闇夜の咆哮 ――常世の国に行った男の話――
常滑市古場の港から約2キロ東に行った所に、尾張多賀神社がある。近年この境内地のすぐ西側に南北に走る国道が開通している。休日や祭日などの行楽日には車の走る騒音が姦しい。
私はその国道を南に走り、多賀神社の方へ車を左折する。目の前に境内地が拡がる。境内地とは言うものの、車が5台置けるぐらいの広さしかない。車を降りて10段程の石段を登る。後ろを振り返る。
この日は休日とあって、国道を走る車の数が多い。境内地に車を止めて石段を登りきると、周囲の樹木の繁殖のせいもあろうが、空気はひんやりとしている。車の騒音もここまで届かない。
平成10年7月上旬、午前10時、夏の日差しもここでは涼しく感じる。石段の両側には多賀神社の文字が深々と刻まれた石碑が建っている。3尺はあろうか、4角形の細長い石碑である。
私は石畳の参道を歩く。ものの10メートルも歩くと、百段はあろうか、石段が待ち構えている。
石段を登り詰める。石の鳥居をくぐる。広々とした境内地が拡がっている。奥に神殿が鎮座している。
私は神殿に礼拝して、その右手横にある古道に入る。神殿の裏手の竹藪の中の細い道を下る。下りきった所は多賀神社の社を背にした田や畑が拡がっている。
北の方に武豊方面に行く檜原街道が見える。畑の中の畦道を南に歩くと、むっとする暑さが戻ってくる。夏の日差しを遮るものがなくなっている。
暑いのを我慢して百メートル程歩くと部落に入る。部落と言っても、10数棟の瓦葺きの屋根が並んでいるだけだ。その中には最近建てた様な、青色のモダンなプレハブもある。
部落の東の外れに粗末な一軒家がある。20坪程の平屋で、瓦屋根が波打っている。壁のトタンは錆でボロボロで下地の土壁が見える。窓は昭和30年代まで流行った木製で、窓と窓の間に隙間が空いている。玄関の引き戸も上の方に隙間が空いている。戸締りが良くないようだ。
この家の主は山下統一郎という。友人から、古場のお多賀さんの裏の部落に、変な人がいると聞いての訪問である。
変だと言うのは、誰が見ても70か80の老人なのに、当の本人はまだ37歳だと言い張るのだった。
試しに、市役所の戸籍簿を調べても、山下統一郎は昭和33年の生まれとなっている。問題なのは当のご老人が本当に山下統一郎その人なのかどうかだ。
山下統一郎には家族がいない。両親もいない。未婚で彼の存在を証明できるのは、親戚か友人のみ。
当のご老人が山下統一郎宅にやってきたのは3ヵ月前。山下氏は部類の旅行好きで、家に居るのはまれである。
自宅は雨漏りがしても放ったらかし。その為に、平屋の山下家はボロ屋となってしまっている。
山下統一郎と名乗る老人が山下家に現れた時、部落の者たちは驚いた。空家とは言え、無人の家ではない。レッキとした所有者がいるのだ。
ここは他人の家で、今は留守宅だが、無人の家ではないと、老人を家から追い出そうとした。
老人は歳の割にはしっかりとした口調で、自分は山下統一郎と名乗る。
びっくりした部落の者数名が老人を凝視する。
面長で長い鼻、大きな眼の下のほくろ、白髪で落ちくぼんだ眼と痩せて頬骨の突き出た顔以外は、何となく若い頃の山下統一郎を髣髴させる。中背の体つきがどことなく似ている。
とは言え、信じがたい話だ。浦島太郎ではあるまいに、37歳の青年が80歳ぐらいの年寄りになって帰ってくるとは、絶対に信じられない。信じろと言う方がおかしい。
だが相手はご老体だ。無碍な扱いは出来ない。一応老人の正体を探るのが先決と判断する。山下氏はいつ帰ってくるかは判らない。帰ってきたらそれはその時と、老人を山下家に入れる事にする。
老人は我が家のごとく、さっさと家に入っていく。2年間家を閉め切っていたのに黴臭さは感じられない。
それもそのはず、つい先ほどまで、老人が家に入って窓という窓を開け放して、家内掃除を済ませていたのだ。その姿を見た人が、見知らぬ老人が家にいると大騒ぎになったのが事の起こりなのだ。
老人は部屋に上がり込むと、押し入れやら箪笥の引き出しを勝手に開ける。
「おいおい」1人が勝手な真似をするなと、老人を制する。それにも構わず、老人は白髪の頭を振りながら、これは何、あれは何と説明する。
所有者本人しか知り得ないようなことを、老人が歯の抜けた口で説明していく。
ついに年賀状や、郵便物を取り出して、発送人の事を詳しく喋り出す。
部落民はお互いに顔を見合わす。老人の淀みのない口調に、
・・・おい、まさか・・・当の本人ではないのかと疑念がわいてくる。
たまりかねて、1人が携帯電話で、古場の駐在所や、山下統一郎の友人、親戚に連絡を入れる。小さな部落の事だ、皆、お互いの友人や親戚関係の事など、自分の事のように知っている。
ものの30分も経たぬ内に、駐在所のおまわりや、5人程の友人、知人、親戚の者が山下家に顔を揃える。
老人は彼らを見て、懐かしそうに、誰誰さんと声をかける。彼らの1人1人の手を取って、何々ちゃん、元気、大きくなったろうと、彼らの子供達の名前まで上げるに及んで、その場に居合わせた全員が呆然と立ち竦む。
――本当に山下統一郎なのか――そう思わなければ、話の辻褄が合わないのだ。
しかし37歳の青年が、80歳位の老人に変化するのだろうか。それも僅か2年で・・・。物理的には不可能なのだ。
とにかく老人の話を聞くことが先決だとの、駐在所のおまわりさんの説得で、一同は部屋の中に陣取ると、テーブルを囲んで老人の話を聞く事にする。
老人はねずみ色の作業服を脱ぐ。服の裏地に山下のネームが入っている。
山下統一郎に一番親しい友人が、この服、山下君のものに間違いないと保証する。
老人が話をする前に、友人は2年前の事を手際よく説明する。
山下統一郎は小さい頃から、あちらこちらへ出かけることが好きだった。長じては、日雇いやパートなどで、お金を貯めると2ヵ月3ヵ月と家を留守にする。両親に死別した30歳頃、3か月の留守が半年1年となる。
どこに行くのかと尋ねると、あちらこちらと、フーテンの寅さんよろしく、全国の山々を巡り歩くのだという。お金がなくなると、また舞い戻ってきてお金を稼いでは出かけてしまう。
出かける前は、親しい友人を招いて自宅で一杯やる。2年前の山下の服は、今老人が着ている作業服だったと力説する。
そのせいもあって、一同は老人が何を語るのか、固唾をのんで聞き耳を立てる。
老人の話は、一口でいえば、2年前に異次元の世界に入ってしまって、そこを出たら老人になってしまったと言うものだ。現在の浦島太郎というところだ。
一同の顔に失望がありありと見れる。
・・・作り話・・・誰もがそう思ったと言う。
無理もない。そんな話をまともに信じる方がどうかしている。古代ならいざ知らず、月世界旅行も夢ではない時代だ。
山下統一郎=老人、一時はそう信じかけたが、話を聞いて、たちまちの内に老人への疑念に変わる。
駐在所のおまわりさんは、職務の立場上、とりあえず老人を駐在所に連れて行った。
おまわりさんは老人が山下統一郎を殺したのではないかと疑っていた。どこかで山下氏に会って2年ばかり付き合う。山下氏の身辺の情報を得た後で、殺したのではないかと考えたのだ。
駐在所での事情聴収にも、老人は自分は山下統一郎だと主張するのみ。
駐在所は老人が山下統一郎だと思ってはいない。老人が山下統一郎に成りすますなど、年齢的に無理があるのだ。
しかし老人は山下氏の事について細部にわたって熟知している。友人知人、親戚の家族構成に至るまで知っている。山下氏の身辺を調べ上げるにしても、細部撫で知悉する事は不可能であろう。
老人が山下氏を殺したという証拠もない。警察に拘留する訳にもいかない。かといってこのまま無罪放免にするわけにもいかない。幸い山下氏の親戚の計らいもあり、山下氏の家に留め置く事にした。
問題はこの老人を誰が養うかだ。誰も見も知らぬ老人の為に身銭を切りたくない。仕方なく市役所の福祉課に相談しよう考えた。
それに対して老人は、部落の者に、自分は昔、急須の仕上げをやったことがある。昔取った杵柄だ。これなら体力のない自分でも、誰にも迷惑をかけずに暮らすことが出来る。確か、常滑市保示町の肥田製陶所なら、今でも急須の鋳込みをやっている筈だ。急須の仕上げの仕事を回してもらうよう、お願いしてもらえないか。山下統一郎と言えば判ってくれるはずだ。
実際、肥田製陶所に問い合わせてみると、確かに数年ぐらい前に山下氏が急須の仕上げをしていたことが判る。
びっくりしたのは部落民や友人知人だけではない。
それに、朱泥の急須は、現在はほとんどが、石膏型の鋳込みで作っている。石膏の型に液体状の朱泥を流し込んで、急須の形を作る。石膏型から取ったばかりの急須は色つやが悪いし、凸凹している。それを艶出しをしながら、急須の形に収めていく。1ミリの狂いも許されない。仕上げが出来るまで、1年くらいの修行が必要と言われている。
どの世界でも経験者が優遇される。肥田製陶所の社長は事情を聴いて、気後れするが、老人のたっての頼みに、試しに仕上げをやらせてみる。結構きれいに仕上げていく。作業にも無駄がない。
周囲の者は驚きを通り越して、気味悪がるばかり。
「どうだ、現在の浦島太郎って、テレビに売り込んじゃ」そう言う者もいるが、老人が山下氏と決まった訳ではない。もし本物の山下氏が現れたら、自分達の立場はどうなると、この案は一蹴される。
――しばらく、様子をみよまいか――と言う事になった。
野次馬根性の者はどの世界にもいる。好奇心で老人の家に押しかけてくる。老人はもともとは無口で、無愛想である。この性格は山下氏その者である。
野次馬が押しかけて、興味本位に話を聞こうとしても、玄関先でおっぱわれるのがおちだった。
私は老人に興味を持ったが、友人から玄関先で追い払われるのがおちだと聞いていた。一時期、話を聞く事は諦めていた。山下氏の親しい友人と話をする機会があった。山下氏の話を聞きたいが無理だろうかと相談した事がきっかけで、今日の訪問となったのである。
その友人は、老人に私の事を、興味本位で話を聞く男ではないと力説した上で、趣味で小説を書いている。ぜひ小説の題材にしたい。浦島太郎の話も事実あった話だと信じている人だ。熱っぽく説いてくれたのだ。
老人も心を動かされて、それ程までにいうなら会って話そうと心を決めてくれた。
老人の話に、異次元の世界への入り口として、神社の神殿の横手の小径が出てくる。幸い、多賀神社の神殿の横にも小道があるのを思い出して、その雰囲気だけでも味わおうと、わざわざ、多賀神社の境内地に車を置いたのである。
部落への道は、新しく作られた国道の、多賀神社前を百メートル程南に行くと、6メートル幅の新しい道が出来ている。その道を左折する、3百メートル程先で部落に入る。
玄関には鍵はかかっていない。朝の10時とは言え、夏の太陽は暑い。山下氏=老人は酒は飲むと聞いているが、朝っぱらから飲むほどの飲ん兵衛ではないと言う。
お土産にメロンを持参する。引き戸を開けて声をかける。
「どうぞ」小さいが、しわがれた声がかえってくる。
友人から話がついているので、余分な事は言わない。勝手に上がり込むと、左手の和室に入り込む。
和室と言っても、6帖の広さの室内はビニールシートが敷いてある。プラスチックの箱が山済みになって、室内所狭しと置いてある。山下氏は私に背を向けて、ロクロと対峙していた。私は仕事の邪魔をしてはいけないと考えて、そっと腰を下ろして、山下氏の猫背姿を見守っていた。彼はねずみ色の作業服を着こんでいる。室内は快適で、程よい温度に保たれている。
鋳込みの急須は生地のままなので、ある程度の湿り気と温度が必要になる。乾燥しすぎると、急須が乾きすぎて固くなり、仕上げが出来なくなる。逆にあまりにも湿りすぎると、生地が柔らかすぎて、仕上げが難しくなる。適度の湿度と温度は仕上げ職人の勘で決める。
10分程待って、白髪の顔を私の方に向けた山下氏は、探る様な眼で私を見ていた。
――品定めしているのだな――
第一印象が大事とばかりに、私は持参した土産のメロンを差し出す。腰を低くして「こういう者ですが」名刺を差し出す。
老人は手にしたメロンや名刺を脇に置く。
「おや?」私は不審の念に襲われる。
老人は私を見ているが、睨みつけるのでもない。ただぼんやりと見詰めるだけと言った感じなのだ。
よくみると、眼に光がない。焦点も定まらず、ただ何となく私に目を向けているだけという様子なのだ。
私は正座したまま、老人と同じように猫背となる。何か挨拶でもした方が良いのかなと思ったが、何を話したらよいのか判らない。
「あんた、歳いくつ?」
老人は口を開く。
「はあ・・・、51ですが・・・」老人の腹の底が読めない。質問された事だけを言う。
「ほうか、わしより年上なんだなあ」
私は呆気に取られて老人を見る。誰が見ても老人の方が年上に見える。喉まで出かかった反論をぐっと飲み込む。黙って老人の顔を伺う。
老人はほうと溜息をつく。落ちくぼんだ眼を閉じる。皺だらけの骨ばった手で、白髭についた朱泥のほこりを払う。次にねずみ色の作業服のほこりを、手拭いで叩くように払うと、「どっこいしょ」大儀そうに立ち上がる。実際に大儀なのだろう。苦しそうに薄い唇をへの字に曲げている。
奥の台所に入ると、コーヒーセットやインスタントコーヒー、電気ポットを持ってくる。
コーヒーカップに無造作にインスタントコーヒーを入れる。音を立てて湯が流れ落ちる。砂糖とクリープを添えて、私の前に置く。自分のコーヒーも用意する。つまみとスプーンを添えてくれる。
「まあ、やって」言いながら「あんた、家どこ?」と尋ねる。
私が住所を言うと、「榊原儀一さんとこの近くかいな」一人合点する。
私はびっくりして老人の顔をしげしげと眺める。榊原儀一氏は私の家の前で、朱泥の急須の鋳込みをやっている。年は30代半ば。
「榊原さんを御存知で」
「わしと同年だがなも」老人の表情が和んでいる。私に対する警戒心を解いているようだ。
「あんた、足がえらいだらあ、楽にして」
そういう自分は胡坐を組んでいる。ここは遠慮しない方が良いと思って、ゆったりと足を崩す。
「わし、お茶よりコーヒーが好きでなあ」
老人は独り言のように喋る。
「わし、旅が好きでなあ、山から山、部落から部落と歩いてもなあ、何処へ行っても喫茶店がある」
こけた頬を、ふうふう言わせながら、眼を細めてコーヒーを飲む。
「あんた、わしが体験した事、本当に信じるだかな」
コーヒーを飲み終わって、満足そうな眼が、一瞬きらりと光る。
「信じたいと思いますが」私は老人の顔を伺う様にして言う。
老人は何も言わない。不機嫌そうに眼をそらす。
・・・返事の仕方がまずかったかな・・・
「私、あなたのような経験はありませんが・・・」と前置きして、以下のように言い訳をする。
自分は小さい頃からよく夢を見る。それもカラーばかりで、実に生々しい。眼が覚めた後もよく覚えている。
夢見判断ではないが、夢の内容で未来のことが判る。
魚を釣り上げる夢を見た時、必ずお金に恵まれる。犬に吠えられたりすると、後日、何らかのいざこざに巻き込まれる。
スーパーマンではないが、空を飛ぶ夢も見る。水の上を歩いたり、壁をすり抜けたりする。水の冷たさ、風の涼しさをはっきりと感じる。人の顔も夢から醒めた後でも、よく覚えてる。
小さい頃から、宗教や超常現象に興味があった。それに類する本も何冊でも読んでいる。
長じて、我々が住んでいる物質世界の奥に、幽体と言われる世界があると、信じるようになっている。
それだけではない。物質世界も幽体の世界も究極には波動から成り立っている。これは私の説ではない。古代の神秘思想、現代の最先端の科学の思想からの結論として言うのである。
