ISI
夕暮れどきのカフェ、横浜駅から少し離れているせいもあって、人はまばら。
ヤツが黒縁メガネでパソコンに向かって仕事をし始めたのを機に、オレ達は店を後にした。もちろん、ももしおはまだまだいたがったが、ねぎまが強引に連れ出した。
「「センセ、さようなら」」
「「お先に失礼します」」
カフェを離れ、かもめ歩道橋を渡りながらねぎまを見た。地顔のタレ目が一直線。つまりは、やや上がってるってこと。
「どした?」
オレが聞くと、ねぎまは立ち止まってももしおに向き直った。
「シオリン、やめよ」
ねぎまの顔は真剣。
「へ、マイマイ、どーしたの?」
言われたももしおは、ぽかーんとしている。それは、ミナトとオレも。
「センセはIS」
ねぎまが訳の分かんないことを口走る。なにそれ。
「え、IS?!」
ミナトは驚いてるし。
「ISって?」
オレが聞くと、ミナトが教えてくれた。
「アイキスタンの特殊部隊。アメリカの特殊部隊と同じくらい強いって言われてる」
????? 益々分からん。
オレが首を傾げていると、ねぎまが補足した。
「シオリン、写真撮ったでしょ? 写真の服、腕にISの腕章があったの」
「ちょっと待って、写真、写真」
ももしおはスマホを出して、写真が並ぶ画面を表示した。
ねぎまはその中の最新の一枚をタップして、腕の腕章を拡大する。
腕章の真ん中にアイキスタンの国の形があり、下には「I.S.I」とアルファベットがある。
「アイキスタン・スペシャル・インフォメーション。軍隊のエリート中のエリート。トップの軍事訓練を受けた上に、トップの頭脳で情報戦もする部隊」
「ISだけじゃなくて、ISIなのか。すげーな」
ミナトが感心している。その様子からオレも一言。
「なんかすごそー」
ももしおは、オレと同じように訳分かっていなさそう。目をきらきらさせてねぎまにかぶりつきで聞く。
「そんなにスゴイの?」
「あのね、シオリン。アメリカのIT企業に行くような人材がISIには揃ってるの。正義の皮を被ったテロ組織って言われることもあるくらいなの。写真を見せてくれたってことは、本当に今はISIじゃないと思う。でもね、シオリン、センセはやめよ?」
ねぎまがももしおの両肩に手を置いて説得を試みる。
が、アホなももしおは妄想する。
「え、なんで? そんなん、すっごーくかっこいいじゃん。ストイックな迷彩柄の下には鍛え抜かれた鋼のカラダ。きっとある、幾多の戦場を渡り歩いてきた傷の痕。その傷口を舐め、お互いに心の傷を舐め合い、時の過ぎゆくまま夜に身を委ねる。はぁぁぁ。女性を歓ばせるときも、卓越した脳細胞で幾多のデータを分析し、あのカラダで至高の快楽へ導いてくれるんだよ」
「シオリン、お口にチャック」
ももしおの暴走をねぎまが止める。もう、慣れた。最初はピンクの桜貝みたいな唇から紡ぎ出される言葉に耳を疑ったが。
ミナトはアゴに大きな手を当てて訝しげな顔をした。
「なんでそんなエリートが、オレらの高校来たんだろ」
ホントだ。ISIとやらってこともびっくりだけどさ、そんなエリートだったら引く手数多。シリコンバレーで稼いだ方がいいと思う。
「変だよな。軍は首になったって言ってたけどさ」
訳ありっぽかった。
「とにかく! やめた方がいいと思うの。シオリン、怪しさがハンパないって」
ねぎまが釘をさした。
が、ももしおの男の好みはボーダレス。
「ステキ ♡_♡」
アホだ。
「ま、いーじゃん? 見てるだけなら。どーせ相手にされるわけねーじゃん。あーゆー肉体派の男ってさ、分かり易い大人なフェロモン系の女が好きなんじゃね?」
オレはねぎまを安心させようとした。ら、
「宗哲クン、シオリンの魅力を分からない男がいるとは思えないんだけど」
ねぎまはももしおを抱きしめながらオレを睨む。ねぎまの腕の中で、ももしおがこくこくと頷く。
は?
確かにももしおは超絶美少女に違いない。外見は。
その外見をもってしても埋められないほど、普通の女の子からは大きく逸脱している。分かってね―の?
