九話 逃走経路
意識を周囲へ伸ばすと、先程まで存在していなかった活性点が周囲に散見された。
地脈の活性率も通常時とは比べ物にならない。先程までが肌を撫でるような漣だとすれば、今は矮小な存在を一口で飲み干さんとする大津波――うねる大海に呑まれたようなこの感覚こそが聖霊の鼓動であり、顕霊の胎動なのだ。
そうこうしている間にもまたひとつ新たな活性点が生まれた。活性点の増加は即ち、顕霊の増加に他ならない。自分が感知できる範囲でさえ、その数はゆうに五十を超えている。事は既に個人の力でどうこうできるレベルを遥かに超えていた。
自分にできることと言えば、ひとりでも多くの民間人を非難させることだ。しかし地脈の活性率が高いせいか、顕霊の劫波に紛れて人間の劫波を感知し辛い。
焦燥感に襲われながら走り続けていると、五感が劫波ではない物理的な波を捉えた。渓谷の静寂を劈くようなその音の正体は――人間の悲鳴だった。
咄嗟に制動し、声がした方角へ向かって強く地面を蹴る。
――反応が遅れた!
切歯扼腕しながら枝葉を掻き分けて突き進むと、鬱蒼とした木々が途切れて視界が一気に開けた。石畳で舗装された道が左右へ向かって長く広がっており、眼前には崖と崖際に沿って設置された転落防止柵がある――のだが、その一部が無残にも崩壊している。
この場所で何が起きたのかは一目で理解できた。
最悪の事態が頭を過ぎり、背筋に嫌な汗が流れる。
衝動的に駆け寄って崖下を覗き込むと、崖の中腹を走る道の上に荷馬車が転落していた。細い道幅に積荷と馬車の破片が散乱しており、ハーネスに繋がれた馬は力なく倒れてピクリとも動かない。
凄惨な光景に思わず息を呑むが、横転した荷馬車の近くに動く二つの人影を見つけて僅かに安堵する。どうやら最悪の事態だけは免れたようだ。
しかし一息吐けるほどの余裕はない。
よくよく見るとその男女は馬車の陰に身を寄せ合うように隠れており、そんな彼らを追い詰めるように左右から二体の顕霊がゆっくりと近づいていた。最悪ではないが、限りなく最悪に近い状況であることに変わりはない。一秒でも早く彼らを救出する必要がある。
彼らへの最短経路は、直進だ。
崖っ縁につま先をかけると、截然たる断崖が見下ろせた。地面までの距離は七、八メートル程もあり、崩れた土塊が八十度に近い斜面を転がっていく。
先程までとは違った冷や汗が背中を伝う。しかし一瞬の躊躇を無理やり飲み下し、意を決して空中に躍り出ると、踵で岩肌を削るように降下し、眼下の顕霊を目掛けて跳躍する。
靴底が顕霊の頭頂部を捉えるが、先生のような美しい蹴りではなく、ただの不恰好な着地だ。しかし成人男性の体重があれば、位置エネルギーも立派な凶器と化す。
歪な音と共に衝撃が走り、ビリヤードのように双方へ弾かれる。全身を強く打って地面を転がりながらもなんとか立ち上がると、崖際の柵にもたれかかるように踏みとどまっていた顕霊へ勢い任せにタックルをする。
血の滴る生肉に触れるような不快感と共に、肩口への強い衝撃が走る。しかし筋肉や脂肪が無い分、全体の質量は小さいらしく、意外にも身体への反動は少なかった。
追突事故のように縺れ合いながら、両者の体が柵を越えて空中に放り出される。しかし追突する側だった分、顕霊より自分のほうが僅かに崖に近かった。咄嗟に体を反転させてチェーンロープを掴むことで、何とか事なきを得る。
チェーンロープにぶら下がりながら下を向くと、顕霊が岩肌を削りながら斜面を転がり落ちていくのが見えた。地面までの距離は二十メートル近くあり、崖下に群生する木々の天辺を覗き込むことさえできた。
顕霊はやがて粘着質な音を立てながら地面に激突して動かなくなった。全身の間接があらぬ方向へ捻じ曲がり、骨も所々折れている。もし立場が逆だったと考えると、ぞっとする。良くて瀕死、最悪即死していてもおかしくない。