つまり、この世界は物質世界ではあるけれども、絶対不変の世界ではない。太陽の光が基本的には七色だが、現実には無数の色彩に変化するように、この物質世界も、無数の世界が重なっていると考えられる。
一つの譬で言えば、今ここにいる私達の世界は、別の世界では海の底であるかもしれないのだ。
老人は落ちくぼんだ眼を、まん丸に見開いて私を凝視している。瞬きもしない。唇を一文字に結んだまま物の怪に憑りつかれたように身動きもしない。
私の話が終わると、老人の表情が柔和になる。
「あんた、変わった人だなも・・・」ポツリと漏らす。
私は苦笑して、さめたコーヒーをぐっと飲み干す。
「時間はええだかな」
私は今日は何の予定も入っていないと力説する。
「あれは、平成8年の5月ごろだったわ・・・」
老人は、急須の入ったプラスチックの箱にもたれ掛かる。足を前に投げ出す。
遠くを見る目が、忙しく瞬く。
山下統一郎は平成8年当時35歳。
中肉中背で、肉体労働に従事しているせいもあろう。がっちりとした体格をしている。歩く事が好きで、家を出てどこに行くにしても車には乗らない。
生来、人付き合いが苦手ときている。一杯やるのも、気心の知れた者のみ、同窓会やその地域の集会にも顔を出した事がない。かと言って、変人扱いされているのでもない。性格は大人しく、人とは決して争わない。
山下統一郎の唯一の楽しみは、金を懐に入れて、常滑を離れて、山から山へ、部落から部落へと歩く事である。
気が向けば1週間でも2週間でもその土地に腰を下ろす。金が底をつきだすと帰郷する。家族もいないから気楽である。
すぐに金になる仕事といえば、ガードマンや、道路舗装の工事人、土方などだ。彼は半年ばかり、せっせと働いてはまとまった金を作る。
旅に出る時は、3~4人程度の友人、知人を呼んでは席を設ける。留守の家を依頼する。
今度はどこへ行くかは大体の事は伝えてある。
常滑を離れた後も、1週間に1度は知人宅に電話を入れる。
手ぶらで出発する。有難いことに、全国どこへ行ってもコンビニがある。金さえあれば不自由しない。強いて持っていくものと言えば、腕時計、メモ帳、ボールペン、ハンカチぐらい。作業服のポケットに収まってしまう。
今回、家を留守にする予定は約半年、まずJRで長野まで行く。そこから山梨県の甲府まで歩く。甲府から静岡県の飯田を抜けて、中津川まで行く。そこから岐阜の関を通って、滋賀県の伊吹山に入る。御在所山に登り、名古屋に至る。
半年もあれば気楽に行って帰ってこれる筈だ。
平成8年5月末日、早朝家を出る。尾張多賀社を裏から昇り、神社にお祈りして、旅の無事を祈る。
常滑駅まで歩いて、名古屋駅まで電車に乗る。JRに乗り換えて長野に向かう。急行とか特急には乗らない。乗り換えを覚悟で各駅停車で行く。時間をかけて、じっくりと、楽しみながら行くのが好きなのだ。
彼は黒々とした髪に、めったに櫛を入れない。髭も1週間に1度ほど、電気カミソリで剃る程度。髭が伸びてきたら、その土地の理髪店でさっぱりすればよい。カミソリなど今は宿屋に常備されている。
彼の風体はどこぞの労務者が電車に乗って隣町に行くくらいにしか思われないだろう。山下自身、昔から目立つことが嫌いだし、作業服スタイルが気に入っている。
長野で降りて、予定のコースに沿って歩き出す。都会の人混みの中を歩くのは嫌いなので、駅から降りると、売店で地図を買う。次の町や部落までどのくらいの距離があるのか、駅の近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら調べる。缶コーヒーを買求めて出発する。
腕時計を見ると午後3時過ぎである。特急か急行に乗れば昼までには着くであろうが、急ぐ旅ではない。夕方までに隣町に到着すればよい。
山下統一郎の経験から言うと、1人旅で注意する事は、服装はこざっぱりしている事。無精ひげを生やしたりして、放浪者と間違われない事だ。
東京や名古屋のような都会ならいざ知らず、辺鄙な町では胡散臭い眼で見られたり、一泊の宿さへ借りることが出来なくなる。
宿は出来るだけ民宿か個人経営の所に止まる。宿賃が安い事と、その地方の風習や人情に触れることが出来る。
ただ、突然宿に入って、泊めてくれと言って「はい、どうぞ」と言われる事はまずない。だからと言って予約など出来ない。当てのないブラブラ旅だから無理というもの。
そこで便利なのが交番か駐在所である。
おまわりさんに正直に事情を話して、宿を紹介してもらう。
もっとも初対面で、警戒される事もあるので、身元確認の為に、常滑市古場の駐在所に電話を入れてもらう。駐在所にはどこどこを歩いて回るからと伝えてあるので、山下統一郎の身元が判明する。
おまわりさんの紹介だから、宿の方も安心して泊めてくれる。
一泊が二泊になり、三泊、四泊になる事もある。肝心なのは宿泊費は必ず一泊ごとに支払う事だ。相手も笑顔で接待してくれるし、サービスも良い。
長野県を皮切りに、松代温泉まで歩く。観光地としての松代温泉の旅館には決して泊まらない。松代町の外れの民宿で体を休める。2泊程滞在し、近くの神社仏閣を訪れる。
松代温泉の近くにある皆神山に登る。ここは古代の日本のピラミッドと言われ、この一帯は聖地だった。この様な聖地は日本全国に無数に点散している。この様な場所には、必ずと言ってよい程神社仏閣が建っている。
皆神山の南に象山神社が鎮座している。
山下統一郎は、大きな神社よりも、見過ごしされがちな小さな神社や祠の方が好きだ。柏手を打ち、両手を合わせて、旅の無事を祈願する。2時間でも3時間でも祠や神社の境内で、腰を下ろして雲の流れを眺める。
国道20号線沿いには観光名所が多い。団体客がどっと押し寄せるような名所には近寄らない。
コーヒーが好きなので、1日1回は喫茶店に入る。今は何処に行っても喫茶店やコンビニがある。金さえあれば日常生活には不自由しない。下着類も取り換えることが出来る。
日本の道路事情は実によい。何処へ行ってもアスファルト舗装されている。砂利道を探す方が難しい。
山下統一郎は目的の道路から外れた行動はしない。地図に載っていないような道には入らない。
以前、気晴らしに脇道に入った。道に迷い、野宿する羽目になった。以来地図に載っていないような道には入らないようにしている。
一週間が瞬く間に過ぎる。小県郡の千古温泉に行き着く。露天風呂で汗を流す。上田市に入り、少々横道にそれて生島足島神社まで足を延ばす。ここで一週間ばかり腰を休める。旅の人情にふれ、この上もない気分に浸る。フーテンの寅さんもかくやとの思いになる。
「旅の気分を満喫できたのはそれだけだったわあ」
山下統一郎は、皺の深い顔を両手でこする。彼の話は朴訥としている。必死になって、言葉を選びながら喋っている。思い出しながら話している所為もあろう、突然言葉が途切れたり、間延びしたりする。
朝10時頃訪問して,もうすぐ昼近くになろうとしている。歳をとって、トイレも近いのだろう。4~50分おきに用足しに行く。
「昼飯に鮨でも取りますが、どうですか」
私は老人に聞いてみる。無論私のおごりである。彼は軽く頷く。私は携帯電話を取り出すと、古場の町のすし屋に出前を頼む。
余程コーヒーが好きなのだろう。コーヒーばかり飲んでいる。私はお茶を頂く。
山下統一郎はコーヒーを飲み終わって、落ちくぼんだ眼を満足そうに細める。
上田市を発って、丸子町、長門町と下り、茅野町から諏訪郡に入る。富士見町から5キロ程南下すると塩沢温泉に至る。その近くで数日間足を休める。
甲府市に後百キロ程手前の北崎市中谷という所に到着。長野を出て、約40日間かかった。甲府市までは2ヵ月の期間を予定している。ゆっくり歩いても3日か4日で着いてしまう。
武田八幡神社に参る。境内で休憩して地図を広げる。神社地の北側に西に走る道路が伸びている。甲府市街地に抜ける道と判る。
多分と想像をめぐらす。国道20号線が貫通しない昔、人々はこの道を歩いて甲府方面に向かったのであろう。
急ぐ必要はない。地図の上で大体の距離を測る。3百キロぐらいと予測する。地図の上では温泉地や町も付いている。幸い朝の10時を過ぎたばかりだ。
国道20号線は長野と甲府を結ぶ大動脈だ。車の通行量も多い。ここは1つ、間道を歩いて見るのも面白いと考えた。幸い道路は一本道で、嫌でも甲府市街に入るようになっている。
「よし、歩こう」こう決心したのが運命の別れ道となる。
山下統一郎が喉の奥に詰まった痰を吐き出す。話す言葉も、詰まった痰のようで、なかなか出てこない。
私が辛抱強く拝聴していると、出前の鮨がやってくる。1つを山下統一郎にすすめ、私は鮨をパクつきながら、彼の顔を伺う。
山下統一郎は竿縁天井を見上げながら、眼をしょぼつかせている。
これからが、いよいよ話の山場となるのだろう。話す言葉を一生懸命に浮かべている様にも見える。
間道は荒倉山、御所山、甘利山の尾根を走っている。途中御座石温泉や青木温泉などが点在している。尾根伝いとはいえ、険しい山道ではない。。車の通りも少なく、6月の中旬とはいえ、涼風に身も心も爽快である。10日から20日ぐらいかけて、ゆっくり進めばよいと考えている。途中の温泉に浸りながら、物見遊山の気分を楽しむ。
甘利山のなだらかな尾根から麓へと、道が下る。降りきった所に平野が開けている。道は田や畑の間をぬうように、東の奥の部落へ続いている。その後ろに小高い丘がある。部落に近づくにつれて、丘の麓に木の鳥居が見えてくる。
部落に入る。喫茶店やコンビニはないが、雑貨店がある。自動販売機も置いてある。缶コーヒーを買って喉を潤す。
店番をしている胡麻塩頭の主人に、ここは何処かと聞く。
「向川という町ですが」主人は気さくに答える。
山下は旅の目的を話す。
「それなら少し南に行った所に赤石温泉があるが」笑顔の答えが返ってくる。
腕時計を見ると午後4時近く。主人にこの町に民宿は無いかと尋ねる。
主人は首を振る。余程親切な御仁なのだろう。よかったら、うちに泊まっていけと言う。食事代だけもらえればよいと言う。山下は1つ返事で了解する。
日もまだ高いし、その辺をブラブラしてくると言って、雑貨店を出る。町は道を挟んで建ち並んでいる。しばらく歩くと赤石温泉への矢印の看板が立っている。町の真ん中辺、北の方へ歩く。2百メートル程行くと、先ほど見た鳥居が見える。いかにも鎮守の森に相応しい小高い丘である。鳥居をくぐると、数十段の石の階段がある。
左右は鬱蒼たる林である。階段を登り詰めると、参道がある。周囲は広々としている。奥に神殿が鎮座している。
神殿に柏手を打って一礼する。ほっと息をつく。賽銭箱の横に腰を下ろす。周囲を見回して、この風景は、古場のお多賀さんに似ていると思った。
しばらくして、周囲をブラブラする。人気がない。境内地は清掃が行き届いている。
神殿の右手に、棒を2本立てて、注連縄が張ってある。何だろうと思って近づいて見る。奥に巨石が横たわっている。その岩に注連縄が張ってある。よくみると、岩の下の方に、人1人が何とかくぐれるような穴が開いている。入る気はないが、興味がわいた。
そういえばと、2本の棒と注連縄に目をやる。この方法は鳥居の初期の形態を示していると聞いている。
神社の森を出て町に戻る。人気がない。田や畑は青々と稲穂が茂っている。町の建物は数十棟はあるのだろう。雑貨屋以外これと言ったお店はないようだ。
車社会の時代だ。欲しい物はすべて調達できる。そんなことを考えながら町並みを見て歩く。
建物は一応に古い。新築の家はない。窓にサッシ窓がはまっている家がちらほら見えるが、全般に木枠の窓の家が多い。
路地裏に回ってみる。清流が流れている。老婦が野菜を洗っている。
笑顔で近づきながら、腰を降ろして、歩いて旅をしている者だがと声をかける。老婦は姉さん被りを取って、浅黒い顔で笑う。
2人は10年来の知己のように語り合う。山下は、今夜はそこの雑貨屋に泊めてもらうつもりだと話して、腰を上げる。
一応町中を見て回り、手持無沙汰で雑貨屋に戻る。主人は奥へどうぞと手招きする。雑貨は10帖程の部屋に雑然と置かれている。玄関を入ってすぐ左手である。
玄関は三和土の土間だ。
今でも田舎でみられる田の字型の家だ。玄関の奥は板の間となっている。板の間の左手、店舗の奥が8帖の和室。部屋はすべて蛍光灯がついている。暗い感じはしない。
「それじゃ飯にしますかな」主人は歯の抜けた、間延びした顔で言う。
「よろしく」山下は正座して頭を下げる。
「まあ、楽にしてくれや」主人は膝の破れたズボンに半袖のシャツを着ている。顔は深い皺が寄って老齢を感じさせるが、シャツからはみ出た二の腕は逞しい。
「どうだな、先に風呂でも入るかな」台所から主人が声をかける。
「はい、有難うございます。山下は元気よく返事をする。
こんな時は変な遠慮はしない方が良い。好意は素直に受けるのもだ。
「そこの引き戸を開けてくれや」主人の声に、和室の北の引き戸を開ける。そこは増築したらしく、新しい合板の造りとなっている。
右手前にトイレ、突き当りが洗面所と風呂になっている。脱衣場で作業服を脱ぎ風呂場に入る。タイル張りである。蛇口から湯が出る。
田舎でも、今は電気や水道は完備している。排水もそれなりに完備しているとみる。風呂の湯も湯沸かし器で。エネルギー源はプロパンガスなのだろう。山下はそんなことを考えながら湯に浸かる。
夕方6時頃、台所のテーブルで食事をする。主人と2人きりである。
山下は食事をしながら主人に色々な事を尋ねる。山下も自分の事も話す。そうする事で、雰囲気が和む事を知っている。
常滑にいる時は、多くの人達との酒の席や宴会が嫌で出席した事はない。たとえ出たとしても、元来の無口で喋る事はまずない。
なのに、見知らぬ土地では、見知らぬ人と話をするときは、舌も滑らかになる。
主人の名前は輝岡佐吉、65歳、妻に先立たれて1人暮らし。2人いた子供は、1人は東京へ、1人は甲府に住んでいる。お盆や正月以外は帰ってこない。
有難いことに、今は1人暮らしが出来るよう、全て完備している。年金も入ってくる。食うに困らない。
「一杯やるかな」主人の勧めに、頂きますと答える。酒は好きだから、遠慮なく湯のみ茶碗を突き出す。
酔いも回った頃、山下は神社で見た神殿の横手の大きな岩について尋ねる。
主人は久し振りに喋る相手が出来て上機嫌である。聞かれもしないことまで話してくれる。
神社は御嶽神社、と言っても、御嶽信仰以前からの建立なので、古い神社であることは間違いない。
明治になって、古くなった神殿を建て替えた時に、御嶽神社と名称を変えたと聞いている。
横手にある岩は神代の岩と言われ、古老の言い伝えでは、この岩こそ本来の神様だと言う。
岩の下にある穴は常世の穴と言われている。穴はずっと地下深くまで続いているらしい。もっとも誰も入った事がないので、真偽の事は定かではない。
戦国時代、織田信長に敗れた武田の落武者が、この穴に逃げ込んだとの言い伝えがある。
「それで?」山下は合いの手を入れる。話し手は、興に乗って、話に弾みがついてくる。
古来から、この穴は常世の国に通じる道だと信じられていたので、誰が言うともなしに、常世の国に行ったのだと噂が広がる。
江戸時代中期、何年の年かは定かではないが、奇怪な出来事があったと言い伝えられている。
この穴から1人の老人がはいずり出てきたというのだ。たまたま、参拝に来ていた町の者が見つけて、家の連れて帰ると、老人は常世の国から来たと言う。
