諭吉の恋
船でねぎまと二人きり。
「わん」
と一頭。
わしゃわしゃわしゃ
ねぎまはびしょ濡れわんこの体を拭く。
「ありがと」
ねぎまがわんこに話しかける。
「がんばったな。カッコよかったぞ」
オレもわんこを労った。
海に飛び込んだんだもんな。でもって、自分よりずっと大きな人間を泳いで運んだ。漢。
拭いても長毛種のわんこは毛がぺったりと体に張り付いたまま。夏がとうに過ぎた季節。このままだと風邪をひく。それに長毛種は毛の奥までちゃんと乾かさないと皮膚病を招く。
何よりも全身磯臭い。
「ねぇ、宗哲クン、この子洗ってあげたくない?」
「だな」
嬉しくなる。また同じこと考えてた。
別れたって友達だから、一緒に犬を洗ったっていい。
歩いて行ける場所にあったセルフの犬のシャンプー施設。リードは船の係留用のロープを切って使った。思ったとおりしっかり躾けられていて、リードを持つオレを追い越さず、左側を歩いてくれた。
「お利巧だね、この子」
2人でいれば今までと一緒。手を繋いでしまいたい。
手を伸ばせば届くのに。数十センチが果てしなく遠い。
Just Friends 「ただの友達」だから。
わんこを洗い始めて新発見。
「こいつ、♀」
「ええー。ヤダぁ、宗哲クン」
「ヤダぁ」って言われても洗ったら分かるし。そこら辺だけ洗わないわけにいかねーじゃん。
シャンプーで全身に毛がひっついてシルエットが現れると、野良犬なのにさほど痩せていない。出稼ぎおじさん達からいっぱいご飯を貰ってたんだろーな。
ドライヤーで毛を乾かしたら、なんと、すっげー美犬。ふわっふわのもっふもふ。
「こいつ、コリー」
「え? 宗哲クンちの諭吉と一緒ってこと?」
「顔がコリーっぽいって思ってたけど、毛がぐっしゃぐしゃだったじゃん。だからあんま、コリーに見えなくて」
「宗哲クンとこの諭吉よりちょっと小さいかも」
諭吉はコリー犬の中でも特大サイズ。
「女の子ん中ではでっかい方」
「そうなんだ。綺麗な子だね」
首の周りには幅広い白いマフラー状の毛。体全体は白が多いブルーマール。
ブルーマールってのは、白地にグレーや黒が入ったマーブル模様。
カシャッ
オレはわんこの写真をババア(母)に送った。
『野良犬飼いたい』
コリー好きのババア(母)は大喜び。即、車でマリーナまで迎えに来ると言った。
わんこは喉が渇いていたらしく、がぶがぶと水を飲んだ。
リード代わりのロープを首にくっつけて、てくてくとマリーナまで戻った。
船の中でねぎまと二人きり。
「わん」
と一頭。
並んで体育座り。小さな船の中は狭くてねぎまが近い。
「シオリンが捕まっちゃったときね、私、気づいたら宗哲クンにLINEしてた」
ぽつりとねぎま。
「オレ、嬉しかった。捕まってるとかってのは怖かったけど」
「ありがと」
「ん?」
「来てくれて」
今だ、今だ宗哲、好きって言え。
心の中のもう一人が騒ぐ。
「友達じゃん」
あ"ー。何言ってんだろ、オレ。
「あのね、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど」
「ん?」
「宗哲クンがいないとダメだなーって。心配してくれるのも嬉しかったなーって」
今だ、今だ宗哲、手を握れ。
「そ?」
あ"ー。素直になれない。
ちゅ
えっ。
キスされた。口に。ぎり唇。ちょっと頬の方にずれてたけど。
驚いた顔で隣を見れば、至近距離に真っ赤な顔のねぎま。いつもは白い肌が首まで染まっている。
きゅーーーーん
めっちゃ可愛い。
見つめ合うこと3秒。
今だ宗哲、キス返し。行け。
こてっ
並んで座ったまま、ねぎまがオレに頭をもたせ掛ける。
赤い顔が恥ずかしいのか、ぐりぐりとオレの腕に頭を擦り付ける。
オレはそっと肩に手を回し、もう一つの腕も使ってホールド。
イケる。
「別れる」って言われたとき、オレ何思った? 「こんなことになるなら、早くあの胸を触っとけばよかった」って。後悔先に立たず。
ちゅ
キス、クリア。
ちゅ
ん?
わんこがじーっとこっちを見てるし。
ちゅ
見るな、わんこ。
ちゅ―――
イケる。これならイケる。
オレは自分の右手をそっとねぎまの肩から滑らしていく。
もう少し。
「ふふふふふ。こんにちは。ははは。あら、いいお天気ですね」
「わん」
ん?
