八話 顕現
盛夏の湿気にじっとりと滲む汗を拭い、雑木を掻き分けながら道無き道を進んでいると、やがて僅かに開けた場所に出た。
足を止めて梢の隙間から覗く曇天を見上げると、雲の切れ間から淡い光芒が差し込んでいた。どうやら調査開始時には真上にあった太陽も、今は大分傾きを見せているらしい。腕時計を見ると、調査を開始してからおそよ一時間が経過しようとしていた。
制服から端末を取り出して地図を開くと、端末に内蔵されたGPSの位置情報と方角を照らし合わせて進行方向のズレを調整しながら再度歩みを進めてゆく。
すると、程なくして遠方から水音が聞こえてきた。確か養老渓谷は滝の名所でもあり、滝めぐりのコースなどもあったはずだ。こんな暑い日に、渓流のせせらぎに耳を傾けつつ石畳の遊歩道を散歩できたならさぞ心地の良いことだろう。
――いかんいかん。
頭を振って思考を引き戻す。今のところ異変は確認されていないが油断は禁物だ。改めて気を引き締めると、周囲へ意識を向ける。
現在、先生とは五分以内に合流できる距離を保ちつつ別行動を取っている。任務前は第十一エリアを狭いと評したが、実際は二人で割ったとしても一人あたりの移動距離はちょっとしたハイキングコース程もあった。
「……この辺りか」
そう独り言ちて現在位置を確認する。端末に表示された第十一エリアには複数の赤いポイントとそれを中心として描かれた円が存在している。この円は右眼の感知範囲をゾーンとして設定したものであり、赤いポイントは円の範囲が隙間無くエリアを埋め尽くすように計算して配置した調査地点だ。
エリア全域を完全に踏破するのは時間的にも厳しいため、こうして調査地点を渡り歩くことで効率的に調査を進めていくのだ。現在位置が調査地点と合致していることを確認してから端末を仕舞うと、目を伏せて深く息を吸い、意識を集中して脳内の〝観想体〟を活性化させる。
かつて異種の原核生物が細胞内に共生することでミトコンドリアや葉緑体といった細胞小器官が発生したように、ヨナと共生することによって人類は新たな器官――〝観想体〟を得た。
ヨナと適合した細胞の名は――〝ミラーニューロン〟。
人や猿などの脳内に存在し、共感能力を司ると考えられている神経細胞だ。
ミラーニューロンはその特徴として、自らが行動するときと他者の行動を観察しているときの両方の状態で活動電位を発生させるというものがある。即ち、他者の行動を我がことのように脳内で写し取るという、まさに鏡のような反応をすることからこの名前が付けられた。
聖霊と祖を同じくする観想体はつまるところ聖霊とは別の道を辿ったヨナの進化形態であり、その特性は人が生存する上で必要不可欠な役割を担っている。
観想体の特性、それは――〝脳波と劫波の相互変換〟だ。
かつてヨナに感染した者はミームを捕食されることで植物状態となり、そのまま目覚めることはなかった。これが俗に言う乖魂病の症状だ。
当然ながらヨナの進化形態である聖霊も強力なミーム捕食能力を持ち合わせており、そんな聖霊にもれなく感染している現代の人類が乖魂病による死の転帰を回避できているのは、他でもない観想体の働きによるものだ。
人は観想体によって無意識に脳波を劫波へと変換し、体内聖霊の活動を制御することで乖魂病の進行を極限まで遅らせている。つまりあらゆる人類は聖霊に感染し乖魂病を発症しているが、観想体によってその進行を寿命より遅らせることで死の転帰を回避しているのだ。
応用方法は多々あれど、乖魂病の進行を遅らせることが〝脳波を劫波へ変換〟する機能が担う最も重要な役割と言えるだろう。
しかし観想体が有する機能はそれだけではない。前述したように、観想体の特性は相互変換――即ち〝劫波を電気信号へ変換〟することも可能ということだ。
自分が今やろうとしている劫波の調査はまさにその特性を利用したものだ。
深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら、灰色の瞳を開く。