介抱する人々は驚いて老人を見ていると、わずか数時間で百数十歳になったようにひからびて死んでしまった。
以来、注連縄を張って、人が近づかないようにした。
老人は死ぬ間際に以下のように語っている。織田の軍隊に追われて穴に逃げ込んだのは自分だと言う。
穴の向こうに常世の国があって、そこに住人は皆若い。自分も穴から出るまでは歳をとらなかった。
そこは極楽浄土のような所かとの問いに、老人は、初めの内は自分でもそう思った。年月が過ぎるうちに、そうではないと判り、怖くなって逃げかえって来たら、この歳格好になってしまった。
山下統一郎はこの話に興味を持った。明日この町を出発する前に、もう一度穴を見てみようと考える。
翌朝、雑貨店の主人に礼を言って、神社の杜に入る。神殿に柏手を打ち、深々と頭を下げる。横手の棒2本の注連縄をくぐり、巨石の前にたたずむ。
仰ぎ見れば見る程、圧倒される大きさだ。
神社形態が出来る前の巨石信仰の名残だ。神社形態は朝鮮半島から渡ってきた。巨石信仰は朝鮮半島にもあると聴く。
巨石の下に、1メートル程の円形の穴が開いている。腰をかがめて中を覗くと暗くて何も見えない。懐中電灯を持ってこなかった迂闊さに舌打ちする。
雑貨屋に戻って借りようと思ったが、穴に入るつもりだと話せば、反対されるに決まっている。
立ち入ってはならぬとタブー視している。注連縄は立ち入り禁止の目印なのだ。幸い百円ライターを持っている。境内地を捜せば枯れ枝の2本や3本容易に見つかる。
気を取り直して入ろうかと、奥を伺う。側にある枯れ草に火をつけて投げ込んでみる。穴は緩やかな下りになっているようだ。ひんやりとした空気が漂っている。行き止まりではない証拠だ。
・・・入ってみようか・・・と思うものの、心にためらいが残る。
雑貨屋の主人の話を思い出す。落武者の話では、常世に国には間違いないが、恐ろしい所と言う。
入ったがよいが、下手をすると出るに出られない羽目に陥るかも知れない。未知への恐怖、それが山下統一郎のためらいの理由なのだ。
彼は一旦、神殿前の賽銭箱の横に腰を降ろすと、溜息をつく。
・・・何を怖がっている・・・自分に言い聞かす。
山下統一郎は小さい頃から、あちらこちらで歩くのが好きだった。見知らぬものに触れ、見知らぬ人に出会う。その感覚が何より好きだった。
小学校5年生まで、両親に連れられて、名古屋や岐阜、伊勢などに連れて行ってもらう。その前の晩は興奮して眠られぬ程だった。
小学校6年の時、母が肺炎で亡くなる。中学生の時に父が再婚。若い継母だった。細長い顔の狐のような顔をしていた。ほとんど表情を顔に出さなかった。
継子に対する扱いにも冷淡だった。山下統一郎が風邪をひいたり、腹痛でのたうち回っていても、薬を与えないし、医者を呼びもしなかった。病院に行きたければ、自分で這って行けとばかりに、冷たい眼差しで見下すばかり。仕事から帰ってきて、息子の異常に動転する父は母をなじる。
「私はこの子の面倒を見るために、この家に嫁いできた訳ではありません」毅然として言い放つ。
父は唖然としてその場に立ちすくむのみ。言われてみればその通りだが、一家の主婦ともなれば、家族の者が病気にでもなれば、医者よ薬よと看病するのが当然ではないか。気の弱い父は、口では言えず、眼で継母を非難するのみ。
継母が来てからというもの、山下は家に居つかなくなる。学校に出かけると、夕方7時か8時頃に帰宅して、夕食を摂ると、そのまま布団にもぐりこむ。
高校を出て自分で稼ぐようになると、2日か3日旅に出る。それが日が経つにつれて、1週間2週間となる。
母が生きている間の旅は、未知の世界に触れる喜びがあった。継母が来てからは〝家”から逃れるための旅に変わっている。
旅に出て、心の拠り所を求める。見知らぬ土地に行き、心の落ち着ける場を見つける。本当ならその土地に何年も居たいと思う。
長くて数カ月いて、その土地も安住の地ではないと知る。また旅に出る。
山下統一郎の旅はその繰り返しに過ぎなかった。
彼は立ち上がる。鬼が出るか蛇が出るか、常世の国ならぬ奈落の底に落ちてしまうかもしれない。
今までも危険を承知で山の奥の道なき道に入った事もある。何も畏れる事はない。死んだら死んだで、それだけの事ではないか。
彼は境内の杜の中から、数本の枯木を見つける。その内の1本に火をつける。火は勢よいよく燃える。
朝、雑貨屋を出る時にもらった握り飯を確かめる。身に着けているのは、ライター、タオル、雨合羽、曜日と日付け入りの腕時計、それに現金のみ、靴は歩きやすいようにと、スニーカー、軍手も作業服のポケットに収まっている。
穴に足を一歩踏み入れる。腰を落として前方を火で照らしながら、一歩二歩と進む。胸が高鳴り、子供の頃に経験した興奮が蘇る。天井が低い。足元は露に濡れて滑りやすい。凸凹しているために、却って歩きやすい。
巨石と思ったのは、実は神社の山一帯を含む巨大な岩石ではないかと想像する。太古、火山の噴火などでこの様な穴が出来たのかもしれない。
穴自体は迷路になっている可能性もある。ひょっとしたら、迷子になって出られないのかも知れない。山下は足元の石を拾い上げて、穴の壁に矢印の傷をつけていく。
穴はゆったりとした下りになっている。百メートル程は腰を屈めなければならない程窮屈だった。歩くに従った、穴の広さが大きくなっていく。
3百メートル程行くと、穴が途切れる。松明代わりの明りで足元を伺うと、1メートル程の断崖となっている。穴の中は暗くじめじめしている。不思議なのは虫のような生き物が見当たらない事だ。
足元が悪く、用心して歩いているので、穴の底に落ち込まずに済んでいる。穴の底に何かないかどうか確かめるために、枯木の一本に火をつけて落としてみる。岩肌が玄武岩のように黒っぽい色をしている。
とにかくこのまま進むしかないと考えて、下に飛び降りる。洞窟はまだ先へと続いている。冷たい微風が先から漂ってくる。洞窟内が枝分かれしていない事だけが唯一の救いである。
2本の松明を手にして、1本は足元、1本は眼の先を照らしながら進む。2百メートルも行くと、穴は大きくなり、身体を延ばすことが出来る。
前方に黒い塊のような物が見える。火を近づけてよく見ると、鎧のようだ。何となく鎧のような形をとどめているだけで、鉄はボロボロである。側に刀もあるが、刀らしい形をとどめているが、足で触ってみると砂のように風化して、岩肌に同化してしまう。
――雑貨屋の主人が言っていた落武者の話は本当だったんだ――
山下統一郎は胸の高鳴りを覚えた。
・・・常世の国・・・鎧や刀の残滓を見るまでは半信半疑だった。
落武者はここで鎧や刀を捨てたものと思われる。あるいは追っ手が去るまで穴の中で何日も過ごしたかもしれない。
そんなことを思いながら山下統一郎は歩きだす。
穴は右に折れたり左に曲がったりして、ずっと奥へと続いている。随分歩いた気がするが、腕時計を見ると穴に入ってからまだ1時間くらいしか経っていない。ゆっくりとした歩きなので、距離としてはそれ程ではないのかもしてない。
1つ確かなのは、穴は下りである事だ。松明がなければ真の闇の筈。早く穴から出たいと心が急くが、無理に歩かない事だ。
昔、山道で迷った時、一刻も早く人家のある所まで出たいと、気持ちが急いて速足になった。速く歩けば早く人家に辿り着けると思うのが人情だ。実際は、方向感覚が鈍って、迷路のように山道に入り込む場合が多い。道に迷ったら、太陽や何かの目印を捜して、方向を見定める事が大切だ。
もっとも、洞窟内は一本道だから迷う事はないが、いつどこで危険が待ち受けているのか判らない。枝道があっても、見過ごしてしまう事も考えられる。
30分位歩くと、突然巨大な空間に遭遇する。
松明で照らしてみると、ドーム球場がぽっかり入る様な広さだ。穴はそこで途切れて、下に降りるようになっている。道がある訳ではない。岩伝いにはい降りるしかない。
百メートル程降りるにつれて、せせらぎの音が聞こえてくる。降りきって、松明で見ると水が流れている。山下が佇む周囲は湖のようになっている。
――地底湖――山下は呆然と立ち竦むのみ。
湖の幅は20メートル程はあろうか、湖の向こうに穴があるらしい。眼を凝らすと松明の火を照り返す黒い岩肌の中に黒々とした穴らしきものが見える事だ。
向こう岸に渡る方法はないかと、辺りを見回す。
水は右手の方向に、やるやかに、せせらぎの音を立てて流れている。水に手を触れてみる。痺れる程冷たい。山下は中肉中背で、肉体労働になれている。体は頑丈だ。性格は温厚で、人とは争わない。極めて慎重なタイプだ。
地底湖に入って、対岸に渡る方法がないのではない。山下が躊躇するのは、身を切るような冷たさもさることながら、湖の深さが判らない事、その中に命を脅かす生き物が居る事の考えられる。
彼は腰に差した枯木を1本手にすると火をつけてその場に置く。こうすれば万が一にも対岸に渡れなくても帰りの目印になる。枯木一本で優に1時間の松明になる。
山下は川上に向かって歩き出す。常識として川幅は遡行する程細くなる。
百メートル程いくと、川幅は5メートル程で、川の中に飛び石がある事が判る。せせらぎの音も荒く、白い波が立っている。川底が浅い事を示している。
山下は飛び石伝いに対岸に渡る。百メートル程川下にある松明が、彼の成功を温かく見守っている様に輝いて見える。
彼は再び穴に入る。今度は少し急な登りとなる。涼風が穴の奥から吹いている。風の勢いが強い。出口が近い事を直感する。
・・・この道は四国の金毘羅さんみたいだ・・・
山下は金刀比羅神社にお参りした事を思い出す。実に長い登りだ。頑強な山下も息が荒くなる。幸いなことに涼しい風が吹き降りてくる。階段がある訳ではない。岩の凹凸を足掛かりに登る。
ようやくの思いで登りつめると、平坦な場所に出る。平坦と言っても洞窟の中だ。風の勢いも強くなる。山下は枯木の残り2本を継ぎ足す。松明の火は明るく、風の勢いでかえって火も強く輝きだす。
足元の岩肌は初めの内は露に濡れて、歩きにくかったが、段々と水気が無くなっている。
冷たかった風も涼しくなり、生温かさえ感ずるようになってきた。出口が近い証拠だ、山下の心は躍る。
遠くの方に一点の明りが見える。山下の顔に安堵の色が浮かぶ。無事に辿り着いた喜びに、体中に力が漲る。足も速くなる。
明かりが大きくなるにつれて、今度は山下の心に不安が広がる。
明かり?の向こうの風景が何もないのだ。ほぼ円形の洞窟一面に広がる明りは白一色なのだ。まるで白いカーテンが前面を遮っているようだ。
だが風は白い明りの向こうから吹いてきている。
白い明りの前まで来た時、山下は言い知れぬ恐怖に襲われる。明かりは渦を巻いて洞窟の中に風を吹き入れている竜巻を横にしたような格好なのだ。
手を入れてみると弾き飛ばされる。巨大な扇風機が目の前にある様な錯覚にとらわれる。
山下は棒立ちになる。風の強さに松明の火が消える。この渦巻きを通り抜けねばあちら側には行けない。大丈夫だろうか、このまま引き返すべきか。
――落武者はここを越えた筈だ――自分が行けぬはずはない。だが・・・渦で体が粉々になったら・・・、色々な思いが浮かんでは消える。
山下は試しに握り拳大の石を投げ入れてみる。石は渦の中に吸い込まれるようにして消える。
――案ずるよりも産むが易しかも知れない――
ここまで来て、ぐずぐずしても仕方がない。思い切って飛び込むしかないと腹をくくる。
山下は2歩3歩後ろに下がる。息を詰めて、思い切りジャンプして渦の中に飛び込んだ。
体が宙に浮いたようになる。と思う間もなく、錐もみ状態に体が旋回する。前進しているのか、降下しているのか判らない。喉が締めつけられるように苦しい。全身が燃えるように熱い。
――死ぬ――山下の脳裡は真っ白になる。
気が付いた時、山下は洞窟の岩の上に横になっていた。起き上がろうとするが、全身を打ったらしく、節々が痛くて起き上がれない。顔を上げて周囲を見回す。洞窟の出口が目の前にある。出口の向こうは青々とした山々や樹木が、日の光を浴びて照り輝いている。
無理して体を起こして後ろを見てみる。白い明りが壁のようになり、風を吸い込んでいる。
しばらく横になっていると、全身の痛みが嘘のように消えていく。
山下は35歳の割には丈夫な体をしている。しかしわずかの間に痛みが消えていくのは不思議であった。思い切り全身を打てば、痛みが消えるまで、1時間か2時間はかかる。彼は経験上そう判断している。
ところが現実は、ものの5分と経たないうちに、痛みが消えて軽々と起き上がれるのだ。それに体が宙に浮いている様に軽くなっている。全身の細胞の1つ1つが若がえっていくように、生き生きとしている。
洞窟を出て、はるか彼方に聳える山々や、下の方に拡がる平野を見降ろした時――これが常世の国――驚きの眼で眺める。
彼の驚きはそれだけではすまなかった。洞窟を出てホッとして後ろを振り返った時、声ならぬ声を上げた。
洞窟が消えようとしている。まるで生き物のように、洞窟の穴が小さくなっている。やがて穴は点になり、黒い山肌に覆われてしまった。あわてて近ずいて見る。洞窟の跡はどこにも見えない。手で触れても冷たい岩肌の感触だけが伝わってくる。
山下はここで言葉を切る。コーヒーを飲みながらぼんやりと天井を見上げている。
「わしなあ」白髪に手をやりながら私を見る。落ちくぼんだ眼には生気が感じられない。
「町の者や友人には、この話を何度もしたんだがや」
何を言いたいのか、私はお茶を飲みながら、山下の出方を見守る。
「洞窟の穴が段々小さくなって、閉じていくって言ったら、皆白々しい顔をするんだわ」
なかには、あらかさまにアホクサと言い放つ者もいた。そういう私も、信用する事が出来ない。SF映画でもあるまいに、信じろと言う方が無理だ。
「わしだって、嘘っぽいことぐらい判っとる。でもなあ、事実だから、しょうがないんだわあ」
老人の落ちくぼんだ眼に精彩がないのは、信じてもらえぬ話を繰り返し話せねばならぬ自分にうんざりしているのだと判る。
話の腰を折ってはならぬと思って。
「いえ、面白いですよ、そういう話」
私は作り笑いをする。それでとばかり、先を促す。
山下はしばらくコーヒーカップを眺めていたが、顔を上げるとまた朴訥と話し出す。表情は穏やかで、眼は当時の状況を思い出す様に宙を睨んで生き生きとしている。
山下は山の中腹から降りる前に、崖の所で休憩をとる。腰を降ろして持参してきた握り飯を食べながら、辺りを注意深く観察する。
帰り道が消滅してしまった今、前進するしか方法がない。山下がいる所から下は緩やかな崖で、樹木に覆われてはいるが、何とか降りる事が出来ると判断する。
遠く、南の方に煙が立っているのが見える。あそこまで行けば何とかなると考える。
――ここは明らかに別の次元の世界――
本当ならば、神社の巨石の洞穴をくぐり向けて、距離的に見て、甲府の西、甲西町か白根町辺りに出ていなければならない。とすれば、そこは人家の密集地帯で、国道62号線を中心に、県道や町道が縦横に走っているはずだ。
今――。煙の立ち昇るその向こうに、山脈が連なっている。その手前に、ガラスの小片をまぶしたようにキラキラ光るものがみえる。多分湖か何かの水面が陽射しに照り付けられて反射しているのだろうと察する。
眼下一面は平野と言っても過言ではない。鬱蒼たる樹木に覆われているのでそのように判断するが、間違いはないと思っている。
急いては事を仕損じる。
退路を断たれたからと言って、やみくもに動き回るのは危険だ。山下は握り飯を食べ終わった後でも、しばらく腰を上げようとはしなかった。