しかし顕霊にとって物理的な損傷など時間稼ぎにしかならない。活性率が低いとは言え、あの程度の損傷であればすぐに何事もなかったように復活するだろう。急いで崖上へ戻ると、隠れていた二人の下へ駆け寄りながら声をかける。
「大丈夫ですか!?」
男性の方は少しだけ安心した様子で頷いたが、なおも暗澹とした表情で言葉を続ける。
「私は無事でしたが、妻が足を……」
男性に抱えられるようにしていた女性はどうやら足を挫いたらしく、苦悶の表情で足首を押さえていた。この怪我ではまともに歩くことすら困難だろう。
背後からは積荷を掻き分ける音が聞こえてくる。不幸中の幸いにも、細い崖道に散乱した積荷や車体が顕霊の接近を遮っているが、それも時間の問題だろう。歯噛みしている間にも顕霊は着々と近づいている。
頭の中を葛藤が渦巻く。いくつもの選択肢が浮かび、同時に却下されていく。どうしても、どの選択肢にも裏目があるように思えてしまう。
ここでの判断ミスは死に直結するものだ。自分だけでなく、彼らの命運さえも自分の双肩にかかっていると言っても過言ではないのだ。ずしりと胃の腑に重いものが圧し掛かる。
しかし行動しなければ結末は明白だ。自分の両頬を強く叩いて腹を括ると、
「すぐにここを離れましょう。奥さんを背負って走れますか?」
不安を煽らないように努めて平静な口調でそう言うと、男性は脂汗を浮かべながらも何とか頷き、腰を落として慎重に女性を背に乗せた。
散乱した積荷から薄手の布を引っ張り出し、おんぶ紐の要領で女性を男性の背中に固定していく。これで少しは負担が減るはずだ。
「顕霊は劫波を感知して近寄ってくるので、身を隠そうとして悪路を通るのは逆効果です。出来るだけ舗装された場所を通って関所へ向かって下さい」
布をきつく締めながらそう言い終えると同時に、背後から最後の砦が崩される音が聞こえてきた。振り返ると、散乱した積荷を踏みつけながら顕霊がゆっくりとその姿を現した。
「行って下さい!」
そう叫びながら身を翻して顕霊と正対すると、男性が慌てて足を止めて振り返った。
「あなたは!?」
「ここで奴を食い止めます」
ホルスターから銃を抜きながらそう言うと、男性は僅かに逡巡する様子を見せたが、背中に縋る女性の震える両手を見て唇を強く噛み締めると、
「……どうかご無事で!」
そう言い残して走り出した。彼からすればこちらを囮にするようで心苦しかったのかもしれないが、それで良い。彼の責務は妻を守ること――そして自分の任務は、彼らのために少しでも時間を稼ぐことだ。
顕霊との距離はおよそ十メートル。死の吐息を撒き散らしながら不規則に揺れる髑髏を照準に捉えつつ、じりじりと間合いを取る――と同時、右眼が新たな劫波を捉えた。
――直上!!
咄嗟に前方へ飛びながら振り返ると、崖上から現れた二体の顕霊が直前まで自分が居た場所へ着地した。咄嗟に夫婦の周囲を索敵すると、やはりいくつかの劫波が確認できた。しかしそれらの劫波は何故か近くにいる彼らを無視して、こちらへ一直線に向かってきているようだ。彼らが襲われていないことにひとまずは安堵するが、新たな疑問が浮かぶ。
――顕霊が集まってきている?
しかしこの付近に取り立てて変わった場所はなく、人が多い訳でもない。そうなると顕霊の目標は自ずと絞られてくる。
――俺が狙われているのか?
顕霊は基本的に捕食対象を選り好みしたりはせず、複数の捕食対象がいるのであれば、近くの獲物を優先する。それにも拘わらず、顕霊は夫婦を無視してこちらへ向かってくる。理由は分からないが、しかし好都合だ。少なくとも顕霊の注意が自分へ向いている間は、彼らが襲われることはないのだから。
――引き付けるんだ……一体でも多く、一秒でも長く!