脳内の観想体と右眼の観想終末細胞を〝霊脈〟を介して接続すると、漆黒の世界に漂う劫波がより鮮明に浮かび上がってきた。
霊脈とは劫波を介して連結された複数の聖霊によって構築されるシグナル伝達機構だ。全ての人間は体内に霊脈を持っており、観想体によって接続された脳と霊脈を併せて〝観想領域〟と呼称する。
観想領域と空間に漂う数多の聖霊によって構築される世界最大の霊脈――〝地脈〟を接続することによって周囲の聖霊の活動を感知することができるのだ。
目を凝らすと波打ち際から見渡す広大な海原のように大小様々な劫波が確認できた。そのまま注意深く周囲を見回していると、ふとひとつの方角に目が留まった。
距離は遠いが、明らかに不自然な劫波が確認できる。劫波の強さからおおよその距離を予測し、地図と照らし合わせてみるが、発生予測地点は何もない森の中だ。
怪訝に思い通信機へ指を添えて口を開く。
「――先生」
「ん? どしたの?」
「北北西の方角に劫波を確認した。距離はおよそ五百メートル。波長のパターンからして、恐らく人間だ」
空中を漂う聖霊の波長が漣のように穏やかなものであるのに対して、人間が発する波長は波濤のように力強いため、それらを見分けるのは比較的容易だ。
「……人? こんなところに?」
「他の部隊とかち合ったか、それとも道に迷った民間人か? どっちにしろ確認しに行ったほうがいいよな?」
「……そうね。こっちも一応本部に連絡しておくわ。もしかしたら関所に迷い人の情報が入ってるかもしれないし」
「了解」
そう言って通信を切る。幾許かの疑問はあるが確認すれば済む話だろうと思い、大した警戒もせずに移動を開始する。しかし程なくして微かな違和感を覚えた。
劫波の発生源に近づくにつれて思考に霞がかかるような奇妙な感覚に襲われる。しかし思考の淀みに反して足取りは冴える一方であり、まるで何かに引き寄せられるように無心で歩みを進めてゆく。
そのまましばらく進み、違和感を覚えていた思考もすっかり霞に飲み込まれた頃、道を遮っていた雑木が急に途切れ、ぽっかりと開けた場所に出た。
木漏れ日に照らされた広間の中央で、ひとつの人影がこちらに背を向けて佇んでいる。薄緑色の患者衣から伸びる四肢は小枝のように細く、肌は病的なまでに白く透き通っている。そして肌に負けず劣らずの白さを持った長髪は地面に付くほど伸びており、それらの隙間から見え隠れする素足は泥に塗れていた。
しかしそんな光景を異様だと判断できるほどの思考力が自分には残されていなかった。脳の痺れは脊髄を通って全身に行き渡り、思考は真っ白に塗り潰されている。
「……あ……? あ……お…………?」
口から壊れたラジオのような音を漏らしながら、操り人形のような足取りで人影へ引き寄せられていく。
「――タ――ミ――!! ――し――い!!」
耳元から誰かの叫び声が聞こえるが、そんなものはどうでもいい。思考を塗りつぶした白色は現実をも侵食し、人影以外の全てを飲み込んだ。純白の世界に佇む背中へ縋るように手を伸ばしながら口から音を零す。
「……あ……ア……お…………」
音に反応するように、人影がゆっくりとこちらを振り返った。
「……アタミ? どうしたの?」
その声に目を開くと、アートが首を傾げて艶やかな金髪を頬へ流しながら不思議そうにこちらの顔を覗き込んでいた。
「……え? あれ? なん……で……? ここは……?」
状況が飲み込めずに支離滅裂な言葉が口を衝いて出る。
「……アタミ、まだ寝ぼけているの? ここは私達の家のお庭でしょう? そろそろお昼よ、もう目は覚めた?」
そんな自分の様子にアートは眉をひそめると、呆れ顔を浮かべてそう言った。春一番がアートの金髪と純白のワンピースを揺らすと、彼女は帽子が飛ばされないように慌てて自分の頭を押さえた。その光景を見た途端、哀歓の想いが胸の奥から溢れ返り目頭が熱くなる。
「ああ……そっか……。そう……だよね」
零れ落ちそうな涙を飲み込むと、やっとのことでそう呟いた。