手荷物を点検してみる。腕時計は正常に動いている。もうすぐ正午になろうとしている。メモ用紙やボールペンもある。百円ライターもガスが十分にある。その他手拭いや、お金もある。もっともお金は役に立ちそうにもないが・・・。
彼はメモ用紙に、今日の日付けと時間を記入する。せめて小刀でも持ってくればと後悔する。作業服やズボンが破れていないがどうか確かめて立ち上がる。
崖の道なき道を降る。体も軽やかだ。子供時代に野山を駆け巡った記憶が蘇る。身も心も空を飛んでいるように感じる。
そういえば、夏の日差しだというのに、うんざりするような暑さがない。抜けるような青空がどこまでも広がっている。草や樹木も瑞々しく輝いている。スモッグに覆われた都会の樹木のような枯れた感じがしない。
――これが常世の世界――
浦島太郎の伝説ではないが、こここそが不老不死の世界ではないかと考える。もしそうならば、自分の世界に帰る必要はない。楽しく暮らすことが出来るならば、無上の喜びなのだ。
――落武者はどうして帰ってきたのか――
脳裡に不吉な影がよぎるが、今更引き返す事も出来ない。
山下統一郎はふさふさとした黒髪に手をやり、用心深く一歩一歩山を下る。
下りきって、後ろを振り返る。山は円錐形の、青々とした樹木に覆われている。洞窟のあった付近だけが、岩肌が露出している。
どことなく、奈良にある三輪山に似ていると思った。
三輪山も中腹に洞窟があると聞いている。太古、三輪山の洞窟の中で祭祀が行われていたとも聞いている。
三輪山は伊勢神宮の神威が確立する前は、日本の祭祀の中心地だった。今でも聖なる山として崇められている。禁足地となっているので、無断で立ち入る事は出来ない。
山を降りて煙の立つ方へ歩く。少し行くと樹木が開け、麦畑が拡がっている。秋の刈入れまで間があるのだろう、麦の穂は5分咲き位だ。
麦畑の向こうに人家がある。煙は人家の軒のところから出ている。1本と見えた煙は遠目には数本の煙だった。
人家を見る。山下は驚く。
自分の世界の瓦屋根には皆無である。麦藁を載せただけの屋根、壁は板囲い。窓は一様に小さい。入り口らしきドアの戸が一枚あるのみ。人家は数十戸、一塊になっている。
・・・原始時代か、縄文か弥生時代ぐらい・・・
自分の姿を見られて、危害を加えられるかどうか、注意深く人家の間を歩く。
日差しは暖かく風もない。人家から離れたところに円形のドームのような建物がある。麦藁で塞がれているものの、ドーム状の壁に数ヵ所小さな窓がある。
人家の密集する所が部落と呼ぶならば、部落から北の方の離れた所に鉄の塔が立っている。高さが20メートルはあろうか。入り口が観音開きのようだ。円形状のドームよりははるかに高い。
不思議な事に人気がない。恐る恐る人家の中を覗いてみる。薄暗くて目が慣れるまで少し時間がかかった。8帖程の板の間に、同じ大きさの土間があるのみ。土間の中央に焚火がある。煙が立って、天井の軒の所から煙が登っている。
山下が気になるのは厨房とトイレである。それらしき施設は見当たらない。
「あなた誰?」突然背後から女の声がする。びっくりして振り返る。
肩まで垂らした髪が黒々とした美しい女だ。眼が大きくて白い肌をしている。女の方が驚いたように、山下をまじまじと見ている。着ている物といえば木綿の筒袖のようだ。裸足で、白い足が艶めかしい。
澄んだきれいな標準語だ。
山下は慌てて家から離れる。深々と頭を下げる。敵意のない事をあらわさねばならない。
にこりとして、自分の名前を名乗る。通じるかどうか判らないが、洞窟を通って別の世界からやってきたと話す。
女は納得したようにこくりと頷く。
「惣左門さんと同じ世界の人ね」
「惣左門?」山下の疑問に女が答える。
雑貨屋の主人が言っていた落武者のようだ。
「惣左門のような人が、何人か来た事があるのか」
「詳しい事は判らないけど、4人か5人はいる」
「それはいつ頃の事か」
「遠い昔、あなたの世界の時代で2千年から3千年前」
この世界の事を色々聞こうとした時、数人の男女が現れる。男は髪を後ろに束ねているのみ。無精髭を生やしている。男女とも筒袖姿だ。
男の一人が女に何か話す。山下が驚いたのは、その言葉が理解できない事だ。何と無しに韓国語に似ている。
女の話を聞き終わると、男は「お疲れでしょう。中で休んで下さい」優しい標準語で話す。
この世界に来てから身は壮快だ。疲れはないが遠慮は禁物。
「お言葉に甘えて」一礼する。
家の中に招き入れられ、土間に敷いた藁麦の上に腰を降ろす。山下に声をかけた男が外にいる女に何か叫ぶ。
「ここは私達の住まい」最初に声をかけた女が家の裏手に行き、土瓶に水を入れて戻ってくる。盃のような土器に水を灌ぐと、山下に飲むように促す。
甘みのある水だ。山下が飲みなれている水道水とは雲泥の差がある。喉を潤してから一息ついて「すみません、あなたのお名前教えてください」
山下は四角い顔をしている。太い眉に大きな眼に特徴がある。唇は大きく、笑うと人なつこい。見知らぬ土地でこの笑顔を作れば慕われる。敵を作る事もない。山下自身がその事を充分に承知していた。
女は山下の子供のような笑顔につられてにこりと笑う。家の中は薄暗いが、女の表情は手に取るように判る。
「イト」女は言葉短く言う。瓜実顔の女はさらに続けて言う。
「ここでは姓はありません」
大きな澄んだ瞳が真っ直ぐ山下を見ている。
ここにきてまだ間がない。尋ねたい事が山ほどある。それを口に出そうとした時先程の男が3人の女を連れて入ってきた。
女達は竹籠の中に果実を入れている。男は鶴口の土瓶を持っている。女達は竹籠を土間に置くと、さっさと去っていく。
「私はこの部落のおさをしている。シオという者だ」
「シオ・・・」山下はイトの側に腰を降ろした男を見て呟く。
「シオというと、あの舐めると辛い塩・・・」
シオは微笑して頷く。
「塩は沢山なめる事は出来ないけれど、身体にはなくてはならぬ物です」
そういう意味で付けた名だという。
名をつけると言うなら、両親がいる筈だ。山下がその疑問を口に出そうとした時、自分には親はいない。このイトもそうだが、名前は皆自分で付けるという。
聞けば聞くほど疑問が一杯出てくる。
山下は見知らぬ土地に来て、出会った人達に色々と尋ねる事にしている。親しくなるための手段である。
山下が口に出そうとした時、シオはイトから土器を受取ると鶴口の土瓶から白濁の液体を灌ぐ。
「まず、これを飲んで下さい。話はその後で・・・」と言いながら土器を差し出す。
山下は言われるままに飲み干そうとする。盃を2回りほど大きくした土器である。量としては1合はあろうか。甘酸っぱく、舌につんと来る。香りが良い。アルコールが入っているのか、喉が焼けるように熱い。一気に飲み干して肩で息をする。
シオは一文字眉の涼し気な表情で笑っている。イトと同じように白い肌をしている。イトが20歳前後ならシオは20代半ばというところか、山下は息をつきながら、シオの微笑む口元を見ていた。
急に酔いが回ったように、頭がくらくらする。山下は酒には弱くない。2合や3合飲んでも倒れる事はない。
・・・これは、一体なんだ・・・そう思う間もなく、全身の感覚がなくなり、その場に仰向けに倒れて気を失う。
山下が気が付いて起き上がった時は、入口の外は暗くなっていた。身の周りを見ると、作業服や下着靴などが無くなっていた。シオと同じ筒袖の服を着ていた。シオは紫色、イトは朱色を着ている。山下が身に着けているのは青である。
板の間の奥に灯明がある。山下が想像していたよりも明るい。部屋の隅々までよく判る。作業服や下着、持ち物などが山下の後ろにたたんでおいてある。腕時計はそのまま腕についている。時間を見ると8時過ぎ、随分寝ていたものだと我ながら感心する。
ふと――いやこれは眠らされたんだ――と気が付く。
目の前に竹籠に入れた果実がある。側に小刀がある。これで果実の皮を剥いで食べろと言う事か。お腹もすいている。ここまで来て、今更用心する事もない。
命を取ろうと思うならとっくに取っている筈だ。
腹を据えて小刀で果実を割って食べる。甘味がある。実にうまい。西瓜のような形をしているが小さい。
食べ終わった時、頃を見計らったようにシオとイトが入ってくる。山下の側に腰を降ろすと、シオは山下の手を取って、両手で包み込むようする。イトの方を見て「大丈夫だ」と言いながら山下の手を離す。
「大丈夫って、何が・・・」山下の方が不安になる。
「夜は長いから、あなたの尋ねたい事、話しますね」
イトは長い髪を撫ぜつける。シオのように後ろに束ねておけばと思うのだが、これがこの世界の風習なのかもしれない。シオが20代中頃と見えるのは無精ひげを生やしているためかもしれない。
イトの大きな眼が山下に向いている。瓜実顔の白い顔が、板の間の奥の灯明で妖しく輝いている。心もち突き出した唇が蛭のように動く。
「あなたがここに来たのは、私達の意志です」
山下はびっくりするが、あえて口を挟まない。
イトはゆったりとした口調で語り続ける。
山下統一郎が御嶽神社の岩の洞穴の下に佇んだ時から、自分達の世界に招く事が決められた。
「決められた?」山下は思わず口に出す。
話を聞けば聞くほど、頭の中が混乱する。イトはそんな山下を微笑しながら見守る。別に悪気があって山下を困らせようと話をしているのではない。
イトは一旦話を切る。
「あなたの世界と私達の世界は合わせ鏡です」
ますますわからない。山下の頭の中は一層混乱する。
「マジックミラーって知ってますか?」
山下は頷く。一方からみればただの鏡だが、片方から見ると、向こうが見える鏡の事だ。
「あなたの世界からは私達の世界は見えない。私達の世界からはあなたの世界は丸見え・・・」
「でも、あの洞窟に入れば誰でも、ここに来れるではないか」山下は質問する。
「穴に入る事は出来ません」
イトは山下の顔を見つめながら話を進める。
「あなた以外の人が穴に入ったら、私達の意志で途中に岩を置きます。それ以上進めないように・・・」
「そんな超能力みたいなことが出来るのか」
突然、イトとシオはおかしそうに口を開けて笑う。
「あなたが洞窟から出た時、穴が消えてなくなったでしょう」
「それじゃあ、あれは・・・」
「私達の意志の力」
「でも・・・」山下は納得できなかった。そんな神業が出来る訳がないという思い込みがある。
「イトさん、私を最初に見た時、あなた誰と言ったではありませんが」
「ええ・・・」イトは満足そうにうなずく。
「私達はあなたの世界の1人1人に注目している訳ではありません」
つまり、山下の姓も、生まれも故郷も何も判らないのだという。イトたちが注目するのは、御嶽神社の巨石の下に来たの者が、自分達の世界に招き入れる資格があるかどうか注目するだけというのだ。
もっとも注目したところで、この世界に入れるかどうかは別である。
「洞窟の中で、光の渦に出会ったでしょう」
山下は首を縦に振る。渦に入るのに死ぬような決心をしたのだ。
「この世界に入る資格がなければ、渦に巻き込まれて消滅します」
「つまり、死ぬって事?」
山下の質問にイトは眼を細めて笑うのみ。山下は絶句するが怒りは湧かない。
しばらく沈黙が流れる。2人は山下の気持ちの収まるのを待つ。
「ところで、先程飲んだ白濁の液は?」
「あなたの世界の穢れを肉体から吐き出すための酒・・・」
今度はシオが口を出す。
あの酒を飲まずにこのままここにいると、肉体は腐敗して死んでしまう。
「人間が潜水服をつけずに水中に入れないと同じです」イトが注釈をつける。
「気っていえば判ってもらえますか」
「気功の気、元気の気・・・」
神社仏閣に行くと、清々しい気分になるのは、良い気が充満しているからだ。逆に汚れた気の充満している場所に行くと、イライラしたり、落ち着きが無くなったりする。
古代人は清々しい場所をイヤシロチと呼んで聖なる場所として、神を祀っている。逆に穢れた場所をケカレチと呼び、出来るだけ近づかないようにしている。
イトはなおも話し続ける。この世界の気は、山下の世界よりも、何百倍も濃縮している。その為に、山下の身体が耐えられなくなり、腐っていくことになる。それを防ぐために山下の体から毒素を排泄して、この世界に適応できる肉体にしたのだという。
山下統一郎はここまで話して、背もたれにもたれかかる。老齢の為に話し続けることが辛いのだろう。
「あの世界が、常世の国、つまり不老不死の国だって判った」
ただ不思議なことに、何千年も昔から生活しているのに何の変化も見られない事だった。今でもアフリカの原住民の中に、原始時代そのままの生活をしている部族がいる。
我々と1つ違う所は、生活に無駄がない事、知能も我々よりもはるかに高いという事だ。
もう1つ不思議と言えば、あの世界で生活して判った事は、成人男女が2百名ほど、子供の男女が百名くらいで、子供は生まれるが、人口の増減はほぼないという事だ。
最高年齢は30歳位。シオは高年齢者だったが、自分があの世界で生活し始めて3ヵ月して、忽然と姿を消した。
自分はイトの他にも知り合いになったので、シオはどこに行ったか尋ねたが、皆笑うばかりで、その秘密が判ったのはそれから4カ月たった時だった。
山下はここで口をつぐむ。
「あまり先走ると、話の後先が混乱するでなあ」落ちくぼんだ眼をしょぼつかせる。
「ところであんた、時間の方はええのか?」
私は尋ねられて「別に構いませんが」言いながら腕時計を見る。すでに2時を過ぎている。
山下は再び落ちくぼんだ眼を天井に向ける。
・・・順番に話した方が判りやすいやろうなあ・・・
独り言のようにつぶやく。
山下が〝常世の国”に来て、その晩は夜中の1時頃まで起きていた。小さな窓の外には三日月が顔を覗かせている。木綿の筒袖1枚なのに、暑くもなく寒くもない。昼間仮眠したせいか、眠くもない。
シオとイトは山下の質問に丁寧に答えてくれる。
――きれいな日本語をどこで覚えたのか――
――覚えなくても自然身に付く――
――それはどうしてか――
――あなたの世界の言葉はいつも耳にしている――
――なぜ、私に注目したのか――
――物質的な欲に執着していないから――
色々な事を尋ねる。彼らは何千年もの昔からここにいて、全く変わらぬ生活を続けている事だった。
夜中の1時過ぎにシオは出ていったが、後に残されたイトと山下は「横になろう」というイトに導かれて、板の間に上がる。棚の上から木綿の敷物を取り出すと板の間に敷く。
山下は急に胸がときめき息苦しくなる。女と一緒に横になるのは生まれて初めてなのだ。イトは美しくしなやかの肢体を筒袖に包んでいる。側にいるだけで熱い体温が伝わってくる。
山下の心情を知ってか知らずか、イトは長い髪を麻紐で縛ると、山下の横に身を置く。
山下は胸がときめく。頭の中がぐるぐる回る。彼はあわててイトに背を向ける。
「そういえば、1つ聴きたい事が・・・」気を紛らわそうと、背中のイトに声をかける。
「何?」イトはぴったりと身を山下に寄せ付けている。彼女の熱い息使いが背中に伝わってくる。
「この部落の外れに、鉄塔のような物があったか、あれは一体・・・」
「聖なる建物、あなた方の世界の神社と同じ・・・」
塔の中はどうなっているのか聞こうと思ったが、イトはピッタリと山下に身を寄せたまま、軽い寝息を立てている。
灯明も菜種油が尽きている。暗い中、山下はまんじりともせずに、石のように身を固くしていた。
イトの体温が体中に伝わってくる。不思議なのは、段々と熱くなってくることだ。じわじわと汗が吹きだしてくる。身動きならぬまま、山下は暑さという苦痛に耐えねばならなかった。