第1に株ヲタク。
高校生でありながら、母親名義の口座で何十万単位の金額を1円感覚で転がす。あまりに儲けるもんだから、家では大切にされ、やりたい放題。学校でも、授業をサボって株の売買をしている。
第2にガサツで気まま。自由人。
短めの制服のスカートもなんのその。平気で脚を開いて座る。
人の気持ちに気づかず、男心を踏みにじったのは星の数。可愛いからって許されることじゃない。
第3に単純。
過ぎるくらい。子供の心を忘れないなんて響きはいいかもしれないが、本能に忠実。
眠ければ眠り、食べたければ食べる。常識とモラルが欠落しているレベル。
ねぎまはももしおを妹か娘のように可愛がっている。でもさ、親バカ過ぎ。言っとくけど、オレ、ももしおにこれっぽちも女性的魅力を感じねーし。
「ま、ももしおちゃん、とりあえず、用心したら? いろいろと深入りは反対かな。オレも」
ミナトがあだ名に「ちゃん」付けで優しく諭した。
「みんなが反対するよー。マイマイまで。どーして好きになっちゃダメなの? 仕方ないじゃん。もう好きになっちゃったんだもん。愛はね、理屈じゃないの。どんなに頭で分かってても心の炎とカラダの火照りはどうにもできないの!」
「シオリン、お口にチャック」
エロ発言が多いももしおだが、カレシいない歴=年齢。
その後、学校では平和に時間が流れた。
ももしおがヤツとの距離を縮めたとほざいていたが、どーせ大したことない。せいぜい挨拶ができるようになったくらいだろう。
ヤツは相変わらずモテまくり、女生徒だけでなく、男子生徒にもモテ始めた。
こてんぱんにのされたサッカー部、野球部、バスケ部が練習メニューを相談するほど。
でもって、ヤツはさすがにISI。パソコンルームの不具合を直し、OSをバージョンアップ。フリーのセキュリティソフトをインストールしただけに留まらず、学校のホームページを格段にハイクオリティなものにした。
これによって教師陣からも頼りにされ、ヲタク男子からも羨望の眼差しで見られるようになった。
更には学食のおばちゃん連中までもを虜にした。
ヤツはアラフィフ、アラカンのババアを「おジョーさん」と呼ぶ。いかにも日本語を知りませんみたいな発音で。策士。
そのせいか、いつも肉たっぷりの大盛り。ラーメンのトッピングだけでなく替え玉もタダ。
1週間でこれだけの結果を残すなんて。
シリコンバレーとか、せめてIT企業行けよ。
そんなヤツが今、暗闇の中にいる。
風が吹きすさぶ工事現場。
カジノができる前の、やがて「古良き横浜」となる景色を目に焼き付けようと思った。
祖父の釣り船が係留してあるマリーナから、開発中のカジノリゾート区域は目と鼻の先。
塾帰り、オレは船で夜の誰もいないエリアを目指した。
ときには独りでセンチメンタルに浸りたくなる時もある。
『カジノとか、オレ、嫌。綺麗でオシャレな横浜が変わる気ぃする』
そう祖父に話したことがある。祖父はオレの言葉を一蹴した。
『宗哲、横浜って、もともとそんな綺麗な街じゃないぞ。宗哲が思ってるのは、横浜がこう見られたいってイメージして造った人工のみなとみらい周辺だろ。闇市、青線、ゴミの浮いた川。横浜ってそんな汚ったねー街だったぞ』
戦後の混乱期のことかと思ったら、みなとみらいができる前はまだまだそんな感じだったらしい。
カジノができたら、マリーナの使用料金は高騰するだろうと祖父が言う。アラブの石油王が使うようなマリーナになったら、庶民は係留場所を変えるしかない。
そうなったら、こんな風に気まぐれにふらっと夜のクルージングなんてできなくなる。
遠くのインスタ映えする夜景はいつも通りの美しさ。その手前にぽっかりとブラックホールのような一帯。開発中のカジノリゾート区域。
陸から出っ張った埠頭。
その埠頭の中央部分を横切るような形で、海からの道路が建設中。海中からニョロニョロみたいに柱だけ生えている。ニョロニョロって、ムーミンに出てくるやつ。その柱の間を通って横浜港に出た。
埠頭の先端部分には工事のためなのか、メガフロートと呼ばれる小さな人工浮島があった。そこ船を係留し、上陸。
辺りはかつて倉庫が立ち並ぶ場所だった。
工事の前は関係者以外立入禁止で入ったことはなかった。
いかにもヤバイ取引とかされそうな雰囲気で、夜、一人で来るなんてとてもムリ。ま、実際はそんなことなかったんだろーけどさ。
もう倉庫群は影も形もない。
所々にブルドーザーやショベルカーがある。無人。
それにしても、カジノ、リゾート開発、道路建設。金の臭いがぷんぷんする。
とんでもない金額が動いてるんだろーなー。
来る超高齢化社会での横浜の収入源になるって。
人口構成から考えたら、もっと地方の過疎化してる場所に作った方が頷けるんだけどさ。そんなことはどーでもいい。
倉庫群が取り壊されて見晴らしの良くなった埠頭をぼーっと眺めていた。波の音と風の音を聞きながら。スマホで写真を撮ろうにも暗すぎる。
ん?
オレの耳は風の音に微かに混じる、靴の音を捕えた。
急いで物影に身を隠した。幸い辺りは暗い。月明かりを避ければそれでよかった。
遠くから近づく足音の主を見て驚いた。
月の光が滴る怪しい男。イケメン講師のヤツだった。