入ってきて最初にするのはカーテンを開けること。
早朝の強い日差しがベッドのクラウンに降り注ぐ。
眠気覚ましにはいいが、少し眩しくて目を細めた。
トーラは外を見ながら呟く。
「今日は雲の動きが早いから風が強くなりそうね」
「そう」
興味なさそうに相槌を打つ。
「着替えましょう」
トーラはベッドの傍に立つと、右手だけを使って器用に毛布を取って足元に畳む。
両腕を使って上半身を起こすと、トーラにズボンを脱がされる。
「また太腿つねっていたのね。赤くなっているわよ」
クラウンは肌着を見られても気にする事なく上着も脱いで、用意された上衣を着た。
その間にトーラによってズボンを履かせてもらった。
着替え終わると、ベッドの足元に置かれている特製の椅子に座らせてもらう。
椅子の座面は長時間座っても疲れにくい厚手のクッション。
背もたれの後ろには二本の握りが伸び、側面には車輪が付いている。
トーラにドアを開けてもらい、車椅子に座ったクラウンは自分で部屋を出ていく。
二人が向かったのは三階の食堂。
両開きの扉を開けてもらうと、白いテーブルクロスがひかれた長方形のテーブル。
正面から見て、クラウンの車椅子によく似た椅子が左側に四脚、右側に五脚、扉と向かい合うように配置された上座に椅子が一つあり、そこには老婆が鎮座していた。
「クラウン。調子はどうだい」
「……いつも通りだよ」
アスコムにぶっきらぼうに返事すると、車椅子を動かしてテーブルの左側に移動する。
上座に一番近い部分だけ椅子がなく、そこに車椅子ごと収まる。
「では院長。私はネノの世話をして、それからお客様を迎えに行って参ります」
「大切な客人だ。丁寧な対応を頼むよ」
トーラは深く頷いて食堂を後にした、
扉が閉まると、室内にある照明は壁やテーブル状の燭台のみで、部屋の四隅を照らすには心許なかった。
毎日出てくる食事は専属の料理人に作ってもらっており、香りも見た目も十分に食欲を誘い、売り物にしたら庶民には手が出さないどころか貴族の食卓に出てもおかしくない代物だった。
「では食べようかね」
アスコムは祈りを捧げるように手を合わせてから食事を始めるが、クラウンは前触れもなく手を動かし、味を楽しむではなく、栄養を摂取するために口と喉を動かした。
味わうように咀嚼していたアスコムが、上品に口元をナプキンで拭う。
「クラウン。今日から本館に客人を招いて泊まってもらうからね。印象を悪くさせるような事をしないように」
「分かった」
クラウンは食物摂取を止める事なく、口の中に物が詰まったまま答えた。
「それと近日中に新たな仕事を頼む予定だ」
仕事と聞いてクラウンの手が止まり、今日初めて目に光が宿った。
「いつになる?」
「詳細はまだだが、そう遠くはない。いつでも行けるように心の準備はしておきなさい」
クラウンは頷くと、栄養摂取を再開する。今後の仕事のために、お腹が膨れるほど食べておいた。
食堂を出て廊下を進んでいると、頭の中で女性の声が響く。
「嬉しそうね」
「何が」
「次の仕事があるって分かった途端、心臓の鼓動が早まっていたわ」
「人の心臓を確かめるな」
「それは無理よ。私達は一心同体なんだから」
背中と背もたれの間から伸びた暗紫の骨の手が顎に伸びてきたので、払いのける。
「いた〜い」
「痛みなんて感じないだろ。骨なんだから」
それきり声は聞こえなくなった。
クラウンは廊下にある扉をスライドさせて開ける。扉の先には二、三人が立って入れそうな箱で、クラウンの車椅子がピッタリと収まる大きさだ。
入ってレバーを操作すると、鎖が擦れる音と共に下に降りていく。
昇降機が振動とともに止まり、手動で扉を開けると、そこは一階に面した中庭だった。
車輪を転がしながらお気に入りの場所へ向かう。風はクラウンの結えた髪を揺り動かすが、気にせず中庭の中央で止まって仰ぎ見る。
視線の先には樹齢百年は越える大木が直立していた。
風に木の葉を揺らされながらも、太い幹はしっかりと大地に根を張り、倒れるような気配は微塵も感じさせない。
天に向かって手を伸ばすように聳え立つ木を見ていると、南の正門の方から、病人とも宿無しとも違う騒がしい雰囲気が入ってきた。
「お庭広ーい! 二人とも見て。真ん中に大きな木がある!」
朝を喜ぶ小鳥みたいな声が気になってほんの一瞬だけ視線を動かしたつもりだったが、瞳は縫い付けられたように止まる。
太陽神の恵みより輝くプラチナブランドの長髪が風に身を任せている。
「あっ、木の袂に人がいる」
髪の踊り子達に見惚れていると、視界いっぱいに少女の顔が迫った。
「こんにちは」
覗き込む紺色の瞳に吸い込まれるように目を逸らすことができない。
「こんにちは」
再度の挨拶を聞いて、何も考えずに口が開く。
「……こんにちは」
「メルルっていうの。あなたの名前はなぁに?」
鏃のような耳を空に向けるように首を傾けた。
「僕はクラウン」
「クラウン、とってもいい響き。ねえクラウン」
また顔を近づけられ、思わずのけぞった後頭部を背もたれが受け止めた。
「な、何?」
「友達になりましょ!」
いきなり抱きつかれたところで、呑まれかけたペースを取り戻す。
「何するんだ。早く離れて」
「えっ、だってメルルとクラウンは友達……」
プラチナブロンドの踊り子達は鳴りを潜め、心なしかくすんで見えた。
「悪いけど、僕は友達になるつもりはないから」
「えっ、そうなの……」
会ったばかりの少女は、あろうことか今にも泣きそうになっていた。
呆気に取られていると、二人の男女を連れたトーラが小走りでやってきた。
メルルとクラウンの様子を見て何かあったのかと思ったに違いない。
「クラウン。あなた何をしたの」
「何もしてない」
「メルルさん。彼に何か言われましたか」
頬を膨らせたメルルは何も言わず、首を左右に振るだけだった。
「トーラ気にしないでくれ」
声をかけたのは三人の客人の中で一番上背のある大男。
「彼女は気に入った人がいると、猪みたいに突っ込んじまう悪い癖があるんだ」
「メルルは猪じゃないもん!」
「その勢いが彼を困らせたんだぞ」
メルルは嗜められ、また泣きそうになる。そんな彼女を見て大男はため息をついて頭に手を置いた。
「こんな奴だが悪い奴じゃないんだ。よかったら仲良くしてやってくれ」
大男が頭を下げると、メルルも一緒に頭を下げる。
クラウンがなんと返事すべきか言いあぐねていると、助け舟を出してくれたのはトーラだった。
「クラウン。今日は風が強いわ。冷えるといけないから部屋に戻っていなさい。お客様の紹介はまた後で」
頷いて下を見たまま踵を返すと昇降機に向かって車輪を転がした。
友達と言われた時、頬と耳が熱くなった事を気づかれてないと信じて。