いつしかウトウトしてくる。はっとして眼が覚める。それも束の間、深い眠りに落ちていく。
根が覚めたのは朝だった。窓の外が明るい。腕時計を見ると7時である。筒袖の服が汗びっしょりの筈なのに、さらさらに乾いている。
起き上がると実に爽快である。10歳も若返ったような気分だ。体も羽根のように軽い。
土間の藁敷の上に果物や麦飯の膳が置いてある。膳と言っても板の上に、土器に麦飯を盛っただけである。水もある。
米飯に食べ慣れている山下は、麦飯を口に入れてみる。箸は小枝を折ったものだ。麦飯はぱさぱさして不味いと言う先入観があったが、実に芳ばしい。本来ならここに味噌汁と言う所だが、果物を割って、その汁と水を混ぜて飲む。
食べ終わって満腹感を味わう。急にお腹が熱くなる。それが体中に拡がっていく。
「わしはなあ、この時不思議な体験をしただわ」山下老人は歯の抜けた口を開けて話をする。
「体中が熱くなると同時に、体中の至る所から、汗が吹きだしたんだわ」
サウナ風呂に入っているみたいで、汗は止めどなく流れ出す。青の筒袖がビッショリする程だったが、しばらくすると、濡れた服もさらりとしている。
・・・そういえば、ここに来て以来、1度も尿をもようしていない。大便の排泄も感じていない。
「汚い話じゃが、どの家にもトイレがない理由が飲み込めたんじゃ」
私は山下統一郎の話を聞きながら、あえて質問はしなかった。
我々の食べ物には多くの不純物や不要物が混じっている。胃や腸でそれらを分解して、身体に必要な栄養分だけを吸収している。不純物は排泄作用で体内から出している。。
山下の話が信用度に欠けるのは無理もない。ただ信じる信じないは別として、神仙に出会った人の記録を読むと、神仙の食べ物は、純粋な〝気”の塊りと考えられている。それらの書物の中で、神仙が尿意をもようしたという描写がない。あえて省略しているのか、穢れた部分は無視しているのかも知れない。
山下の食事が終わると、待っていたようにイトが家に入ってくる。
「食べ終わりました?」澄んだ声で言う。
腰を降ろしていた山下が立ち上がりながら頷く。イトは藁葺きの上の土器を取り上げると家の裏手に行く。
部落のほぼ中央に清水が湧き出ている。イトは山下に付いて来るように言う。清水で土器を洗う。これからは自分でするように言う。山下は素直に頭を下げる。
土器を洗い終わると山下を連れて家の外に出る。南の方にある藁葺きのドームのような建物があり、その向こうに数十棟の板葺きの小屋が密集している。
イトは小屋の中に山下を案内する。
「ここでは、すべて自給自足、必要な物だけを作る」
ちなみに、部落の長としてのシオは、遙か南にある海から潮をくみ上げて塩を作る。塩は岩塩でしか、陸地には存在しない。
シオは妻と子供2人の4人暮らし。イトは夫を持っていたが、1年前に蒸発して以来1人暮らし。
イトの仕事は麻や綿から糸をつぐむ事だ。もし彼女がいなくなれば、部落の他の者が後を継ぐ。
ここには鍛冶屋もあれば、薪を確保するための樵までいる。必需品はすべて部落民の手で生産される。貨幣はない。梁1本、土器1つでも何年も大切に使う。
失われたリ、壊れたりした時、各自が生産者に申し出る。余分には作らないのだ。
小刀や針などの耐久消費財は需要が少ない。それを生産する者も少ない。麦などの穀物は多人数の者が従事する。
政府や法律もない。部落の秩序を乱す者はいないし、支配者もいない。他国から侵略される事もない。
シオは長と言っても、部落の者を支配している訳ではない。いわば部落の運営のまとめ役に過ぎない。
部落自体は数千年も続いているにもかかわらず、古い家柄を誇る者もいない。そんな家柄自体が存在しないからだ。
イトは小屋の1つ1つを案内しながら、山下に説明していく。一通り見せ終わって、イトは近くを流れる小川に案内する。
「この川の源を、私達は知らないし、川下も知りません」調べた者は誰もいない。イトは涼し気な顔付で言う。
この世界には太陽もあれば月もある。星もある。多分・・・、というのは調べたわけではないが、宇宙は無限の大きさだと思われる。この大地も、山下の世界で言う地球の中の日本という国の一部分だという事。
だから、小川を伝って川下に行けば、太平洋に出るのだろう。あの遠くに見える山脈の向こうには別の部落があるのかもしれない。
誰もそんな遠くへ行った事がないし遠くから人が来た事もいない。
私達の世界は、昔からある,としか教えられていない。
「教えられているって、誰に?」
山下は尋ねる。この世界に来て、まだ1日しかならないのに、イトへの慕情が湧いている。
「私達を成り立たせる御方・・・」
イトは眼を細めて、北の方、部落の外れに聳える円錐形の鉄塔を見やる。彼女の表情には何の不信も不安も表れていない。現状に満足する者の豊かな表情がある。
・・・我々の世界の、神というところか・・・」
イトは山下の心中を読んでいる。
「あなたの世界の神とは少し違います」これだけ言うと口をつぐんでしまう。
山下はそれ以上尋ねようとはしない。どうせこの世界に来たのだから、じっくりと腰を据えて学んでいけばよい。
「それにしても、実に不思議な世界でしたなあ」
山下統一郎は皺の寄った顔をゴシゴシとこする。落ち窪んだ眼をぱちぱちさせる。
不思議なというのは、最高年齢者が20代後半の若者で、山下のような30代後半者は皆無という事実。それに誰1人として山下には注意を向けない。彼らからみれば山下は異人である。好奇心の眼で見られるのか当然と思うのだが、子供さえも、山下の存在を無視している。
彼は腕時計をはめて、メモ帳とボールペンを携えている。百円ライターも持っている。時に子供達の前で火を点けたりするが、誰も興味を示さない。
その理由をイトに尋ねる。彼女は笑って事も無げに言う。理由は2つ。
1つは山下の世界の事は子供さえ知っている。山下が持つ物に誰も関心を見せない。
2つ目に、自分達の目的は、何度も何度も転生を繰り返して、霊的に成長する事を目指している。だからそれ以外の事には興味を見せない。
「前にも話したように、3ヵ月後にシオが忽然と姿を消した事で、若者しかいない事実が判ったんじゃが・・・」
山下老人はぼんやりと天井を見上げる。記憶の糸を手繰り寄せるかのように、眉間に皺を寄せる。
山下統一郎がその世界に来て約一ヵ月後、イトとシオの他に数人の〝友人”が出来る。友人というよりも山下が彼らの仕事場に出入りして親しくなったという程度であろうか。
まず彼らの1日を延べる。
朝日が昇ると同時に起床する。全員がドーム状の藁葺きの建物に入る。東の空に朝日が射し込む。皆朝日に向かって瞑目する。胡坐を組む者、正座する者、
朝日が窓から消えるまで瞑目が続く。それが終わると、各自に麦飯や果物が配られる。その間、会話や雑談は一切ない。
食後、それぞれの仕事場に散っていく。子供は5歳頃から自分に適した仕事場に入っていく。見よう見まねで仕事を覚えていく。世襲制ではない。子供は10歳ごろまでは親の元で暮らすがそれ以後は独立の家庭を持つ。速い者で15歳頃から結婚して子供を産む準備に入る。
数千年、あるいはもっと古いのかもしれない。代々受け継がれている。
子供を産むのは個人差がある。数人の子供を持つ者もいれば、子供のいない家庭もある。
仕事場で作られる物資は、その月に必要な物だけで、余分に作りだめしない。
昼食は果物と水だけ。
夜、満月の前後、約1週間、野外で月光浴を楽しむ。会話はなく、約1時間の瞑目。
仕事は日が沈むと同時に終わる。各家で夕食を摂り1日が終わる。
毎日が同じような繰り返しの中で、山下は気付いたのは、新月の前日、夕食を摂る代わりに、白濁の酒が配られる。その日だけは、土間の上で寝る。前後不覚になり、朝日が昇るまで意識を失っている。
その夜1人の若者が消滅する。初めの内は誰かが居なくなっても気が付かなかった。約2百人の住民1人1人の顔を覚えている訳ではない。
3ヵ月後、シオが仕事場にも家にもいない事に気が付く。
「シオは何処へいった?」山下は血相を変えてイトに尋ねる。
仮にもシオは部落の長だ。まとめ役として重要な地位についている。その長が姿を消してしまった。普通なら大騒ぎになる所だ。
イトは大きな眼を見開いて、山下のただならぬ気配を不思議そうに見ている。
「何処へ行ったって・・・」山下の質問を解しかねるように言う。
「明日、会わせてあげます」それだけ言うと
「テツが部落の長になりました」山下に告げる。
テツとは文字通り、刃物を作る職人だ。がっしりとした体格で、髭も長い。野人のような風貌だが、子供のように優しい。欠けたり使い物にならなくなった刃物も精錬し直して使用する。
翌日、イトは約束だと言って部落の外れにある一軒の藁葺きの家に案内する。その家の前から、山下がこの世界にやって来た、ピラミッド型の山が見える。
家の内は薄暗い。土間の藁葺きの上に、15歳くらいのあどけない顔の少女が横たわっている。赤ん坊を抱いて、血の気のない顔をしている。
イトを見ると、小さく頷いて赤ん坊を見せる。
「この赤ちゃんがシオの生まれ変わり。だから将来はシオと名乗るでしょう」
山下はびっくりしてイトの口元を見る。冗談を言っている顔ではない。
イトはそんな山下に構わず話を続ける。
この子は5歳になるまで両親の元で育てられる。5歳になれば塩造りに参加する。15歳までこの家で暮らす。その後は一家をなす。ただし新しく家を建てるのではない。空き家が出るのでそこで妻をめとる事になる。
家を出ると山下はイトに尋ねる。
「どうして20代の後半で消えてしまうのか」
イトは名前の通り糸を紡ぐ仕事をしている。自分の仕事場まで行く。糸車に糸を絡ませながら山下に語る。
自分達がどのようにしてここから消えるのかは誰も知らない。1つだけ判っているのは、この世から消えた後、すぐに生まれ変わる事だ。
20代の終わりというのは、肉体の清浄をを保つためだと昔から教えられている。どんな処理を施そうとも、肉体は老いていく。これは絶対に避けられない。
あなたの世界に〝不老不死”と言う言葉がある。中国という国の文献に、千歳生きたという仙人の話が載っている。
あなた達の感覚では千年も生きれば、まさしく不老不死なのかも知れない。けれども、この世界では所詮、有限の生命でしかないと考えている。
「私達の不老不死とは、若い肉体のまま、何度も転生を繰り返し、私達の存在者と一体になる事です」
山下は呆然と話を聞いている。判る様な判らないような、山下の常識では理解できないのだった。
・・・存在者・・・山下の脳裏には円錐形の鉄塔が浮かぶ。外からは開けられぬ構造になっている。
山下は鉄塔に近づいて触れたことがある。高純度の鉄で出来ていると見えて、白銀のように輝いている。
決して錆びない鉄。そういえば、イトや他の者達が持っている小刀も白く輝き、手入れをしなくても赤錆で腐食しない。刀の部分がすり減るか、折れるかだけだ。
・・・太古、日本にも高純度の鉄の精錬法があった・・・山下は本で読んだ事を思い出す。
・・・あの塔の中に存在者がいるのだろうか・・・
イトに聞いても、笑うだけで答えようとはしない。秘密というよりも、イト自身も何も知らないというのが本心のようだ。
山下老人はここで言葉を切る。疲れるのか、足を組みなおしたり、片膝をついたり、息を整えたりしている。
腕時計を見ると3時を回っている。
私は辛抱強く老人の行動を見守っていた。余程コーヒーが好きと見えて何倍もお代わりしている。ポットの湯が無くなると、老人は頼りな気に立ち上がり、台所に入っている。朝来た時よりも元気が無くなっている。私は心配そうにその後姿を見守る。
・・・俺のように、酒も好き、女も好き、友達と居酒屋で一杯やって、カラオケボックスで大声を張り上げて、羽目を外す様な者が、老人の言う、常世の国へ行けるだろうか・・・
山下統一郎の話を聞いている限り、常世の国は単調な毎日の繰り返しのようだ。
・・・俺のような者が、そんな世界に入り込んだら、気が狂ってしまう・・・
こんな世界が実際にあったとして、山下のように人混みの中を歩くのが苦手、自然の中で、1人黙々と生活するのが好きだから、招き入れられたのだろうと考える。
色々な事を考えている内に、山下老人がポットを持って入ってくる。彼が本当に37歳とは信じられない。今、目の前にいるのは、骸骨のようにやせ細った老人の姿である。
生真面目で嘘をつくような性格ではない。山下の人物像は、人との交わりは嫌いだが、人なつこい性格で、冗談や人の悪口を言わない事だ。
彼の話は微に入り細を穿っている。作り話とは思えないのだ。
山下老人は座布団の上に、大儀そうに腰を降ろす。一口コーヒーを飲む。歳の割には頭の方はしっかりしているようだ。
話の続きに、スムーズに入っていく。
「当然の事ながら、転生できるのは部落の者に限る。わしは段々歳をとっていくことになる」
イトは山下に言う。
あなたの世界は、空も水も食べ物も、全てが穢れている。老化が速いのは主にそのせいだ。
ここは清純な世界だから、山下なら少なくとも3百歳は生きられると思う。
それを聞いても、山下は途方に暮れるのみ。今はイトやテツ、その他顔見知りの者がいる。後数年もすると一人ぼっちになってしまう。
イトは笑って答える。その心配はない。この部落にいる限り、誰とでも顔見知りになる。イトに励まされて山下はイトやテツ、その他の者の仕事を手伝う。
イトは歳の頃は22か、3になっていると筈なのに、独り者である。以前夫がいたが、子供が出来ぬうちに、夫は消滅した。
山下がイトの家に居候しても、誰も好奇心の眼で見ない。あらぬ噂話も流れない。無関心というよりも、興味を示さないのだ。
山下がこの世界に来たのは初夏の頃だ。3ヵ月が過ぎ、半年がたつ。秋から冬へと季節は巡る。やがて春になる。雨の日もあれば雪の日もある。山下が感ずるのは、自然の猛威がない事だった。台風や嵐は皆無。冬でも身を切るような寒さはない。夏も酷暑にならない。
冬の筒袖は厚手のものを着る。下着が無いにも関わらず、肌を刺す様な寒さにはならない。家の中は小さな窓はあり、出入り口があるが、ガラス戸がはまっている訳ではない。にも拘らず外の寒さが家の中には入ってこない。人が暮らすには最適な環境が提供されている。
山下老人は常世の国がいかに素晴らしいものかを強調した後、口ごもる。言いにくそうに顔を伏せる。
「わし、イトと世帯を持ったんだわ」
顔を上げる。その表情に赤みがさす。
・・・照れているのか・・・私は内心おかしかった。人間歳はとっても恋心は衰えぬというが、はにかむように語る老人の顔を見ていると、ほほえましくもある。
私は思わず笑みをもらす。
山下統一郎がイトと結ばれる。1つ屋根の下で男女が住んでいれば、自然の成り行きである。
イトは山下の欲情に応えると共に、山下の肉体に残る不浄の気を払拭するように、熱を送る。
山下にしてみれば、この世界は文字通り極楽であった。憂いもなければ悩みもない。生きる為の汗水たらして働く必要もない。自分達が必要とするものだけを作るだけ。
筒袖は丁寧に着れば2~30年は持つ。要は過分の欲さえ持たなければ、悩み苦しむ事はない。
山下がこの世界に来て2年余が過ぎる。単調な毎日のようだが、気力は充実している。
彼にとって、たった1つの不安は、約一ヵ月に一回、新月の前夜の闇夜に、知り合った部落民が、1人、また1人と姿を消してしまう事だった。翌日には生まれ変わりとしての子供が生まれる。人口は一定の割合を保っている。
とはいうものの、消滅した者達は何処へ行ったのか、死んだとしても死体もない。山下は暇にかまけて、あちらこちらと探し回るが、人の気配もないし死骸さえ見つからない。