ねぎまとキスに耽っていると高らかな笑い声と共に犬の鳴き声が聞こえてきた。
くーっ。後少しってところで。
「ええ、船が転覆? まあ。人は? あらぁ」
「わん」
もう来たのか。早すぎ。我が家の諭吉とババア(母)。
「わんわん」
「わんわん」
「わんわん」
「わんわん」
外からの諭吉の鳴き声に、ここにいるわんこが答えるように鳴く。
わんこはデッキに出て諭吉とババア(母)をお出迎えした。
ああ、なんて分かり易いんだろ。諭吉。見ているこっちが恥ずい。
諭吉は一目で恋に堕ちた。近づき、寄り添い、そしてわんこのお尻の匂いをしつこいほど嗅ぎまくる。
「こんにちは。お邪魔してます」
ぺこり
ねぎまが母にお辞儀した。
「あらぁ、こんにちは。根岸さん。野良犬ちゃんを連れに来ただけだから、それじゃね」
母はわんこを連れてそそくさと帰ろうとする。でもって、顔をくしゃっとさせてオレに親指を立てる。やめろっ。ねぎまから丸見えだから。息子の恋路は見て見ぬふりしろって。
狭い桟橋を縦一列。諭吉、母、ねぎま、わんこ、オレ。
ババア(母)は見送りはいいと言ったけれど、何事にも丁寧なねぎまは車の方へ一緒に歩く。なのでオレも。
桟橋を渡り終えて陸に上がると、恋に堕ちた諭吉は積極的にアピール。顔をわんこに擦り付けヨダレをたらしてみっともない。はあはあはあはあ息荒め。更にはわんこのお尻に前足をかけて。
やめろぉぉぉぉ!
諭吉、真昼間から公衆の面前で! 初対面の女の子を後ろから襲うなんて言語道断。
オレが諭吉を払いのけようとするとどこからか声が聞こえた。
「ジョセフィーヌ!」
その声を聞いたわんこは、諭吉を吹っ飛ばして走って行った。
「ジョセフィーヌ、ジョセフィーヌ」
遠くの方でわんこは老紳士の腕の中。尻尾を千切れんばかりに振っている。
母が駆け寄って尋ねた。
「飼い主の方ですか?」
「そうです。ヨットで遊びに来たときにいなくなって。ずーっと探してたんです。おお、ジョセ、そうかそうか。会いたかったか、会いたかったか、会いたかったよ。ジョセ」
老紳士は涙を流して喜んでいた。
諭吉はすっかり蚊帳の外。
ジョセフィーヌはヨットで伊勢から横浜に遊びに来たときにいなくなったらしい。横浜、逗子、横須賀とめぐって、それぞれ寄港。横須賀を出たときにいないことに気づいた。家族で来ていたから誰もが他の誰かと一緒だと思っていたらしい。
寄った場所や保健所に問い合わせて長い間探していた。
横浜でのヨットを停めた場所は、ぽかり桟橋。わんこが中国からの出稼ぎおじさんからご飯をもらっていたカジノリゾート区域まで2キロくらい。
ある日、どこかの誰かのインスタにおにぎりを食べているジョセフィーヌが写り込んでいるのを知人が見つけた。老紳士はジョセフィーヌのあまりのみすぼらしさに目を疑ったという。
そこからこの辺りに目星をつけて探しまくったのだそう。
尋ね犬の写真を見せてもらった。美犬。毛がさらっさらのふわっふわ。
ちょっと野良んときとギャップがありすぎ。だから長いこと探すはめになったのかも。
ぽかり桟橋近くのマリーナ、つまりはここ、に問い合わせると、野良犬情報を得られたらしい。
「いやー。コリーじゃありませんけど大きい汚い犬がいるって言われましたよ」
老紳士は25キロ以上ありそうなわんこを赤ちゃんみたいに抱き上げた。たぶん、諭吉のセクハラから守るため。
「この子、カジノリゾート区域で工事してる人からご飯をもらってたんです。さっき、ご飯くれてた人が海に落ちたのを助けたんですよ」
ねぎまは勲章物の人命救助を飼い主に報告した。
「海難救助犬みたいにカッコよかったです」
オレは言いながらジョセフィーヌのアゴを撫でた。
「えっ。ホントに?!」
「わん」
驚く飼い主にジョセフィーヌが返事。
老紳士は、野良のときにお世話になった人にお礼を言いたいと言う。
が、ねぎまとオレは口をつぐんだ。言えねーじゃん。
出稼ぎおじさんが親切心でショベルカーを動かして事故を起こした直後。オレ達がカジノリゾート区域にいたことはバレちゃいけないしさ。
出稼ぎおじさん達は逃げたんだろうか。
日本を発つのはいつの予定だったんだろ。
「ジョセフィーヌ、お前によくしてた人のところへ行こう」
老紳士がわんこに話しかけると、わんこは走り出した。リードに引っ張られるように老紳士が続いた。賢いわんこ。
残されたのは、呆然と立ち尽くす諭吉。かわいそうに。短い恋だったな。
「諭吉、元気出せって」
オレは哀愁にまみれた諭吉の背中をもふもふしてやった。
母はぐぐっと諭吉のリードを引っ張った。
「根岸さん、愚息をヨロシクお願いします。さ、諭吉、行こ」
ぺこり
母はねぎまに頭を下げた。
「愚息だなんてとんでもないです」
ぺこり
ねぎまも母にお辞儀する。
そして母はいらんことをオレに言う。
「宗哲、ちゃんと謝りなさい。男はね、謝って謝って謝り倒すの。じゃ」
ひでー。なんでオレが悪いことになってんだろ。
で、男全般。それってなんか不公平じゃん。
「早く帰れ」と思いながら諭吉とババア(母)に手を振った。