顕霊はまるでこちらを品定めするかのように、遠巻きに対峙したまま動かない。ピリピリとした空気の中で、どこからか音が聞こえた。
「……ア……ア……イ……」
それは顕霊の口から漏れた音だった。声と呼ぶには程遠く、しかし先程までの咆哮とは違った、どこか意味のある音節のようにも聞こえる。
「ア……ア……イ……、……オ……オ……?」
その音が発せられると同時、顕霊の眼窩から黒色の泥が溢れ出し、頬骨を伝って流れ落ちていった。その姿がまるで涙を流しているかのようで僅かに狼狽する。
「ア……ウ……エ……エ……、……ア……ア……イ……」
「何だよ……何か言いたいことでもあんのかよ」
なおも音を発し続ける顕霊に対して精一杯の虚勢を張る。しかし心中は全く穏やかではなかった。脳の奥が痺れるような鈍い頭痛が走り、右の眼窩が強い疼きを上げる。
直後、顕霊は身を反らすようにして大きく吼えた。それは怒りを秘めた咆哮であり、悲痛を孕んだ絶叫だった。体の髄から凍らせるようなその音に否応なく体が萎縮する。
そんな一瞬の隙を狙い澄ますかのように、顕霊が仰け反った上半身を振り下ろすようにして腕を大きく薙ぎ払った。唇を噛み締めると、凍りついた足裏を引き剥がすようにして横へ跳躍する。風を切る音が鼓膜を刺し、頬を掠めた指先が薄皮を剥ぎ取っていった。
顕霊の腕は勢いのままに足元の地面を大きく抉り、手首が半ば埋まったところでようやく止まった。無造作に地面から引き抜かれると、五指はあらぬ方向にへし折れていた。しかし黒色の泥が指先へ纏わりつくと、バキバキと不快な音を立てながら損傷部位を修復していく。
頬を伝う冷や汗を拭うと、手の甲が赤く染まっていた。自傷などおかまいなしの捨て身の攻撃は軌道こそ単調だが十分な殺傷能力を秘めている。
顕霊は獣のような前傾姿勢を取ると、猛烈な勢いで突進してきた。対象との距離は既に十メートルを切っている。銃の仕様上、近距離は最も相性の悪い交戦距離だ。
そして――自分が最も得意とする交戦距離でもある。
銃を左手から右手へ素早く持ち替えると、従来のように目標と正対しつつ両腕を前方へ伸ばすのではなく、拱手の間に銃を保持しつつ左眼から拳ひとつ分の距離に置き、目標に対して半身に構える。
これは『C.A.R System』と呼ばれる射撃スタイルであり、CQB(二十五メートル以内での近接戦闘)の中でも、十メートル以内での戦闘に特化した構えだ。
本来であればグリップを握ったほうの手であえて片目を隠すのだが、自分にはもとより必要ない。戦闘において隻眼というハンデを背負った自分が、己の武器として銃とC.A.R Systemの組み合わせを選んだ最も大きな理由がここにある。
耳を劈く炸裂音と共にスライドが後退し、空薬莢が排出される。およそ五メートルの距離に迫る顕霊の眉間をパラベラム弾が打ち抜くと、首を大きく仰け反らせて怯んだ。
突進の速度が落ちると同時にこちらから素早く距離を詰めると、体勢を立て直した顕霊が腕を伸ばしてこちらへ掴みかかってくる。その軌道を手の甲で逸らしつつ手首を返して腕を掴み前回りさばきで相手の懐へ踏み込むと、身体を深く沈めつつ腕を引き込む。
「――ふッ!!」
相手の勢いを利用した一本背負投を反対側の顕霊へ叩きつけると、両者は縺れ合いながら地面を転がっていった。しかし息つく暇もなく正面の顕霊が追撃をかけてくる。
左腕の大振りを紙一重で避けて膝と足首を打ち抜くと、支えを失った顕霊がくりと膝を突くが、なおも攻撃の手を止めようとしない。
顕霊が爬行するように上半身を深く沈めると、地に突いた膝を軸として放たれた回し蹴りを避けるのではなく、後ろに倒れこむようにして威力を殺しつつ交差した腕で受け止める。
――取った!!