イトやテツたちに聞いても知らぬ存ぜぬという。冗談を飛ばしているのではない。彼らは駆け引きというものを知らない。山下の世界の政治や経済、諍いについては知ってはいるが、それも知識として吸収しているだけだ。
彼らは根っからの純粋無垢なのだ。
山下には人1人が忽然と姿を消してしまう事に興味があった。1年2年と生活するうちに、心身ともにゆとりが生じてくる。。この世界に来た当初は、好奇心があっても、生活に慣れることが先決だった。
――彼らはどこに消えるのか――突き止めてみようと決心する。
新月の前夜は闇夜となる。日が落ちると同時に、部落民一同はドーム状の家に集合する。この日は夕食はない。各自に果物が1つ与えられる。それを食べ終わる頃に白濁の酒が配れる。食後はそれぞれの家に帰り、酒を飲んで、土間の藁敷の莚の上に横たわる。たちまち睡魔に襲われて、深い眠りにと落ちていく。翌朝陽が登るまで起きる事はない。
山下はイトと共に家に入る。莚の上に座り、土器に入った酒を飲み干す事になる。イトは一気に飲み干して横になる。
山下はイトの様子を横眼で見ながら、飲むふりをする。土器を手に隠し持ち土間に垂れ流す。イトが横になるのを見定めると、イトの横で寝たふりをする。
仰向けになり、両手を胸の所で組む。イトは静かな寝息をたてている。山下は腕時計を見る。7時を回っている。
この世界に来て2年、季節は12月、寒気が厳しくなる季節である。山下は毎日メモ帳に日付をつけている。自分の世界に帰る事があるかどうか判らないけど、記録をつける事で、現在の自分のいる位置を確かなものにしておきたかった。
浦島太郎ではないが、自分の世界が懐かしいとは思わない。この世界の風土が自分に合っている。ここは病気はない。老いはいずれやってくるだろうが、それはもっと後の事だ。
愛する妻、イトとは何時までも一諸に暮らしたいと思っている。もっともイトはいつ忽然と消えるかもしれない。ひょっとしたら、今夜消えるのはイトかもしれないのだ。そうなれば山下は気が狂う程動転するだろう。
部落の者は家族の者が消えても顔色1つ変えない。悲哀の情がないのかと疑いたくなる。自分の夫が消える。翌朝、別の家族に生まれた赤ん坊を指さして、これが私の夫よ、と平然と言ってのける。その心情を山下は理解できないし、同調も出来ない。
死ねば生まれ変わるだろうと言う事は理解できるとしても、身内の者が死ねば悲しい、それが山下の世界の常識なのだ。
時計を見る。8時となる。一寸先も見えない程の暗闇だ。今夜に限ってどの家も灯明さえつけない。約2百名の部落民全員が深い眠りに陥っている。死のような静けさの中、時折風が鳴る。
やがて9時になるが何も起こらない。
山下はイトが死人のように動かないのを確かめて、そっと起き上がる。百円ライターで明りを点けてみようと思ったが、気後れしてやめる。闇夜の中で一点の明りががあると、何処から見ても判ってしまう。眼を凝らして外の様子を伺うしかない。
腰高の小窓から外を伺う。隣の家が何となく判る程度だ。星だけが瞬いている。今夜、誰かが消える。それが誰だかは判らない。一軒一軒見て回る訳にもいかない。
10時になる。山下は意を決して外に出る。部落の南の外れにあるドーム状の集会場まで走る。集会場は、丸太で骨組みを組んで藁を葺いただけの簡素な造りだ。丸太の骨組みをよじ登り、天井に出る。そこからは部落全体を見回せる。暗闇とは言え、人影ぐらいは識別できる。
山下は丸太棒にしがみ付きながら辛抱強く待った。少し肌寒かったが耐え凌ぐ事は出来た。
11時が過ぎ、11時半となる。
突然、腹をえぐる様な唸り声が響いてくる。はっとしてその方向を見る。部落の北のはずれにある鉄塔の下に、大きな影が見える。影は両手を高々と上げると、闇の空に向かって咆哮する。
やがてゆっくりと歩きだす。歩きながら獲物のでも求めるように天高く吠える。影はドーム状の建物の方に近づいてくる。
――見つかったのか――山下は恐怖のあまり冷や汗が流れ、身動きすら出来なかった。
影は天井に隠れている山下の下の位置に来ると、ひときわ高く咆哮する。その唸り声は寒気を震わせる。大地に響けとばかりの圧倒的な強さを持っている。
山下は耳を塞ぎたくなるのを我慢して、じっと耐えるしかなかった。
咆哮が止むと、闇はまた元の静けさに戻る。と同時に部落の東の外れから1つの影が現れる。顔は判別できない。その影はドームの建物の方に歩いてくる。大きな影の側まで来ると、2つの影は並んで鉄塔の方に歩き出す。
鉄塔は扉が開いているらしい。2つの影はその中に消える。それから1時間立ち2時間が過ぎるが何も起こらない。
山下は丸太棒を降りて家に帰る。イトの側に横になる。
――あの巨大な影は何なのか――山下は興奮して眠れなかった。
明け方、山下は鉄塔の前に立つ。朝の日を受けて、銀色に輝くその塔は神秘的で美しかった。
――この中に、あの影がいる。それに消えた部落の者も・・・――
忽然と姿を消す謎は解けた。だが新しい謎が立ちはだかる。
あの影は何者なのか。イトが言う神に似た存在者なのか。
だが、あの不気味な咆哮は何だ。獣か、鬼か悪魔のような叫びではないか。
よく見ると、鉄塔は継ぎ目がない。一枚の板で出来ている。直径は百メートルはあろうかと思う程の巨大さだ。
世界の最高技術を持ってしても、これ程のものが作れるのだろうか疑問だ。それにこの白銀の輝き。
鉄は純度が高くなるほど錆びなくなると言われている。超古代史文献をみると、古代の天皇は天の浮舟というUFOに乗って世界各地を巡幸した話が出てくる。
そんな他愛のない話に混じって、錆びない金属、ヒヒイロイカネの話が出てくる。太陽光線に当たると燃えるような光を発すると言われている。この鉄塔がまさにそれである。
鉄塔の下の方に高さ2メートル程の四角形の出入り口ある。押してもビクともしない。
――この中にすべての秘密がある――
あるいは、この世界=常世の国の秘密もこの中にあるのかも知れない。
朝日が地上から顔を覗かすと同時に、部落の者全員がドームの建物に集まる。山下が鉄塔の下にいても何も言わない。1人1人が操り人形のように、朝起きて、夕方床に入る。同じ日課を毎日繰り返す。側に山下のような異質な人間がいようといまいと、注意さえ払わない。
山下がこの世界に入り込んだ時から、世話を焼くのはイトと決まっていたようだ。そのイトさへ、山下が一日中何処にいようと無関心なのだ。家に食事を運び、山下の求めに応じて体を開くだけだ。
山下は皆と同じように、ドームの建物に入り、イトの側に腰を降ろして眼を瞑る。窓から朝日が射し込み、体中に突き刺すような空気の流れを感じる。こうして朝の太陽の気を体に受け入れる。
その後朝食。各自がそれぞれの仕事場に就く。
山下はそれぞれの仕事場を丹念に見て回る。昨夜消えた者は誰か、見て確かめる。
この世界は不思議な事だが、文字がない。何千年も昔から続いていると言われても、記録がないので部落民の記憶に頼るしかない。その記憶も漫然としているは、1つには30代前に死んでしまう事、彼ら自身が過去の出来事に興味を見せない事だった。
錆びない鉄、巨大な一枚鉄で出来ている鉄塔、その製造方法を学んで、自分の世界に帰る事が出来れば、山下は巨万の富を得ることが出来る。
山下がこの世界に入り込んだ瞬間洞窟が消えてしまった。そのカラクリさえも謎なのだ。
ここには戦争もない。飢えや病気さえない。日常必要な物を必要なだけ作るのみ。貨幣もなければ経済活動の原始的な形態としての物々交換さえない。
嵐や日照りもない。作物は豊富にある。独り占めにする者もいない。支配する者もいなければ、力で抑え付ける者もいない。
宗教もない。山下の世界は心の拠り所として、神や仏を求める。それを説く教祖や宗教団体がある。本来は人を幸福に導くはずの宗教団体は、他の宗教団体と教義が違うというだけで、憎しみ合い、時には殺し合う。
考えてみれば、山下の世界の宗教、哲学の教えは知識としての奥は深いが、やっている事は愚人の行いと大差がない。
それに比較すれば、この世界の人間は真の宗教人と言えるかも知れない。彼らは朝日や月の光を浴び、浄化された食べ物を口にする事で、山下の想像を絶するような高い境地入っているのかも知れない。
彼らは自分以外の者が何をしようが無関心と、山下が思うのは、実は彼ら1人1人が1つの事に没頭しているからではあるまいかと思ったりする。
1ヵ月が過ぎる。新月の前の晩がやってくる。
部落の者が忽然と消えるのは鉄塔の中と判った。大きな影が鉄塔の中から現れて、帰ってくるまで10分ぐらいある。
山下はその中に入り、様子を探ろうと思っていた。もし影に見つかれば八つ裂きにされるかもしれない。それでも怖いもの見たさには勝てない。
幸いなことに、鉄塔の出入り口は北向きになっている。灯りを点けて中に入っても外からは気付かれないと考えた。
その夜、山下は鉄塔の北にある樹木の陰に潜む。11時半頃、軋んだ音をたてて、入り口の四角い扉が開く。中から大きな影が現れる。星明りの中、黒々とした影は3メートルはあろうかと思う程の巨人である。
以前、ドームの建物の天井から見下ろした時はその大きさを把握できなかった。ただ大きいと感じただけで、闇夜の中とは言え、まじかに見た時、その大きさに身の縮むような恐怖に襲われるのだった。
影は、身を屈めながら窮屈そうに入口から出ると、両手を天高く振り上げて、狼のように咆哮するのであった。その声は大地が震えるかと思う程で、山下は木陰で身を縮めるしかなかった。
体が大きいせいか、影は歩き方が緩慢である。地響きさせながら唸り声をあげて1歩1歩、歩を確かめるように部落の方に歩いていく。
山下は木陰から飛び出すと、素早く入り口に飛び込む。
この世界に来て、身体は子供のように身軽になっている。持っていた百円ライターで枯れ枝に火を点ける。長居は無用である。今は鉄塔の中を調べるのみ。
まず外開きの扉を見る。内側に閂がついている。
松明に照らし出された内部は白銀にゆらめいている。数メートル先に巨石が屹立している。長さ4~5メートルはあろうか、鉄塔の壁に接触する程高い。全部で12本。円を描くように立っている。円の中央は砂場となっている。
・・・これはドルメンではないか・・・山下は驚きの声を上げる。
ドルメンは一般的な説として、季節を測る道具と言われている。しかし結局のところ、どういう目的で作られたのかは謎である。
扉のある方の反対側の巨石の後ろに、畳4枚分ほどの四角い岩がある。高さ50センチ程、岩の中はえぐりとらっれて、長方形の穴になっている。
これはあの巨人の寝床かも知れない。山下はそんなことを想像しながら時計を見る。すでに5分過ぎている。慌てて鉄塔の外に出る。火は消してある。木陰に隠れて巨人の現れるのを待つ。
闇夜の空気を揺るがす様な咆哮と共に巨人が帰ってくる。その後ろに1人の男がついている。巨人は男を鉄塔の中に入れる。自分も入ると荒々しく扉を閉める。
すべては闇の中の出来事。黒い影の気配で、その行動を察するのみである。
山下は家に帰り、イトの横に身を横たえる。
――塔の中には何もない。1ヵ月に1人、塔の中に入る。にも拘らず、その影すらない――
一体どうなっているのか、まんじりともせずに夜を過ごす。
山下は塔に入った事はイトや他の者にも喋らなかった。夫婦同然となったとはいえ、イトはこの世界の人間、自分は別の世界から来た、いわば赤の他人だ。中に入った事が知れたらどんな騒動に発展するか判らない。
――次は、塔の中に入った者がどうなるのか、見極める事だ――
山下はイトの仕事を手伝ったり、ロクロを回したりして壺造りに精を出す。
この世界には、子供と20代の成人男女しかいない。。男は紺、女は紫の筒袖を着ている。男は髭を剃らない。髪も切らない。後ろで束ねるのみ。
誰もが無心で仕事をしている。無駄口を叩く者もいない。与えられた仕事をこなし終えても、遊んでいる訳ではない。稲刈、塩造り、土器造りなど、人手を要する仕事場に出向く。強制されるわけではない。自分の意志で働いている。
こうして、彼らは何千年もの昔から、生まれ変わりを繰返しながら生活を続けている。
「前世の記憶はあるのか」イトに尋ねる。
イトは笑って瞑目して、眠るような状態になれは判るかもしれないと答える。
ただ――、今の生活にそんなものは必要はないと、釘を刺すことを忘れない。
瞑目の目的は、山下の世界からの情報を得ることが主だ。無意識の内に多くの情報を脳裡に蓄えておく。生まれ変わりをしながら、気の遠くなるような時代を経て、山下の世界で言う〝神”、この世界で言う、存在者と一体になる事だと話す。
山下はイトの言葉をただ黙って聞くしかなかった。獣のような咆哮をあげ、巨体を持つ生物、あれがイトの憧れる〝神”なのだ。
山下はどうしてもあの巨大な生物の正体を突き止めねばならないと考える。
約1か月のの新月の前の晩がやってくる。
巨人が外に出た後、山下は中に入り、巨石の後ろに息を潜めて身を縮こませる。
待つ事約10分、巨人が1人の男を引き連れて戻ってくる。男は夢遊病者のようにふらふらと歩いている。
巨人の唸り声に操られるようにして、巨石群の真ん中の砂場にたつ。そのままどっと仰向けに倒れる。暗闇の中でその気配を感じながら、山下は眼を皿にして眺めている。
闇と言っても、鉄塔の白銀が淡い光を放っている。その幻想的なきらめきが、わずかながら内部の光景を浮かび上がらしている。
巨人は男が横になったのを見届けると、勝ち誇ったように両手を上げる。次に腰を降ろして、男の前にかがみこむと、いきなり右手の人差し指でその胸をつく。指は深々と男の心臓を貫いているようだ。
山下はこの恐るべき光景を息を詰めて見守っている。
・・・一体何をしているのか・・・
山下が思う間もなく、巨人は男の手足をもぎ取ろうしている。胴体から手足の折れる音が不気味に響く。
あまりにも凄惨な場面に、山下は思わず吐き気を催す。握り拳を口に入れて、必死になって声をたてまいとする。顔を背け、身体が震えるのを我慢する。
バリバリという、肉を食らう音が聞こえてくる。薄闇の中で幸いだった。白日下の光景だったら、山下は卒倒していただろう。
――人肉を食らう――
古代、その者の生命力をわが身に付加させる為に人肉を食べたという話は聞いている。
だが20世紀も終わろうとする現代に、まさか自分の目の前で見ようとは思わなかった。それも常世の国と言われる、山下の世界から見れば夢のような理想の国でだ。
山下は耳を塞ぎ、地面に身を覆いたかった。
だが、1ヵ月に1人、鉄塔の中に連れてこられる人々の行方が知りたい。
体が震え、歯がカチカチ鳴るのを必死に抑えながら、巨人の行動を凝視しなければならなかった。。
巨人は男の手足の肉を食べ終わると、胴体から首を引きちぎる。首から溢れ出る血を飲み干している。
次に胴体の肋骨を裂き、乾いた音を立てながら、肉に食らいついていく。
頭だけ残して食い終わると、巨人は立ち上がり、空中に向かって大きな唸り声を上げる。その声と同時に、信じられない光景が展開する。巨石の中央の砂場の一点が赤々と光り出す。渦を拡げるように大きくなっていく。直径2メートル程の大きさになる。その穴の中から白く燃えた溶岩が吹き出す。周囲が明るくなる。山下は思わず身をすくめて、巨石の陰に隠れる。
恐る恐る顔を上げた山下が見た物は・・・。
額に2本の角を生やし、全身毛深い巨人の姿だった。口の辺りに真っ赤な血がしたたり落ちている。
