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ポンド  作者: 新庄知慧
10/88

10 ピンク映画と黒い人影

「どうしたの、珍しいね。ツブレちゃったのか、大丈夫かい」


いや、大丈夫、夏バテです。はい、一人で帰れますから。


スナックの扉を開けて外へ出た。ここはビルの六階で、そのフロアーの店子は皆似たり寄ったりの名前をした飲み屋ばかりだ。


「あずま」とか「セピア」とか「ゆうこ」とか。


数々のネーミングは、脱水した脳細胞が案出したとしか思えない陳腐なものばかりで、演歌の歌集と同じ、どこをめくっても同じ名前ばかりの世界だった。


エレベーターで降下してゆくと、胃袋が胸のあたりまで持ち上げられて、危うく脳天から吐瀉物が噴水になって吹き上げそうになった。


エレベーターには、粉っぽい化粧をした女と丸々太った男とがいっしょに乗り合わせた。人目もはばからず、いちゃつき、乳繰りあい、いらだたしかった。


こんなエレベーターから早く出て、外気に当てられてほっとすることを望んでいたが、いざ外に出てみると、相変わらずの熱帯夜で、思わずむかつきがぶり返し、しゃがみこんでアスファルトの路の上にゲロゲロやってしまった。


今度は胃液しか出なかった。苦しさが少し和らいだ。


暑い空気の中にネオンがぼうっと浮かび点滅し、ねっとりした光がそこかしこに撒き散らかされていた。


歩くと宇宙遊泳をしているような、沈没しかけの難破船の中にいるような、不安定な、要するに酔っ払いの足どりだった。


人が大勢歩いていた。ネオンの青い光赤い灯火、黄色い影が、人々を闇の中に映し出して、見ていると暑苦しく朦朧とさせられる。暫くゆらゆらと行くあてもなく歩いていた。


「八千代館」というポルノ映画劇場の看板が目に入った。


吸い込まれるようにして映画館に入った。


1500 円。3本だて。「花嫁の花びら」「痴漢電車」「いそぎんちゃくの悶絶」。


館内には小便のにおいが満ちていた。冷房ももうひとつ効いていない。出入口が開けっ放しになっているせいだ。


恐ろしく古めかしい建物。


おそらく無声映画全盛のころに建てられ、戦災もまぬがれて(そういえばこの街は第二次世界大戦で空襲されなかったのだ)営業し続けてきたものに相違ない。洋風石造りの堅牢な二階建てだった。


客はまばらで、いずれも労務者風の男ばかりだった。


彼は二階に上がり、表皮の破れたシートにどすんと腰掛けて深く息を吐いた。


スクリーンには、通勤電車の中でくりひろげられる痴漢行為が映し出されていた。


眺めていても始めは何をやっているのかさっぱり分からず何も感じなかった。


だが、吊革につかまる女の後ろにぴったり寄り添って男が立ち、


スカートの中へ手を忍ばせてそして女の顔が恐怖に歪み、そうするうちに、まんざらでもない顔になり、


やがて電車の動きにあわせて刺激を求め出し、なぜかいきなりホテルの一室、と、


段々に何をやっているか理解できてきた。


彼は興奮した。目も覚めた。これはいい。



その時。


黒い人影が画面を遮った。



男が彼の前を通ったのだ。


そしてその人影は、彼の隣の席に座った。



その人影は彼の前を通るとき彼を見て、 喜悦の表情を現していた・・・!

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