43 うたてこの世はをぐらきを
彼は妖怪の言葉をうつろな表情で聞いていた。
白い肉塊が、怒りながら彼を振り飛ばした。床の上に転がって、あおむけとなり、視線は闇の中を漂った。
鋭い視線が彼を射た。彼はぎくりとした。
「なんだ君か」
彼は力なく声に出してみた。ぎくりとしつつ平静な声。床に横たわる彼の顔のすぐ上のところに、彼を見下ろして小女が立っている。
「時間だよ、あんた」
山の向こうから木霊が呼ぶように、
「時間だよー時間だよー」
と響いてくる。
「ああ…どうしたものか…」
「商売をしてる時って、人が変わるもんだ…なんて思ってんでしょ」
妖怪が、暗闇の天井の方から声をかけてくる。
「いいえ。僕は別のことを考えてたんですよ。「時間だよ」っていう言葉でね。別のことを考えてたようなんですよ。何かどこかで考えてたことだと思うんですがね…」
「ハハハハ…」
妖怪の笑い声が、また暗闇の天井から聞こえてくる。
「可笑しいですかね。僕は今、吐くだけのものを吐いちまって、心が平安なんだと思うんですよね。だから…」
「吐くものなんて、あなた、後から後から、また出来上がってきちまうもんよ」
「そうですか?」
彼はゆっくりと腹筋運動でもするようにして上体を起こした。
「もう少し、アルコールで酔ってしまいたいわな…」
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彼はタクシーに乗って家路についた。小女といっしょだ。
うたてこの世はおぐらきを
何しにわれはさめつらむ
いざいまいち度かへらばや
うつくしかりし夢の世に
どこかで聞いたこの歌思い出し、彼は小さな声でつぶやいた。
小女に聞かせているつもりも半分あった。しかし、車の走る音にかき消されて、小女には途切れ途切れにしか聞こえなかったろう。
小女に出会った晩に見たような月がでていた。
車内はクーラーの冷気にみたされている。外は暑い。彼はまだ酔っ払っている。




