50 留置場へ
真っ暗闇の中に物の怪たちの発するような、音がますます大きくなって来た。
もうあの若武者の姿も絶世の美女も、どこかへ消えてしまった。音だけが恐怖のように迫ってくるばかり。ここにいてはとにかくまずい。
彼は必死で舟を漕ぎ続けた。どちらが岸で、どちかが沖なのかさっぱりわからない。
水生植物たちの間をかきわけながら、必死で漕ぐと、やがて植物たちの櫓にあたる感触が無くなり、広い水面へと出たようだ。
しかし、不気味な音は一向に遠くならない。むしろ大きくなり、ごおーっというような、凄まじいものに変わってゆく。
多くの人間の時の声、得体の知れない動物たちの群れ叫び鳴く声、そうした声の入り混じった音みたいで、それらが激しく目茶苦茶にまじりあい、「ゴオーッ」としか聞こえてこない。
やがて水飛沫が背後で上がった。水上を、その奇怪な大音響とともに、彼の舟を追いかけ、一直線に進んでくるものがある。
もうだめだ!
彼はとても逃げ切れないと思った。櫓を漕ぐのももう限界だ。へとへとになった。横の小女の方を見て、がっくりとうなだれて動かなくなってしまった。
奇怪な音響は、やがて明確に彼の耳に響いてきた。音の感じが少し変わったものとなった。
「泥棒!まて!」
男の大声が聞こえた。そして音は、モーターボートが水面を驀進する音にしか聞こえなくなった。
再び、待て!待て!とうるさく叫ぶ大声。待つよ。逃げないよ、もう体力の限界だよ。
彼は振り向いた。月の光が、再びあたりを青く照らし始めていた。
そこには、やはりモーターボートがまじかに迫ってきていた。麦わら帽子をかぶった釣り人がそのボートに乗っている。
「泥棒!つかまえたぞ!」釣り人は叫んだ。
それから記憶がない。
あの怒り狂った釣り人によって、暗黒の池の底へ沈められてしまったのだろうか。
ふと気づくと、彼は鉄格子のはまった窓のある、冷たいコンクリートの部屋に寝かされていた。
鉄格子の窓ごしに、朝の光が射し込んでいる。
「あれ?ここはどこ?」
しばらくぼんやりしていると、朝の光が射す窓の反対側から、声がした。
「やっと目がさめたか」
声の方を振り向くと、長髪のやせた男が、隣の、これまた鉄格子のはまった部屋から話しかけたのだ。彼は言った。
「こ、ここは?」
「留置場だよ。」