獅子鼻の上の大きな眼が炯々と光っている。体つきはゴリラに似ている。ゴリラと違う所は手や足は人間そのもので、人肉を食った後の満足そうな表情は、知的な輝きが見える。赤ら顔で糸切り歯が異常に発達して、牙のように唇から突き出ている。
――鬼――
子供向きの絵本にある鬼とは少し違うが、全体としては鬼の姿であった。素っ裸で肌は赤銅色に光っている。
鬼は食べ終わった骨を穴の中に投げ入れている。最後に首を手に取ると、そのお顔をまじまじと眺める。
・・・テツ・・・穴の中から吹きあがる白熱に照らし出されたその顔は、部落の長になったテツであった。
テツは武骨な顔付に似ず、心優しく親切な男だった。鉄造りはかなりの重労働にも拘らず、テツはこれが自分の天職だといって、いつも笑顔を絶やさなかった。気配りも上手で、部落の者から慕われていた。歳はも行かない子供が2人いる。心根の優しい妻もいる。
山下は思う。これが自分の世界なら悲劇なのだ。
――この世界はどこか間違っている――
山下の心の中に憤怒のようなものが湧き上がろうとしていた。が、それを抑える恐怖が目の前にあった。
鬼はテツの浅黒い首を両手に挟み込むと、慈しむように見る。血の滴る生首を見詰めるその顔は、何ともいいようのない凄絶さに溢れていた。
口元からしたたり落ちる真っ赤な血を気にもせず、カッと口を開けている。大きく見開いた眼は生首を見詰めていた。やがて眼を細めると、血に染まった首を蛇のような長い舌で嘗め回す。
見るにおぞましい光景である。山下は恐怖に打ち勝とうと、しっかりと岩にしがみついて、その様子を眺めていた。
鬼は生首から血をぬぐう様に舌で撫ぜつけていたが、最後の別れを惜しむように、しばらく首を見ていた。そして首を灼熱化した穴に投げ入れた。
鬼は両手を挙げて、勝ち誇ったように咆哮する。同時に穴が急速に小さくなり、元の砂場に戻る。薄暗い闇が周囲を支配する。
鬼は屹立する巨石の後ろにある巨岩の窪みに横たわる。死のような静寂と不気味な闇があるのみ。
山下はしばらくはその場から動けなかった。金縛りにあったように、岩にしがみついたまま、時間の過ぎるのを待った。
ようやくの思いで強張った体を動かす。
出口の所まで来ると、静かに閂を外す。扉を押すと外に出る。音を立てないように静かに扉を閉める。自動的に閂が閉まる。その音が外まで響く。山下は冷や水を浴びせられたように、あわてて木陰に隠れる。鬼が起き出して外にでてこないのを確かめると、イトのいる家に帰る。
身の心も興奮して寝付かれない。おぞましい光景を見てしまった以上、この世界に対する見方が変わってしまった。
――何の事はない。この部落の者は鬼の餌なのだ――
鬼は子供が1人生まれると若者1人を餌食にする。部落の者は鬼に飼育されているだけだ。毎日毎日、同じ労働の繰り返し、飲んで騒ぐ、そんな楽しみがない。
ある日忽然と夫や妻が姿を消す。本当ならば嘆き悲しんで行方を捜しまわるところだ。
夫や妻がいなくなっても平然としている。赤の他人に子供が生まれる。それが我が夫や妻の生まれ変わりだと悟った顔をしている。生まれた子は自分1人で生きていけないから、他人が面倒を見る。それを当然の事のように受け入れている。
こんなのは常世の国ではない。人は長寿を楽しんであの世に行くべくなのだ。20代の終わりで殺されなければならないのは、どう考えても理不尽だ。
山下の憤怒は日増しに強くなっていく。どうしたらあの鬼を退治できるか、そればかりを思いめぐらす様になる。
「わしはのう、それ以来、新月の前の晩になっても〝酒”は飲まなかった」
山下老人は大儀そうに体を横にする。座っている気力も失せたのか、コーヒーも飲もうとはしない。
窓の外は暗くなっている。時計を見ると7時を過ぎている。老人の話は実に緩慢で、休んでは喋り、喋っては休む。落ち窪んだ眼には力がない。深い皺で覆われた顔も疲労の色が濃い。
「それから4ヵ月ぐらいたった時かあ・・・」
老人は白髪の頭を両手でかきむしる。思い出す事さえ苦しいのか、息も荒くなっている。
そういえば、朝見た時よりも老けたように思える。・・・気のせいかな・・・
鬼の退治方法が見つからぬまま、3ヵ月、4カ月と過ぎていく。鉄塔に入った事、鬼を見た事などは誰のも話してはいない。
また新月の前の晩がやってきた。夕方、イトは山下に〝酒”を手渡すと、自分も飲んで、さっさと寝てしまう。この晩は部落の者全員が酒を飲む。赤ん坊はともかくとして、子供までが飲む。
死の静寂と化した闇の中に、鬼が鉄塔から現れる。咆哮に意味があるのだろうか。それを待っていたように1人が起き上がる。眠ったまま、夢遊病者の様に鬼の跡についていく。心臓を一突きにされ、殺される。幸いと言えば、死の苦痛や恐怖は無いという事だ。それでも、1ヵ月に1人、誰かが居なくなる事は部落の者は皆知っている事だ。
山下が不思議に思うのは、明日は我が身か、そんな恐怖心が心に浮かばないのかと言う事だ。誰に聞いても、人ごとのように喋る。まるでロボットだ。山下はそう判断するしかないのだった。
この晩、山下にとって一大転機が訪れた。鬼の咆哮に身を起こしたのはイトだったのだ。
山下は闇夜の中、鬼の足音に息を殺して様子を伺っていた。3メートルもある巨人に、まともに立ち向かう事は出来ない。武器と言ったところで果物を切る小刀だけ。知恵を絞るしかない。そう思いつつ、日を過ごしてきた。
ドーム状の建物の前で鬼が咆哮する。その響きが今まで聞いたよりも、大きく聞こえる。まるでスピーカーをこの家に向けて咆哮している感じなのだ。
山下がそう判断した時、背後で物音がする。はっとして振り向くと、イトが起き出していた。
「イト!}思わず声をたてる。
――イトが殺される――山下はイトを抱き締めると、横になり抑えつける。
夢遊状態にあるイトは起き上がろうと身をもがく。山下は渾身の力を振り絞ってイトを抑えつける。
鬼の咆哮は5分ばかり続く。その唸り声は次第に苛立っていく。
――鬼がここにやってくるかもしれない――
山下は恐怖に慄く。もし来たら、この家ごと火を点けて死ぬしかない。イトと2人で死ねるなら本望だ。覚悟を決めて時の過ぎるのを待つ。
咆哮はやがて諦めたように小さくなり、鳴りやむ。
獲物を他に求めたのだろうか、他の者にはすまないが、イトを殺す訳にはいかなかった。
ホッとして、イトを抑えている力を緩める。イトは深い眠りに陥っている。
・・・火・・・山下の脳裡には先程家に火を点けて死のうとした思いが蘇生する。
・・・そうだ、その手があった・・・
山下は板の間の奥の棚に置いてある作業服からライターを取り出す。土間の片隅にある菜種油の入った壺を抱えて外に飛び出す。周囲は闇だが、どこに何があるかは手に取るように判る。外に積んである麦藁をひとつかみ手にすると、鉄塔に急ぐ。鬼が戻らぬ内に鉄塔に中の巨石の裏側に隠れる。
やがて鬼がイトの代わりの女を連れて入ってくる。扉が音を立てて閉まる。
それから――。口では言えない凄惨な〝儀式”が行われる。山下は地面に身を伏せたまま、その光景を見ようとはしなかった。
鬼が生首を灼熱の穴に投げ入れる。元の闇に戻る。鬼が巨石の窪みに横たわる。山下は1時間ばかり身動きしなかった。
それから、山下は意を決したように立ち上がる。菜種油の壺と藁の束を手にすると、鬼の寝ている岩の側に忍び寄る。鬼は大きないびきをかいて寝ている。山下の足は恐怖で震えている。鬼を殺さない限り、部落の者は救われない。イトもいずれ殺される。山下の心臓は破裂するように高鳴っている。
山下は鬼の体に手を触れる。生暖かい感触が伝わってくる。毛深い体だが、猫の毛のように優しい。
壺の中の菜種油を鬼の体に注ぐ。鬼は岩の窪みに入っているので、菜種油が岩の外に溢れる心配はない。
・・・起きるなよ・・・山下は祈る様な気持ちで油を注ぐ。
注ぎ終わって、山下は藁に火を点ける。めらめらと燃え上がる火を鬼の体に押し付ける。
火は一瞬の内に鬼の体を包み込む。
唸り声をあげて鬼が身を起こす。火焔の柱が立ち昇る。山下は扉の方へ走る。鬼が追ってきても、外に逃げれば何とかなる。鬼は足が遅い。逃げ切れると踏んだのだ。
火柱となった鬼は輪のように立ち並んだ巨石の中央でのたうち回る。まるで火の精が踊り狂っているような光景だった。巨大な火焔に照らされて、銀色の鉄塔の壁が赤々と燃えるように輝いている。
鬼は苦悶の内に地面に転がる。やがて肉の焼ける匂いが鼻につく。
山下は怖さも忘れて呆然と立ち竦む。業火に焼かれ、地面を転がり回る鬼を見入るばかりだった。
やがて鬼は身動きしなくなった。・・・死んだ・・・と思った時、生き返ったように立ち上がる。両手を高々と上げて、ひときは大きな咆哮を挙げる。その声に山下は我に返り、後ずさりする。
と、見る間に地面に灼熱の穴が開いてくる。火柱となった鬼な穴に飛び込む。鬼を飲み込んだ穴は見る見るうちに小さくなり消滅する。
――やった――山下は小躍りする。明日からは鬼に食われる者はいなくなる。これで真の常世の国になる。
扉を閉めると、何事もなかったようにイトの待つ家に帰る。この事は誰にも話す必要はない。自分の胸の内に秘匿すればそれでよい。イトの側に横になると、彼女を抱きしめて、満足げに眠りに就く。
翌朝目が覚めた時、側にイトが居なかった。
腕時計を見るとまだ6時だ。朝日が昇るのには少し間があるが、イトはドーム状の建物に行っているのだろうと思って、外に出る。
外に出て山下は「あっ」と声をたてる。家の前には部落の主だった者、数十人が山下のあらわれるのを待っていた。
彼らの表情は普段と変わらない。イトが山下の下着や作業服を持って、彼に近寄る。
「これに着替えて、あなたの世界に帰りなさい」そこには夫婦として過ごしてきた優しさも親しみもない。何者かの命令で淡々と実行している無表情さがあるのみ。
「存在者が消えました」イトは鉄塔の方を指さす。
その手を空に向ける。東の空が僅かに明るくなっている。天には不気味な黒い雲が覆っている。時折稲光が走る。冷たい風が吹き募る。
イトはその場で、山下に作業服に着替えさせる。数十名の者は山下を取り巻く。部落の北にある三角形の山の麓に山下を追い立てる。
山下が山を見上げると、いつの間にか、その中腹に穴が開いている。山が真っ黒な口を開けて、山下が登ってくるのを待っている感じだ。
山下の動揺は大きかった。起き上がってまだ30分しか経っていない。思いがけない展開に、山下の頭の中は目まぐるしく動いていた。
鬼を殺して、部落民を救った〝英雄”だった筈だ。イトとも末永く幸福に暮らせると信じていた。
それが今――、部落の者に追い立てを食って追放されようとしている。
釈明しようにも口が動かない。眼には見えないが、威圧するような力が、ぐいぐいと山下を引っ張っていく。
彼らの表情は機械的であるけれども、山下を憎んでいるのではないようだ。部落を出て山の麓まで歩く。緩やかな坂道を登りきると、洞窟の穴がある。
「俺はここから出ていきたくない」山下の後ろにいるイトに言う。
風が強くなっている。イトの黒い髪がなびいている。憐憫を浮かべた大きな瞳が山下を見ている。唇がきっと締まっている。普段なら明るい瓜実顔が暗い。
「今から、この世界では、存在者の産みの苦しみが始まるわ」親しみを込めて言う。
山下にはイトの言わんとする意味が理解できない。戸惑いの表情で彼女の顔を見つめる。
「ここにいると、あなたは死ぬわ。蘇る事が出来ないの」
ここから出ていくことが山下のためだと言わんばかりだ。
「後でまた会えるわ」イトはそっと山下の手を握る。
「さっ!、行って」どんと背中を押す。
風がますます強くなっていく。先程見えていた朝日も厚い雲に覆われて、夕方のような暗さになる。風も冷たく、真冬のような寒さが襲ってくる。
山下は夢中で崖伝いの道を登る。10分ばかりして洞窟の洞穴に着く。下を眺めると、数十人の若者の姿が小さく見える。
――早く洞窟に入って!――イトの声が耳の底に響いてくる。はっとして洞窟を見ると、穴は少しづつ小さくなっていく。山下は必死になって洞窟の中に逃げ込む。後ろを振り返ると視界は黒い霧が覆っている。イトの姿はすでに見えなかった。
岩が閉じられる。と同時に岩の壁が山下目掛けて進んでくる。山下は10メートル先にある白い光りの渦めがけて走る。洞窟が消える間一髪、山下は光の渦に飛び込んだ。
気が付くと山下は光の渦の内側に横たわっていた。足元には2年前山下が持ってきた枯れ枝が数本あった。
枯れ枝に火を点けて、洞窟の中を歩きだす。体が重くなっていく。
山下の世界は水も空気も汚染されている。今、その汚れを吸収しているのだ。歩くたびに体中に節々が痛くなってくる。ようやくの思いだ、御嶽神社の巨石の洞窟から出る。息が荒く、しばらくは歩く事さへ出来ない。
腕時計を見ると午前10時を過ぎている。空はどんよりと曇って、今にも雨が降ってきそうな天気だった。
・・・とにかく雑貨屋へ行こう・・・
確か輝岡さんとか言ったかな、親切さを忘れない。
神社の境内地を出て部落の通りに出る。相変わらず人気がない。雑貨屋も店が開いたままで、声をかけても人の気配もない。軒下で腰を降ろして、主人の帰りを待つ。
30分位経って、丸顔の顔中彫りの深い皺の主人が帰ってくる。懐かしさの余り、山下は輝岡さんと声をかける。
主人は訝しそうに山下を見る。
「どなた?」
「ほれ、私ですよ、2年前、お宅に泊めてもらった、山下統一郎です」
山下は相好を崩す。
「あんた、本当にあの時の山下さんかいな!」主人は驚いた顔で山下の顔をまじまじと見つめる。
「こっちへおいで」有無を言わせず、店の奥へ引っ張っていく。
「あんた、鏡見て!」主人は手鏡を見せる。
鏡を見て、山下は絶句する。髪は真っ白、顔の皺は主人に負けぬ程深く多い。
「あんた、幾つに見える?」主人の声に、
「80か90,いやそれ以上かも・・・」
「あんた、あの常世の穴に入ったなあ」
主人の顔にはとんでもない事をしたなあと書いてある。
山下は頷きながら、今までの経緯を話す。
「輝岡という主人はとにかく親切な人でなあ」
山下老人は横になり、ぼんやりと天井を見上げている。
山下は2~3日輝岡雑貨店に厄介になる。雑貨屋の主人はこの事は誰にも話すなよと釘をさす。話したところで誰も信じないし、下手をすれば狂人呼ばわりされる。それにこんな事で自分も迷惑を受けたくない。自分はここで静かに余生を過ごしたい。変な事に巻き込まないで欲しいと、何度も念を押されている。
親切な主人のお陰で常滑まで戻ってこれたと話す。
山下はここまで話すと、寝入ってしまったかのように目を瞑る。
私はこれで話は終わったものと思い、一礼して席を立とうとした。
私の気配を感じたのか、老人は落ちくぼんだ眼を開ける。
「まだオチが残っているが、聴いていかないか」
私は頷いて座り直す。
山下老人は実にゆっくりと話す。口下手な事もあろう。それ以上に体力の衰えもあるのだろう。
時間を見るともう8時だ。朝の10時から喋り続けて、実に10時間、体力に自信のある私でも疲れる。
山下は常世の国に2年間しかいないのに、歩くのがやっと位の老人に変わり果ててしまった。それを知った時の山下の苦悶はいかばかりだったろうか。
雑貨屋の主人の話にあった、武田の落武者は大体3百年間、常世に国にいた。この世界に帰ってきて、元の姿に戻ったとしても仕方がない事だ。本人も諦めがつく。
時の流れとて、アインシュタインの相対性理論のような浦島効果は表れていない。2年の歳月は常世の国も、この世界も同じように流れている。
なのに自分だけが・・・山下はしばらくは眠れぬ日が続いた。
