シオリン、お口にチャック
息を潜める。
前方10m先には筋肉質の男。浅黒い肌が外灯のない闇に紛れる。
頬を打つ陸風。男の服はバタバタ音を立て、生き物みたいに形を変える。
オレ、学生服でよかったし。ナイロン素材だったら、音で相手に自分の存在を気づかれてた。
くっそ。
どこ行くんだよ、ヤツは。
速ぇな。
見失いそうになる。
ん?
消えた。
さっきまで確かに、前方の地面の上には人影があった。こっちに気づいて姿を消したのか?
オレは用心深く、音を立てないようにヤツが姿を消した場所に近づいた。
黄色と黒のハードルみたいなトラ柵や鉄鋼の資材が積み上げてある先にあったのは……
穴。
そこには四角い広大な穴があった。一片は50mくらいだろうか。長すぎて分からん。暗いし。
深い。底の方は見えない。
見つかることを恐れ、とりあえず身を低くした。ンこ座り。
地上にヤツの気配を感じない。
身動きせず耳を澄ますと、風の音に混じって、ざっざざっと何かを擦るような音が聞こえる。それは下から。ってことは穴の中。
匍匐前進。地面にへばりついて、穴の中を見下ろした。
オレから30mくらい離れた場所にはエレベーターなのか、人が乗って下りて行けそうなものが穴の底に向かって縦についている。そのエレベーターを支えているだろう柱に蛍のような光があった。
不安定にちらちらと揺れながら、それは下へ下へと動いて行く。
ヤツか?
エレベーターは停止したまま。
暗闇に目を凝らす。人間が柱を伝って下の方へ移動している。光は口に咥えられた懐中電灯。ざざって音は、ヤツがコンクリートの壁に足をついている音だった。
湾岸の広大な工事現場。
ここは、カジノが設けられ、アジア有数のリゾートになる予定の開発区域。
月明かりに照らされるの剥き出しの土くれが広がる。ところどころに取り残されたブルドーザー、ショベルカー。それは月の光を浴びて、今にも呼吸を始めて動き出しそう。
東京ドーム10個分ってレベルのだだっ広い工事現場。22時。
こんなとこに、何の用があるんだ? あのイケメン講師。
怪しすぎだろ。
オレは目の前にぽっかりと口を開ける、黒い穴を見下ろした。
忌々しいイケメン講師が我が校の漁場を荒らし始めたのは1週間前。
そのときは、ヤツが暗闇に消えるような男だとは夢にも思っていなかった。
ネイティブな生きた英語の習得と銘打って、ヤツは我が校に派遣されてきた。
浅黒い肌、彫りの深い顔、グレーの瞳、Yシャツやズボンがはち切れそうな筋肉。
27歳、独身、♂。
ヤツは女子生徒のハートを鷲掴みした。
まずは外見。次に屈託のない笑顔。
更には、
サッカー部に参加してハットトリックを決め、野球部でショートを熟し、バスケ部ではダンクをやってのけた。派手好きだな、おい。
漁場でブイブイいわせていたサッカー部とバスケ部が霞んだことはちょっと小気味よかった。
見学していた女の子の黄色い声はイケメン講師に一点集中。Tシャツの裾で額の汗を拭いたときが最高潮。ハットトリックよりも女の子の視線を攫った。
オレは見ていなかったが、腹筋がシックスパックだったとか。ヘソの上まで毛が濃かったとか。
試合中、サッカー部の連中は鼓膜が破れそうになったらしい。
で、身近なお魚さんが1匹、ヤツの網に引っかかった。
「もう、ステキ! 横に飛んでキャッチして、鮮やかに三塁へ、しゅぱっ。きゃ―――♡」
ももしお。
カフェで立ち上がり、実演つきで野球部でのファインプレーを再現してくれる。
座れ。そこそこオシャレな店だから、ここ。
「運動神経いいよね、気に入っちゃったの?」
ねぎまが幸せそうなももしおに聞く。アイスティのコップに刺さるストローを白魚のような指で弄びながら。
「あったり前じゃん」
言いながら、ももしおは手を胸の前で組んで乙女ポーズで答えた。瞳はうっとりと宙を見つめた。
我が校には人気を二分する二人の超絶美少女がいる。
清純派天然系美少女「ももしお」こと百田志桜里と、妖艶派癒し系美少女「ねぎま」こと根岸マイ。
清純派天然系美少女と誉の高いももしおは、小顔で手足が長い。透明感があり、澄んだ瞳はこの世の善意の上澄みのよう。が、「清純」は男子の幻想。儲け話が好きな株のトレーダーという顔を待つ。
ねぎまは、オレ、米蔵宗哲のカノジョ。不思議なことに。
ねぎまは心配りができて気が利く最高のカノジョ。もちろん外見は申し分ない。スクリーンから抜け出したような目映さ。滑らかな白い肌(未だ堪能したことはない)、優しい眼差し、左目の下に泣きぼくろ。ぽってりとした厚めの唇。緩くウエーブしたセミロング。そして推定DかE。
ももしおは乙女ポーズのまま胸中を口にする。
「女なら誰だって思っちゃうよ。あの逞しい胸に舌を這わせたいって」
「シオリン、お口にチャック」
すかさず、ねぎまが注意。
ももしお×ねぎまは男子が勝手につけたあだ名で、女子の間では、ももしおがシオリン、ねぎまがマイマイと呼ばれている。
「マイマイだって好きだもんね。ワイシャツの袖を捲り上げたときに見える腕毛。言ってたじゃん。黒縁メガネ、腕毛、英字新聞の3点セットはバーガー、ドリンク、ポテトのセットに並んで最強……もごっ」
ももしおは女子トークを暴露し、ねぎまに口を塞がれた。
え。そーなの?!