この顕霊がある程度人体の構造に則しているならば関節技も効果的な筈だ。踵に肘を掛けて相手の膝を両足で挟むように固定しつつ、体ごと外側へ捻る。
ヒールホールド――多くの格闘技において禁止される危険な技だ。
人間相手ならば技が極まった時点で止めるのだが、顕霊相手にそんな加減は必要ない。デスロールのように上半身を捻り切って顕霊の膝関節と足首を破壊する。
顕霊を相手に通常兵器しか持たないのであれば、狙うべきは胸や頭ではなく脚だ。致命傷を与えられないならば、機動力を奪う――対顕霊における基本戦術として先生に何度も叩き込まれたことだ。
後転で距離を取りつつ立ち上がると、体勢を立て直した二体の顕霊が襲い掛かってきた。銃を素早く左手に持ち替えてC.A.R Systemから通常体勢へ切り替える。
通常の構えが精密射撃を目的とした『ターゲット・シューティング』であるのに対して、C.A.R Systemはより実戦での使用を重視した『タクティカル・シューティング』だ。この二つのスタイルを状況に応じて切り替えることで、より高度に戦場へ適応していく。
銃口から放たれた二つの弾丸が顕霊の膝蓋骨を寸分違わず撃ち抜くと、バランスを崩した顕霊が頭部から地面に突っ込んだ。続けざまにもう片方の顕霊の膝を打ち抜くが、しかし顕霊は前方へ倒れる勢いのまま両腕で地面を強く掻き、四足歩行の獣のように飛び掛ってきた。
咄嗟に防御するものの交通事故のような衝撃と共に後方へ吹き飛ばされ、ダンブルウィードのように取っ組み合いながら地面を転がっていく。砂利に皮膚を削られながらようやく止まったかと思うと、曇天を背景に顕霊の頭蓋骨が間近に迫っていた。
マウントポジションを取られたが、ガードポジションからでも反撃方法はある。骨の髄まで刻み込まれた訓練の経験が、無意識のうちに身体を動かした。
瞬時に顕霊の左手首を取り、自分の右足を相手の腕の外側から回して脇に掛けると、手足でこじ開けた腕の下の隙間を潜り抜けるように回転し、上下のポジションを逆転させながら肩関節を極める。
ブラジリアン柔術発祥の関節技――オモプラッタ。
先程のように関節を破壊するのではなく、技を極めたまま保持することで動きを封じつつもう一体の顕霊の接近を銃で牽制する。間接の破壊、或いは拘束によって機動力を奪うことで、可能な限り一対一に近い状態を作り続けなければならない。数的有利を活かされた時点で勝てる見込みは皆無に等しくなる。
拘束された顕霊は驚異的な力で地面を抉りながらもがいているが、こちらに大した負荷はかからない。このように筋力の差を覆すことができるのが、関節技の利点のひとつだ。
しかし定石だけで対処できるほど、顕霊は甘い存在ではない。
スライドストップが弾切れを知らせてマガジンリリースボタンに指を掛けた瞬間、足元から濡れた繊維を引きちぎるような不快な音が聞こえたかと思うと、握り締めた風船が割れるように腕へ伝わる関節技の手応えが消失した。
完全に極まった関節技から抜け出すことは基本的に不可能だ――ただし、己の身体を破壊しないという前提があればの話だが。
自らの間接を強引に破壊し、腕を引きちぎることで拘束から抜け出した顕霊が残りの腕でこちらの首を鷲掴みにした。動脈が圧迫されて視界が白く濁る。
「お構いなし……かよッ!!」
マガジンリリースボタンを押して空の弾倉をキャッチすると、逆手に持ち替えて顕霊の眼窩に突き刺し、怯んだ隙に大腿骨へ足を掛けて膝蹴りで顎を打ち抜いた。首を絞める力が僅かに緩んだところで強引に腕を引き剥がし、後方へ大きく跳んで距離を取る。
正面では隻腕の顕霊が威嚇するようにカタカタと歯を鳴らし、視界の端で倒れていた顕霊が脚の再生を終えて立ち上がった。これで状況は三対一だ。
――いや。
後方の崖上から新たに現れた顕霊が砂埃を巻き上げて着地した。目の前の戦闘に気を取られて気付かなかったが、その他にも複数の劫波がこちらへ近づいていた。
続けざまの凶報に眩暈を覚えつつ、肺に溜まった熱を吐き出しながら弾倉を交換する。呼吸が荒い理由は首を絞められていたからだけではない。四肢は鉛のように重く、指先が微かに震えているのが分かる。極限状態による疲労とストレスが着実に身体を蝕んでいた。
じりじりと後退すると、踵が崖際を捉えた。しかし追い詰められた訳ではなく、あえてこの場所に移動したのだ。
士官を志したときから命を賭ける覚悟はできている。しかしそう易々と命を差し出すつもりなど毛頭ない。確かに利他的行動は美徳であり、美談ではあるかもしれないが、死んで花実が咲くものか。それは自分をここまで支えてくれた全ての人に対する裏切りに他ならない。
士官としての使命は人々を霊災から守ること、そして一人の人間としての使命は――生き延びることだ。そのための逃走経路は当初から想定している。
そろそろ潮時だ。
踵を返した瞬間、背後から暴風のような劫波が吹き荒んだ。
咄嗟に足を止めて振り返ると、こちらを遠巻きにしていた一体の顕霊がその身体を大きく歪ませていた。顕霊の胸部から溢れ出した泥の塊が巨大な心臓のように脈打ち、肋骨を内側から押し上げている。聖霊の活性化を示す膨大な劫波に加えて外見の変異。この兆候は――
――これは……高次化!?
