32 妖怪?
周囲のざわめきを聞き、男は意識が戻ったようだ。焦って声をあげた。
「き救急車、びび病院、い、い、医者あ・・・? そんな、そんな必要は、ないのです!」
そして立ち上がり、周囲に、大丈夫です、大丈夫です、と言った。
しかし二、三歩歩きかけて、また倒れそうになった。また彼が慌てて支えになってやった。彼は言った。
「やっぱり、医者に診てもらった方がいいんじゃないですか」
「大丈夫です。だ、だいじょうぶぶだだ。です。本当です。少し暑さが身にしみたのです。それだけです・・・だだ」
少しも大丈夫そうではなかった。彼にそんな義理はなかったが、何故か彼は男を涼しい所へ案内してやらざるを得なくなった。
成り行きと行きがかりと、外野の注視の圧力で、とどのつまりが何となく、彼は男を近くの喫茶店に連れて行った。
涼しい店内に男と向かい合って腰掛けた。シートの脇に大きな水槽があって、肥満した金魚がぶよぶよ泳いでいた。
水銀のような色の間接照明に浮かびあがった店内は、黒を基調とした色彩の意匠で、昭和30年代という風な、どこか時代遅れな感じがした。
腰掛けて暫くはお互いに無言だった。男はまだ意識朦朧なのか、目がうつろな感じだった。そしてやっと口を開いた。
「あなた、いつも、それ持って、歩いてるんですか」
男は彼の横に置かれた小女を見てそう言った。
「お友達、なんですね」
男は急に親密な口調になって言った。
滑り込んで来る感じ。すかさず男は滑り込んできた。彼の内部へ。この男はぬめっと人の心に入り込むのが得意な奴なのか。
「よく分かりますね」
「どこで出会いましたか」
「え?」
「いやすみません。聞かなくていいような話でしたか」
「いえ別に。それより、お楽になられたんですね?」
「ええ。とても。すこぶる。どうもありがとう。介抱して下さって」
「それはよかった」
「昼の暑さは、かなわんのです。わたしゃ妖怪なもんで」
「え?」
「妖怪なのです。夜の方が得意だし、好きなんです」
「はあ」
妖怪?何を言い出すんだ。からかっているのか冗談なのか、まだ頭が日射病なのか。
「聞かなくてもいいような話ですけどね。妖怪なんです」
「……」




