70 はだか一貫から始まる
寒気を覚えて、彼は目覚めた。辺りは蒼白い闇。黎明の一歩手前の時刻のようだ。
何者かに襲われて裏路地に倒れたまま夜を明かそうとしていた。悪寒が走った。
身体を激しく震わせるとまた、後頭部の奥の方が痛んだ。
懐に手を入れてみる。やっぱりだ。彼の財布は奪われていた。
会社に一切別れを告げようとして、給与振り込み口座のあった銀行から、全財産を引き出して入れていた財布。あり金をすべて奪われた。
しかし、心は何も動かない。頭痛と悪寒のせいだろうか。
彼は立ち上がった。子女と彼の旅行鞄が横に転がっている。
乞食、乞食。
心の中で呟きながら、鞄と子女を持って、妖怪の店の方へ行ってみた。
店の小さな扉の前に、誰かがしゃがみこんでいる。妖怪ではない。ずっと小柄だ。
妖怪の店は、ついに開店しなかったのか、それともはじめから店なんて無かったのだろうか。
しゃがみこんでいるのは、浮浪者風の男だった。
彼が近づく気配を感じて、顔を上げた。黎明のブルーの光に、その男の瞳が光った。
髪も髭も伸び放題、皮膚は日に焼けすぎたせいか、黒ずんでいて、工場労働者みたいな菜っ葉服を来ている。
きたならしいなり。
ところが瞳だけが、浮浪者には不似合いに、朝の光のように輝いている。
「おはよう」
浮浪者は彼に言った。彼はまた頭痛がした。
あまりに静かな朝であったので、浮浪者の声は彼の頭痛を甦らせるほどに、大きく感じられた。
浮浪者は40歳にもう手がとどこうかという年齢にみうけられた。浮浪者は続けて言った。
「もう先が見えた。人生を思いだすと、失恋は5回ぐらいだな。就職には3度失敗した。振り返るとそれだけだ」
彼は黙っていた。
「死にたいなんて、はじめは考える。そのうち歳を食う。絶望する若さもなくなる。死ぬまでもなく、そのうちお迎えが来ると悟る。自分で死ななくても、そのうち死ぬんだ。人生だ」
彼は歩き出した。浮浪者は乞食だろうか。無視して歩いた。そのうちまたすぐ、あの夏の気違いじみた一日が始まるのだ。
やがてまた橋の上。彼はそこに座り込んだ。
何時間もぼうっとしていた。
人がちらほら現れ始め、車も走り始める。
太陽がぎらぎらした熱い光線を送り始める。これらを、彼は路上に座り込んだまま、じっと眺めていた。
時間がゆっくり流れるのを目で感じ取っていた。目はあいたまま、意識もなくなる。
気温は急ピッチで上昇してゆく。汗が滲み出す。彼の近くを、何人も何人もの人影が歩いてゆく。彼の意識は朦朧そのもの・・・。