ワイシャツの袖を捲り上げたときの腕毛チェックなんてしんの? オレ、つるっつるんなんだけど。成長期遅かったから、高1になってやっと声変わりして、やっとやっと水泳のときの着替えが恥ずかしくなくなったって状態で、腕に毛なんてずーっと先。てか、女子より腕毛薄いかも。じーさんになっても濃くならねー気ぃする。ごめん。その辺は別のとこでカバーするから。
黒縁メガネが好きなのか。オレ、ワンデイアクビューだけど、黒縁の伊達メガネする。英字新聞もアイテムとして常備しとくから。毎日持ち歩く。
ところで、バーガー、ドリンク、ポテトのセットって、最強の例えっつーより、チープ感の方が勝るんだけど。
「あんなん、どこがいいわけ? 外見だけじゃん」
その他大勢の男代表として言わせてもらう。男は外見じゃねーし。
「英語話せて、スポーツ万能だけど。うふっ」
ねぎまはオレに微笑みながら、やんわりと「見苦しい」の意味を込めた。
オレはさり気なく、捲り上げていたYシャツを下ろし、つるっつるんの腕を布で覆った。
横浜駅東口を出てSOGOを抜け、かもめ歩道橋を渡ったとこにパン屋がある。そこに併設されたカフェを4人でよく利用する。ももしお×ねぎま、ミナト、オレ。
まだミナトは来ていない。課題提出で遅れるつってた。
ミナト、早く来い。これ以上、モテる男の話を聞かされるなんてクソムカツク。
「ねーねーねーねー、宗哲君」
斜め前の席でニコニコ笑顔のももしおが体を左右にメトロノームの様に揺らす。笑顔が胡散臭すぎる。嫌な予感しかしない。
「ん?」
できればガン無視したいとこだけど、ねぎまが隣にいて、ももしおを無碍にできない。
「センセをさー、男テニに誘おうよ。でねでねでね、どうしてあんなにムキムキなのか聞いて?」
嫌な予感的中。男テニは男子硬式テニス部の略。ミナトとオレが所属している。ゆるーい部活。
ヤツのあの身のこなしから察するに、男テニ部員はこてんぱんだろう。
「嫌」
即答。
ぎゅっ
ねぎまがいきなりオレの腕を握った。そして、真剣な瞳でオレを見つめる。
タレ目、長い天然まつ毛、瞬きなし、泣きぼくろ。きゅっとオレの心臓が捻じれた。
「宗哲クン、お願い。シオリンね、センセが来てから、毎日とっても楽しそうなの。きっと本当にセンセのこと大好きなの。ね、聞いてあげて?」
参りました。
大切なカノジョの頼みとあれば仕方がない。
「筋肉の理由聞くだけでいいじゃん。男テニに呼ぶのはナシな」
とりあえず、被害を最小限にとどめたい。ミジンコみたいな漢のプライドだって一応あるにはある。
でもって、ヤツを男子硬式テニス部に招待しようもんなら、被害は部員全員が被ることになる。
「うぇぇぇぇい!」
「やったね!」
パチン
ももしお×ねぎまは、立ち上がって万歳をし、テーブル越しに両手を叩き合う。喜びすぎ。てか座れ。
店の客はほぼカップル。リバーサイド、日が暮れて夜を迎える中、静かに愛を語らってるってのに。
ももしおがヤツのことを本当に好きとは思えねーし。
女子にとって恋バナはほぼレジャーじゃん。甘いもんを食べながら恋バナをするのが1番の女の友情の深め方ってことくらいは分かってる。
……。
ねぎまのオレへの気持ちがレジャーじゃありませんように。
と、いきなり正面に座るももしおの目がまん丸になった。姿勢を正してアゴを引く。口元がきゅっと閉まる。
どした? ももしお。
そうやって普通にしてれば、本物の清純派に見えるぞ。超絶美少女が板についてる。
「おまたせ」
声に振り向けば、ミナト。
「ハーイ、楽しそうだね」
と、ヤツ。