「そうよ。まったく、男の子なんだからしっかりしてよね」
眉を吊り上げながら頬を膨らませていたアートが、ふうっと息を吐いて向日葵のような笑みを浮かべると、紅葉のように小さく、仄かな熱を帯びた両手でこちらの手を包んだ。
「ほら、はやく行こう? お義父さんが待ってるよ」
彼女の背後には教会と、それに隣接するように建てられた我が家が見えた。扉の前では義父が柔和な笑みを浮かべながら自分達の帰りを待っている。
「……うん」
ぎこちない頷きを返して、手を引かれるままアートの後に付いて行く。
「――――!!」
不意にどこからか音が聞こえて思わず足を止める。
「……アタミ? どうしたの?」
急に立ち止まったこちらをアートが怪訝そうな表情で窺う。何故だろうか。これ以上ない幸せを噛み締めている筈なのに、胸の奥底で形容し難い不安が渦巻いている。
「……帰らないと」
知らず零れ落ちたその言葉に、自分でも困惑する。
「……どこに? 私たちの家はここでしょう?」
アートもひどく困惑した様子でこちらの両手を握り締めながらそう言った。
「……分からない。分からないけど……」
「嫌だよ……アタミ。置いていかないでよ。もう……私を独りにしないで」
アートが目尻に涙を浮かべて嗚咽交じりにそう呟く。その言葉に胸が強く締め付けられる。
「僕も……俺も一緒に居たいよ。家族だから、大好きだから、ずっと一緒に居たい。でも……これは、違う。これじゃあ……駄目なんだ」
痛いほど強く繋がれたアートの両手をできる限り優しく解いてゆく。
「ごめん……アート」
張り裂けそうな想いを胸に秘めたまま震える声でそう呟くと、今にも零れ落ちそうな涙を堪えるために両目を強く閉じて、後ろに大きく一歩下がる。
指先に触れていた仄かな熱が消えた瞬間――
「――目ェ覚ましなさい!! アタミ!!」
張り詰めた声と共に、頬に激痛が走る。まどろみから目覚めると、視界は漆黒に塗りつぶされていており、僅かに覗く隙間から切迫した表情の先生が見えた。
「先生……?」
「……戻って……来たみたいね……。寝起きのところ悪いけどッ……ちょっと手ェ貸してもらえるかしら?」
額に冷や汗を浮かべながらそう言った先生は、全身を黒色の触手のようなものに絡め取られていた。事態の異常に気付いたことで意識が急激に覚醒する。
「なッ――!?」
咄嗟に手を伸ばそうとするが、どうやら自分も先生と似たり寄ったりの状況らしい。身体はまるで巨大な蛇に巻き付かれたように締め上げられており、僅かに動かすのが精一杯だ。
見れば先程まで何も無かったはずの地面は黒色の泥で埋め尽くされており、そこから生えた二本の触手が自分達を拘束していた。触手の先端は多叉路のように裂けており、見方によっては腕のようにも見える。
先生も必死の形相でもがいているが、触手は玩具でも扱うかのようにその身体を吊るし上げており、右足だけが辛うじて宙に浮いている状態だった。恐らくあれで自分の頬を蹴り飛ばしたのだろう。
不幸中の幸いにも、自身の置かれている状況はすぐに理解できた。
この黒い触手は――顕霊だ。
つまり自分は聖霊の異常活性化――因子発現の瞬間に遭遇してしまったのだ。
聖霊の異常活性化には膨大な劫波が伴う。そして劫波とは即ち情報だ。つまり先程まで自分が見聞きしていたものは全て、強力な劫波を受容したことによって引き起こされた幻覚作用だったのだろう。
幻覚と言っても通常であれば特殊な光が見える程度であり、トランス状態にまで陥ることは稀とされているが、それにも拘らず自分がそうなった原因はこの右眼にある。
劫波が強力だったというのも当然あるが、この右眼は観想後終末細胞を多く有するため、劫波に対する感受性が非常に強いのだ。そのため右眼から受容した膨大な劫波を脳が処理し切れず、エラーを引き起こしたのだろう。
感受性の強さが裏目に出たと言えば聞こえは良いが、しかしそれは言い訳にすぎない。思い返せば全ては自分の油断が生み出した結果であり、いくらでも回避する方法はあったはずだ。