生存本能に起因してごく稀に引き起こされる顕霊の突然変異――顕現強度の上昇現象だ。
顕現強度の上昇は即ち、相対脅威度の増加に他ならない。顕霊は内から湧き上がる膨大な力を押さえ込むように己の身体へ爪を立てながら大きく吼える。
このまま奴を野放しにするのはマズい。しかしこれは同時にチャンスでもある。高次化の瞬間は創因が不安定になりやすく、再生にも時間を要するため、この隙にダメージを与えれば強度の上昇を遅らせることができる。
しかし不安定ということは、同時にイレギュラーが発生し易いということでもある。何が起こるか分からないという観点から言えば、単純な危険度は通常よりも高いとさえ言える。
その上、仮に全て上手くいったとしても稼げる時間は数十分が関の山だ。そもそも時間だけで言ってしまえば、これまでの死闘で稼げたのも五分がせいぜいといったところだ。
そんな僅かな時間のために命を賭すのは不合理だと考える人もいるだろう。誰かに強制されている訳でもなく、自分がやらずとも他の誰かがやってくれるかもしれない。そもそも成果が保証されている訳でもなく、全てが徒労に終わる可能性も大いにある。
例えそうだとしても――
「それでも……ッ!!」
銃を右手に持ち替えて一歩踏み出しつつ、己を鼓舞するように呟く。
――その僅かな時間が誰かの生死を分けるならば、命を賭ける価値はある!!
地面を強く蹴って飛び出し、歪に膨れ上がった顕霊へ向かって一直線に突進する。左右から伸びてくる腕を紙一重で避けつつ引き金を引く。放たれた弾丸が肉叢を打ち抜くと、風穴から噴水のように泥が溢れ出した。彼我の距離を調整しつつ左腕を引き絞って半身に構えると、右足の裏で地面を抉り、突進の勢いを踏み込みへ変える。
「おッ……らァ!!」
全力の気合と共に放たれた左ストレートが顕霊の胸の穴へ吸い込まれると、腐肉の塊に触れたような不快な湿っぽさと生暖かさに鳥肌が立つ。
いや、不快感だけではない。泥を介して伝わってくる顕霊の脈動が生命を実感させて、恐怖や嫌悪感がより輪郭を帯びているのだ。
拳は手首と肘の中間辺りまで沈んでいるが、打撃そのものにダメージはない。視線を上げると、吐息が交じり合うほどの距離で二つの視線が交差した。
吐き気を噛み殺すように歯を強く食いしばり、顕霊の胸骨を蹴り飛ばすようにして拳を引き抜くと、泥に塗れた指先には銀色のピンが掛けられており、胸の穴から溢れ出した泥に混じって安全レバーが地面に落ちた。
素早く踵を返し、今度こそ崖へ向かって走り出す。逃走経路――と言うには少しばかり無謀だが、他と比べればいくらか生存率は高いだろう。数メートル先の崖際を見据えつつ、覚悟を決めてスピードを上げる。
最後の一歩を踏み切ろうとした瞬間、見えない壁に衝突するように急停止する。視線を下ろすと、顕霊の胸部から伸びた泥が触手ようにこちらの胴体を絡め取っていた。
驚愕する暇もなく左右から別の顕霊が襲い掛かる。無数の腕が四肢や首を掴むと、枯木のような指からは想像のつかない万力のような力で締め上げてくる。
しかしあえてその腕を振りほどくのではなく、身体を丸めるようにして顕霊の体を密着させることで、来るべき最大の脅威に対して精一杯の防御態勢を取る。
――二……一……零。
脳内のカウントダウンが零になると同時に、拳と共に顕霊の体内へ打ち込んだもうひとつの円筒缶――手榴弾が炸裂した。
全身を見えない拳で殴られたような衝撃が走り、皮膚が焼けてあらゆる骨や間接が軋みを上げる。視界が白く明滅すると、痛みが限界を超えたことで脳のリミッターが働いたのか、全身の感覚がどこか朧げになる。
限りなく無に等しい世界の中に曇天だけが広がっていた。心地の良い浮遊感に包まれて、自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からない。明滅する白の世界が徐々に黒く染まり、鈍色の空が遠ざかっていく。
咄嗟に手を伸ばすが、空は指の隙間をすり抜けると――そのまま黒の世界へ落ちていった。