――鬼を殺した罰なのだろうか――そう思う様になった。山下にしてみればイトや部落民の為に良かれと思ってやった事だ。そんな山下の思惑と、イトたちの思惑とはズレがあったという事だ。2年もいて,それに気づかなかった山下の迂闊だったと言えばそれまでだ。
山下が常滑の自宅に帰ってきて数日後、色鮮やかな夢を夢るようになる。夢の中でイトが山下に語り掛けているのだ。その声もはっきりと聞こえる。
山下老人は話し続ける。
「鬼が蘇ろうとしている」
「つまり死んだのではないと・・・」私は尋ねる。
死んだのは肉体だけだ。魂は今も鉄塔の中にいる。
「ところで、その鬼って何ですか」
私は質問しても無駄と思ったが、あえて尋ねる。
山下老人は寝ていた体を起こす。大儀そうに前かがみになる。
「鬼の正体は牛頭天王、イトがそう教えてくれた」
古代、牛頭天王はスサノオの命と共に日本にやってきた。スサノオが牛頭天王と言われるのは、牛頭天王が陰になり日向になり、スサノオを助けていたと言われている。全国の町や村で行われる天王祭の主神はスサノオである。
スサノオの子、ニギハヤヒが近畿地方を中心にして、日本で最初の大和国家の主権者になる。ニギハヤヒ死後、九州、日向の国から神武天皇が主権の譲渡を求めて熊野地方を通過して奈良に入ろうとする。
神武天皇を助けたのが、ツヌガアラシトと言われる。彼は牛頭天王であった。
ツヌガアラシトの名前で判る通り、彼は2本の角を持った〝鬼”であった。3メートルを超える巨体と、全身毛だらけで奇怪な顔付から、人間に忌み嫌われるようになる。それだけならまだましも、彼は長寿を保つために人肉を食う必要があった。
彼は人智を越えた知恵を持ち、勇猛果敢な性格であったが人間に対しては優しかった。
彼が人間に嫌われたのは、その奇怪さだけではない。人肉を食うという、おぞましい行為にあった。
彼はいつしか人間の世界には姿を現さなくなる。平安時代以降、その消息はぷっつりと切れる。
彼が常世の国に居を構えるようになるのは、大和王朝成立前後と、イトは語る。
牛頭天王がどんなに長寿でも不老不死ではない。いずれ死を迎える。
不滅と言うなら魂のみである。肉体の不滅を図るために、死んで再生する道を選んだ。その為には誰かに殺してもらう必要があった。
「自分で命を絶つという方法があるんじゃないですか」
私の問いに、山下老人は当然だと頷く。
「それに自然死ってのもあるしのう。老人は私を見て言う。
山下統一郎は当然の疑問をイトにぶつけている。
――生への執着――それが再生の条件という。歳をとって死ぬのは、生きたいという欲求が無くなるからだ。
自殺もこの世への執着をあの世に移す行為だ。殺される時の恐怖心こそが、この世への執着心となる。
私への答えが終わると、老人は眼を瞑ったまま、動こうとはしなかった。仕方なく私は腕時計を見る。8時半。窓の外は暗い。こんなに遅くなるとは思っても見なかった。今更じたばたしても仕方がない。開き直って腰を据える。
「わしは、選ばれたんじゃよ・・・」
山下老人の口から、か細い声が漏れる。
「えっ?」私は聞き返す。何を言おうとしているのかよく判らない。
老人は眼をかっと見開く。
「落武者の話はしましたな?」私が頷くと、
「わしは招かれたんじゃ。鬼・・・、いや牛頭天王に・・・」
招かれたという彼の言葉が続く。
落武者が織田軍に追われて、あの御嶽神社に逃げ込んだのは決して偶然ではない。全ては牛頭天王の計らいによる。誰でも常世の国に入れる訳ではない。
牛頭天王は彼に殺されるために招き入れた。だが、彼は牛頭天王の奇怪な姿を見て怖気づいた。鉄塔の中の様子を部落の者に話した。元の世界に戻りたいという落武者の希望を受け入れた。
落武者は元の世界に帰ったが、すでに2~3百年経っていた。彼の肉体はたちまちに内に朽ち果てる。
「わしは牛頭天王を殺した」
牛頭天王の期待に沿った山下は一旦は元の世界に帰される。牛頭天王の肉体が消滅した事で、常世の国は天変地異に襲われる。山下がそのままいたら、彼の肉体や魂は確実に消滅する。だからこの世界に避難させたのだ。
「でもあなたは随分歳をとってしまった」私は聞き返す。
「その通り、わしの体はもう長くはない」
この世界に帰された理由がそれだと、山下は答える。
私は不思議そうに彼を見る。言わんとする事が良く判らない。山下は私の顔を見て笑う。だがあえてその理由を言おうとしない。
「ところで、常世への出入り口は,例の、御嶽神社の巨石だけですか?」
常世へに出入り口は全国至る所にあるが、それを知る者はいないという。
「あなたがその世界に帰るとして、その向川という村までいかなければならないのですか」
「わしは選ばれた者だ。その必要はない」
山下老人は私が驚くような事を言い放つ。
彼が常世の国に戻った時、彼の肉体は元の37歳になる。彼はイトと結婚して、一児を産む。牛頭天王の再生だというのだ。
彼は私の質問に疲れたのか、再びがっくりと首を垂れる。化石になったように動かなくなる。呟きがかすかに聞こえる。
・・・イト・・・その声だけがはっきり聞こえてくる。
――疲れた――10時間以上も、ここに座って老人の話を聞いている。朴訥とした喋り方で、辛抱強く聞いていなければならない。
話の内容は現実離れしている。誰が聞いても嘘、作り話と見る。それが当然の事なのだ。
だが山下老人が作り話をしているとは思えないのだ。ここに住みつくために、造り話を披露したとしても、それが何になろうか。
仮に山下老人が山下統一郎本人と主張しても、それを証拠だてるものがない。37歳の青年が、明日の命も判らない老人となって、それを証明するための現実離れした話をしたところで、鼻白んだ顔で見られるんが関の山だ。
山下老人とてもその事は充分に承知している筈だ。話は朴訥としているが淀みがない。ボケて適当に内容をごまかしているのでもない。記憶力はしっかりしている。
本人の言う通り、この話を他の誰かに何度語ったか判らない。誰のも信じてもらえない事は、彼自身が一番良くわかっている事なのだ。
「山下さん、お話、興味深く拝聴しました」
私は一礼する。この辺で退出するべきだと思って、山下老人が顔を上げるのを待つ。
案の定、彼は面を上げて、落ちくぼんだ眼をかっと見開く。
「わしの話、信じてもらえるかな?」
私が頷くと、彼は眼を細めて、表情も穏やかになる。
「もう帰られるのかの?、夕飯も出さんで悪かったのう」
私は立ち上がる。玄関で靴を履こうとした時、奥で崩れるような音がする。驚いて室内を見ると、立ち上がろうとした山下老人が、わが身を支え切れずに倒れたのだ。
私は慌てて引き返す。
「あんた、すまんが、わしを連れて行ってくれんか」
老人は肩で息をしながら、白髪を振り乱している。抱き起してみると、身体が熱い。
病気か、そう思った私は、「救急車を呼びましょうか」声をかける。
山下老人はかぶりをふる。
「いや、頼むから連れて行ってくれんか」
「何処へ行ったらいいんですか」
山下老人は、そこの多賀神社まで連れて行けという。私は老人を抱きかかえる。意外と重い。多賀神社まで歩いても5分位。帰路の途中だから了解する。
家の外は暗い。星がまたたいているが、月が出ていない。
「明日の晩が新月でなあ」老人は意味ありげに言う。
私は首に巻き付いた老人の左腕が、うっとうしくてたまらない。懐中電灯で足元を照らしながら、一歩一歩歩く。
部落の北側の畦道は、2人がやっと歩けるだけの道幅しかない。畦道が過ぎると神社の杜が控えている。急な坂道だ。幸いなのは段々になっている事だ。
ようやくの思いで杜の中の坂道を登りきると、神殿の裏手に出る。神殿の前に来ると「わし、ここでいい」山下老人はぺたりと座り込む。
境内地には街路灯がない。真の闇である。私の懐中電灯の明かりが生々しい程明るい。
「山下さん、これからどうされます?」
私はこのままほっておけまいと、尋ねる。
「わし、帰るから・・・」老人は私に深々と一礼する。
「わしの話信じてくれておおきにな」
私は、後で老人が一人で家に帰るのだろうと思った。
「それなら、私、ここで失礼しますよ」
私は一礼して立ち去った。
私が山下統一郎と名乗る老人を見たのがそれが最後だった。
3日後、山下老人を紹介してくれた友人が訪ねてきた。老人がいなくなったというのだ。家の中は私が退出した時そのままだという。
部落の者が毎朝、山下家に顔を出している。何せ年寄りの一人住まいだ、何かあっては困るからだ。
私が老人と多賀神社の前で別れた翌朝からいなくなっている。その日は年寄りは朝が早いから、何処かへ散歩でも出かけているのだろうとしか思わなかった。2日過ぎても姿が見えないので大騒ぎになる。古場の駐在所にも連絡を入れる。あちらこちら探し回るが、杳として行方が知れない。
「あいつは、やっぱり頭がおかしかったんだわ」
口さがない連中は老人がいなくなって、却ってホッとしている。
「何が山下統一郎なんだ。37歳の青年が、あんな年寄りに化ける訳がねえんじゃねえか」
留守宅に上がり込んで、居候を決め込む。しばらく住み着く。何せ老人だから、親戚や近所の者も手荒い真似が出来ない。相手もそれを百も承知してるから、図々しく居座る。もっともらしい作り話でごまかそうとする。
ボロが出始めたもんで、どこかへ行きやがったんだ、という結論になった。
友人の話を聞いて、私は、山下老人が帰ると言った意味が飲み込めた。
彼は常世の国に帰ったのだ。
常世への道は全国至る所にあると言っていた。多賀神社にもその道があるのかもしれない。あるいは、山下老人の言う、〝イト”の力で常世の国に帰ったのかも知れない。
私は友人の話を聞きながら、多賀神社で別れたことは口にしなかった。喋ったところで、口さがない連中の憶測に輪をかけるだけだ。
平成10年7月下旬、私は2日間の休日を取って、山下統一郎が歩いた道を辿ることにした。車で長野まで行き、松代温泉や皆神山を尋ねる。国道20号線を走り、小県郡の千古温泉に入る。2日だけしか余裕がないので、そこで一泊して、甲府市の手前の韮崎市に向かう。そこから間道に入り、御座石温泉や青木温泉を通過する。
目的地の部落、向川に着いたのが午前11時頃。
山下統一郎が話していた御嶽神社も難なく見つかる。
境内地に車を駐車して、鳥居をくぐり石段を登る。神殿に一礼して、右横手にある巨石に向かう。2本の棒に注連縄が張ってある。山下老人の言葉通りである。
巨石に近づいて失望する。何処にも穴らしきものが見当たらない。
・・・あの話はやはり嘘だったのか・・・
嘘にしては話ぶりは真に迫っている。しばらくの間私はその場に佇んでいた。
気を取り直して部落の中を歩いてみる。山下老人の言う、雑貨屋らしき所に来る。店は閉まっているので、隣近所の民家と変わりがない。軒下に輝岡と書いた表札がかかっているので、ここが雑貨屋だと判る。
部落の南側に小川が流れている。2人の老婦が大根や野菜を洗っている。
私は腰を低くして、輝岡雑貨屋について尋ねる。
老婦は手を休めて、3か月くらい前から留守だと答える。
東京や甲府に子供達がいるが、立ち寄った形跡もない。
「そういやあなあ」老婦の1人が、もう1人の仲間に同意を求めるように言う。
輝岡が居なくなる数日前に、作業服を着た老人が、雑貨屋を尋ねてきた。自分達も目にしたが実にみすぼらしい服装だった。服は破れ、田や顔にかすり傷がついていて痛々しい様子だった。
輝岡は武骨な顔に似ず面倒見の良い人で、部落でも「輝さあ」と慕われている。
彼は老人を家に泊めて、何くれとなく介抱している。老人が愛知県から来たとのことで、軽四に乗せて甲府まで連れて行ったと聞いている。
ところが、2日たち、3日たっても帰ってこない。
「甲府のせがれんとこによっとるんだろう」と言う事で気にもとめなかった。
1週間が過ぎ、2週間がたつ。いくら何でも留守が長すぎるんで、甲府の輝岡のせがれんとこに連絡してみる。
「来ていない」という返事。慌てて東京にも電話してみる。同じ返事が返ってくる。
それからが大変だった。まさか老人と一緒に愛知県に行ったわけではあるまい。いやそうかもしれんと、喧々囂々となる。警察にもお願いして、捜索願いを出す始末。
問題は老人であるが、愛知県から来たというだけで、顔を見知っている者がいない。老人を見たという者も、遠くからチラリと見ただけで、よく判らないと尻込みしてしまう。
輝岡の写真を全国の警察署に配布してもらったが、今だ手がかり無しという有様。
部落の北外れにある御嶽神社について尋ねる。
横手にある巨石に、常世の国への入り口があるらしいと聞いているがどうか。
2人の老婦は顔を見合わせる。
「その話、誰から聴いたのか」1人が私の顔色を伺う。
私は2人に警戒されないために、努めて笑顔で、昔ここに来た事があり、輝岡さんからこの話を聞いた事があると答える。
2人は頷く。
「神社の横の大きな岩は、常世への入り口だと聞いているが・・・」
2人の口から、山下老人の言った落武者の話も出る。
「しかし、入り口らしき穴はないが・・・」
私の質問に、2人は笑い出す。何がおかしいのか、私は不思議そうに2人を眺める。
「ええかな、穴を見る事の出来るのは、常世の国に行ける者だけだわ」
「つまり、選ばれた者だけだと・・・」
わしらは昔からそう聞いとると、2人は口をそろえて言う。
私は2人に礼を言って、その場を立ち去る。御嶽神社の巨石の前に立つ。
巨大な岩である。多分地中深く埋まっているのだろう。手で触れてみるが、冷たくて、ゴツゴツした感触があるだけ、これと言った感慨はない。
巨石信仰は全国各地に見られる。今の神社形態が出来る前の信仰と聞いている。
・・・そういえば飛騨の位山は、太古神々が住んでいたと伝えられている、神武天皇の東征の時、この世の権力を彼に譲り、神々はいずこともなく消え去ったと伝えている。・・・
常世の国、それは1つだけではあるまい。
物質は、究極には波動であるという。光りは、一応七色に分類されるが、色と色との間に、はっきりとした区分がある訳ではない。色は無限にある。波長だとて、長波短波と、これとても無限に存在する。
この世界が唯一無比の世界と思うのは、人間の驕り、というよりも無知と言った方が良い。伝説、神話の類には、この様なものが多い。我々の常識の反するからと言って、作り話と決めつけてしまうのは思慮が足りない。
私は巨石に深々と頭を下げる。その場を去ろうと、背を向ける。その時私の名を呼ぶ声がする。驚いて振り返る。誰もいない。辺りは森としている。
――気のせいか――
そう思った時、「有難う、輝岡さんもここにいるよ」今度ははっきりと聞こえる。何処から声がするのかは判らない。
――山下統一郎さん――その声は若いし張りがある。低く抑えるような話し方は、あの山下老人のものだ。
彼は常世の国から私を見ているのだ。
私はもう一度巨石に向かって一礼する。厳粛な気持ちが体の中を走る。
彼に会ってよかった。話を聞いてよかった。今更ながらに感慨に浸るのだった。
巨石から離れて、神殿に一礼して、背中をクルリと向けた時、突然蝉の声が激しく鳴きだす。杜の中の蝉という蝉が一斉に鳴きだしたかのような感じだ。
石段を降りて、境内地の車に乗り込む。
――いつかまた、来よう――
車を発進させて、部落を後にした。
――完――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等
は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創
作であり、現実の地名の情景ではありません。