己の不甲斐なさに忸怩たる思いに駆られるが、しかし反省も後悔もしている暇はない。今は一刻も早く現状を打開する術を見つけなければならない。さもなくば自分達はこの顕霊に捕食されるのだから。
異常活性化した聖霊は自己の安定化のために、より多角的な情報を求めて周囲のミームを無差別に捕食する性質を持つ。
捕獲方法は個体によって異なるが、高い顕現強度を有するものであれば、先程自分がそうして捕らえられたように、強力な劫波を用いて他者の精神をコントロールし、誘蛾灯のように捕食対象を呼び寄せることも可能だ。
その中でも最も多くの聖霊に共通する捕食方法が、この触手のような〝因子発現〟だ。
あらゆる聖霊は模倣を組成する三つの機能を有しており、それぞれが伝達・記憶・実現を司る。この中でも伝達を司るものが〝劫波〟であるのに対して、記憶と実現を司るものはそれぞれ〝潜体〟と〝創因〟と呼ばれている。
潜体は聖霊が吸収した模倣子を符号化し記憶する役割を持つ機関であり、創因は潜体から転写された〝顕性因子〟を活性中心として聖霊の分子構造を作り変える機関である。
劫波による伝達。
潜体による記憶。
創因による実現。
これら三つの機能によって成される変異現象を因子発現と呼び、異常活性化した聖霊はこの現象をもって捕食に最も適した姿を模倣する。
その結果として顕現するのが、聖霊の捕食形態――顕霊だ。
聖霊が模倣する対象は、潜体に記憶された模倣子の中で最も高等とされている存在だ。それは太古より崇拝され、同時に畏怖され続けてきたもの――即ち〝譚〟だ。
正確には神話をはじめとする伝説や伝承に登場する人知を越えた存在――神や天使、霊獣や妖怪のような異形だけでなく、神をも殺す英雄や万象を操る魔術師、果ては異能を宿した武具や薬など、その姿は語り部の数だけ存在しており、それらの譚を再構築するための顕性因子、即ち事象の設計図を〝秘譚子〟と呼ぶ。
つまりこの触手も何らかの譚を模倣している筈であり、原話を特定することが出来ればそこから何らかの対策を見出すことが可能かもしれないが、この外観だけでは情報が少なすぎるためそれも難しそうだ。
右手をホルスターへ伸ばすが、あと一歩のところで届かない。今のところ顕霊から殺意のようなものは感じられないが、それも時間の問題だろう。
発現したばかりの顕霊は因子が不安定であるため行動理念が確定せず、一種の錯乱状態に陥ることがあるのだ。自分達は今、赤子が初めて見る玩具を弄ぶような純粋な好奇心によって生かされているにすぎない。
――だとすれば。
銃を諦めて左手を制服の内側へ伸ばすと、指先がポーチに触れた。
この顕霊が知的好奇心を行動原理としているのだとすれば、新たな情報を落としてやればそちらに意識を逸らすことが可能かもしれない、
間接が軋む痛みに歯を食いしばりながらポーチの留め金を外すと、手中に冷たい円筒缶が落ちてきた。円筒缶に付いているレバーを引き絞りつつ、人差し指でピンを引き抜く。
「先生!」
先生はそれだけでこちらの意図を察し、両目を瞑って口を大きく開けた。手首のスナップを利用して円筒缶を放りながら、先生と同じように両目を瞑って口を開ける。
未知の物体を確認した触手が円筒缶を空中で掴み、包み込むように纏わり付く。
その直後、鼓膜を破らんばかりの爆音を立てながら触手が内側から破裂した。漆黒の肉片と共に二百万カンデラの閃光が周囲へ撒き散らされる。
スタングレネードが放った爆音は鼓膜を震わせ、閃光は瞼の上から両目を焼いたが、その甲斐あって顕霊の注意を逸らすことができたらしく、右手の拘束が僅かに緩むのを感じた。咄嗟にホルスターから銃を抜き取り、先生を拘束している触手へ狙いを定めて引き金を引く。
銃声が響き渡り、計八箇所に風穴を開けられた触手が千切れるようにして地面に落ちる。
「――アタミ!!」
拘束を解かれ地面に着地した先生がこちらへ手を差し伸べた。
