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ポンド  作者: 新庄知慧
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60 サヨナラ

彼は机に戻り、書きかけの起案をワープロで叩こうとした。


1行叩いたところで、向かいの席の枯尾花が、課長は何の話をしたのかと聞いた。「いえ、べつに」曖昧な答えをした。


あの森下婆が勘付いていたくらいだから、職場の皆は知っているのか。


それとも訓告を受けた程度に思っているのか。課長の方を見ると、何食わぬ顔で職務についている。


遠くで森下婆が書類の山を抱えて忙しそうに歩いている。蟇蛙が受話器に向かって大声で怒鳴っている。人参が机に頭をこすりつけるようにして書き物をしている。


皆それぞれの仕事に没頭していて、彼のことなど眼中にない、彼はもう、そこに存在していない、という感じだった。


その日の帰り際、ロッカールームで、小女をカバンからとり出して相談した。


小女は涼しい目で彼を見かえしていた。「もう、この世は店じまい」あの夜の河原で聞いた声を思い出した。


行止まりの池の眺めが見えた。


すると、ロッカーを隔てた向こう側に、彼とは別の課の連中が入ってきた。彼が部屋の奥にいるとも知らずに話し出した。


「やっぱりね、なんか変な人でしたよ」


「大学院なんか出て、学者さんなんでしょう」


「でも、よく愛想ふりまいてたみたいじゃないですか。飲み会なんかで、活躍して」


「ちょっと極端でしたよ。病的なくらいね」


ぼそぼそ、がやがや言いながら、カバンを手に手に持って出ていったようだ。


もう、彼を過去の人として扱っていた。


彼は過去の人である、という付和雷同が組織的に合意されてしまっているのだ。


・・・・・


翌日、彼は辞表を提出した。


さっさと提出して、さっさと退社した。独身寮の荷物は前日のうちにとりまとめておいた。


ダンボール箱にわずか4個程度の荷物で、それも捨ててしまおうかと思ったが、一応運送屋を頼んだ。


こんな街、もう、すぐに出てしまおうか。しかし、行止まりの池のことが頭に浮かんだ。


この先、どうしようか、という考えも浮かばなかった。


どこへ行っても行止まりだ。就職しなおすか?また、あの馬鹿馬鹿しい就職活動をするのか。


しかも今回は、一度会社を辞めた男ということである。


大嘘を考えて、過剰な演技をして、それでもろくな企業に入れるかどうか。入ったとしても、また彼は、今までと同じような絶望の日々に再び戻るというだけではないか。


親にはなんと言おう。それとも大学の研究室に戻ろうか。


だめだろうな。オーバードクターが何人もたむろする研究室。こんな彼を受け入れる余地などない。


ああ、もう考えるのはめんどうくさい。


彼は就職して1年半の僅かな貯えを銀行から引き出し、街を放浪するしか無かった。貯えは、それでも30万円くらいはあった。


失業保険とか、退職金とかも、全くあてにできないものでもないだろう。木賃宿にでも泊まって、ふらふらしていよう。


必要最低限の衣類や洗面用具は旅行鞄につめて持っている。小女もいっしょだ。


彼はそう思って、独身寮をあとにした。



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