親指で安全装置をかけながら銃を放り投げると、先生は空中でそれを掴み取り、流れるように安全装置を解除して引き金を引いた。六発の弾丸が触手を打ち抜き、拘束が解除される。
「逃げるわよ!!」
差し出された先生の手を取って立ち上がり、走り出そうとした瞬間、白髪の人影を思い出す。
「先生、待ってくれ! 誰か……誰か他に見なかったか?」
「他に? 見なかったけど……どういうこと?」
「俺がここに来たとき、人影を見たような気がするんだ」
「民間人が近くに居たっていうの?」
「分からない……クソッ! はっきり思い出せねぇ」
劫波過干渉のせいか思考は未だに霞がかり、言動は理路整然とせず、自分の記憶すら曖昧で信用できない。生家の幻覚のように、あの人影も幻覚の一部だったのだろうか。
「人為霊災……じゃねぇよな?」
十分な距離を取りつつ顕霊へ視線を戻すと、触手はのたうつように蠢き続けるだけで、こちらを追いかけてくる様子はない。その姿を見つめていると右眼の奥に微かな疼きが走る。
人為霊災とは、体内聖霊の暴走によって引き起こされる人災のことだ。
発生の原因としては肉体の損傷や心的外傷などが挙げられている。十年前の事件の夜に、自分がそうして引き起こしてしまったように。
「……分からないわ。仮にそうだとしても、今の私達にそれを止めることはできない――」
先生はきっぱりとそう言い切ると、唇を引き結びながら銃をこちらへ差し出した。
「――それでもやれることは他にあるわ」
「そう……だよな」
燈燕から銃を受け取り、弾倉を交換してスライドをリリースすると、後ろ髪を引かれながらもその場を後にする。
「すまねぇ、先生……俺の見通しが甘かった」
「お互い様よ。それより今はこの状況をどうにかしないと」
「……ああ。霊災の状況はどうなってるんだ?」
「本部によれば最初に計測された劫波はフェーズ三相当だそうだけど、この調子だとどこまで上がるか……。今は避難警報が再発令されて防衛部隊がこちらへ向かっているから、当初の予定通り、できるだけ交戦は避けながら関所へ向かうわよ」
「了解――ッ!?」
そう言い終えた瞬間、右眼が異常を感知して咄嗟に足を止める。燈燕も同じものを捉えたらしく、足を止めて眼前の虚空を凝視している。左眼には何の変哲も無い空間に見えるが、右眼にはその様子がはっきりと写されていた。
自分たちの数メートル前方、地上数メートルの虚空から膨大な劫波が溢れ出し、ひとつの生物のように渦巻いていた。
銃の安全装置を解除しつつ半歩下がる。
次の瞬間、劫波の渦が戻り爆風のように収縮すると、その中心から色が滲んだ。まるで空間に穿たれた穴から闇が零れ落ちるように、黒色の泥がどろりと地面へ流れ落ちていく。やがて一メートルほどの泥溜りを作ると、その中心で何かが蠢いた。ボコボコと気泡を浮かべながら泥溜りの中央がせり上がっていく。
炸裂音と共に山形の泥が弾けると、その中から泥とは対照的な白色の物体が現れた。
それは――骨の腕だった。
天を求めるように高く掲げられていた腕がぎりぎりと音を立てて曲げられると、泥を撒き散らしながら掌を地面に叩きつける。指先が泥を掻き、まるで底なし沼から這い上がるように何かが引き上げられてゆく。
「ォォォォォォォォ…………」
地獄から蘇る死者の如く、泥を纏う骸骨が怨声を響かせながらその姿を現した。
「群体種……!?」
群体種とは増殖能力を有する顕霊の分類だ。群体種はその特徴として複数の個体でありながら劫波による不可視のネットワークで繋がれており、非常に統率の取れた、ある種の超個体的な動きを見せるため、顕霊の中でも対処が困難とされている種類だ。
眼前の顕霊は恐らくレベル一。単体の戦闘力はそれほど高くないが束になれば話は別だ。
顕霊のレベルは顕現強度の高さを表しており、フェーズ三の霊災とは即ち、レベル三の顕霊が顕現し得る規模であるということだ。
狼狽している間にも自分達の後方で新たに二体の顕霊が顕現した。
「いちいち相手にしてる余裕なんてないわよ!」
顕霊を迂回するように走り出した先生の後を追う。
「アタミ、どれくらいいる?」
浅く息を切らせた先生が通信機へ指を添えながら神妙な面持ちでそう呟いた。右眼へ意識を集中させながら全方位へ向けて感覚を研ぎ澄ます。
「なんっ……だ……これ……」
目を凝らすと、先程と同じような〝聖霊の活性点〟が至る所に散在しているのが見えた。そしてその数は――
「……十や二十じゃきかねぇぞ。しかもコイツら、まだ増え続けてやがる」
「……まずいわね」
先生はそう言って通信を切ると、進行方向を変えながら言葉を続ける。
「本部によると顕霊の顕現予想範囲にはまだ大勢の民間人が取り残されているそうよ。そこで防衛隊が因子の鎮静化に当たり、調査隊はこのまま民間人の救助および避難誘導に当たることになったわ」
「了解」
本部の決定に異論はない。短く言葉を返して速度を上げる。顕霊との交戦を避けるため、劫波の波間を縫うようにして大通りを目指していると、うねる大波のような劫波の中に微かな違和感を覚えた。
「――先生! こっちだ!」
そう言って説明もなしに進行方向を変えて全力疾走する。先生も事情を察して何も言わずにその後を追ってくれた。顕霊の劫波に紛れて分かり辛いが、今のは間違いなく人間の劫波だ。それはつまり、両者の劫波が重なり合うほど接近しているということに他ならない。
遊歩道を外れて枝葉を掻き分けながら獣道を進んだところで一体の顕霊を視界に捉えた。暗い眼窩が見下ろす先にはひとりの老婦が腰を抜かして声も出せずにいる。
「先生、援護する!」
そう叫んで急停止しながら顕霊へ照準を合わせると、先生が自分を追い越して顕霊へ突進していく。顕霊と老婦の距離は三メートルを切っている。しかし焦りは禁物だ。
迅速に、そして正確に。
深く息を吸い――止める。
何万回も繰り返すことで刻み込まれた経験が無意識に身体を制御し、引き金を引いた。ダブルタップによって放たれた二発の弾丸が顕霊の側頭部を撃ち抜く。
湿った木が折れるような音が響いて上半身を大きく仰け反らせるが、寸でのところで持ち堪えると、間接の可動域を無視するような角度でこちらを振り返った。
しかし顕霊の視界には何も映らなかったことだろう。正確には、先生の靴底で覆われていた筈だ。全速力の勢いのまま繰り出した先生の飛び蹴りは顕霊の下顎骨を砕き、地面を抉りながら五メートルほど吹っ飛んでいった。
生身の人間であればこれで再起不能になるだろうが、顕霊にとっては大したダメージにもならないだろう。しかし、時間は稼げるはずだ。急いでへ駆けつけると、老婦は真っ青な顔で震えながら独り言ちている。
「わ、私……お友達とハイキングしていたら、突然襲われて……。そしたら……近くにいた女の子が逃がしてくれて……でも途中で皆とはぐれちゃって……私、どうしたらいいか分からなくて……」
老婦はなおも虚ろな目で言葉を続けており、一種の錯乱状態にあるようだ。しかしこんな異常事態なのだから無理もない。気絶しなかっただけでも天晴れだ。先生はそんな老婦の前に屈んで震える両手を優しく包み込むと、
「おばちゃん、もう大丈夫だよ」
そう言って大きく笑顔を浮かべた。老婦は涙を溜めた瞳を大きく見開くと、ほっと息を吐いて何度も頷いた。顔に血色が戻り、震えが徐々に治まっていく。
「おばちゃん、結構揺れるからしっかり掴まっててね」
先生はそう言って老婦を背負うと、こちらを振り返りながら言葉を続ける。
「私はこの方を関所まで避難させる。アタミはこのまま他の救助をお願い」
幸いにも顕霊の活性率はまだ低いらしく、敏捷性もそれほど高くはない。この程度であれば人ひとりを抱えていても逃げ切れるだろう。勿論この選択が最適解である保証はない。しかし緊急事態についてはこれまで何度も訓練とシミュレーションを行っている。一瞬の判断の遅れが犠牲に直結する現状で、これ以上言葉を交わしている暇はない。
「ああ、分かった」
頷きを返し、関所へ向かう燈燕に背を向けて走り出す。