七話 調査準備
蹄と車輪の音に耳を傾けながら心地よい揺れに身を委ねる。車窓へ目を向けると、祭りにも似た喧騒が牧歌的な風景と共に後方へ流れていく。
安房分室から関所までの道のりは、馬車に乗って舗装された大通りを北へ進むだけという極めて単純なものだ。しかし安房・上総間の物流の多くはこの道を以って行われるため、いつ来ても人々の往来は激しい。
「物々しいわね」
その声へ目を向けると、隣の席に座っていた先生が窓枠に肘をかけながら物憂げな表情を浮かべていた。
「そうだな」
そう返しながら、再び外の景色に意識を向ける。物々しい雰囲気は先程から自分も薄々と感じていた。原因は、馬車の横を度々通り過ぎてゆく輸送車両だ。艶消しの濃緑色に塗装された鉄板のような外装には六花の紋章が刻印されている。
霊災に伴う版図の減少と化石燃料の高騰によって民間における自動車の需要が減り、代わりに台頭したのが馬車だった。そういった理由から、現代において自動車は比較的珍しい移動手段だが、前有史時代後期にはメジャーだったらしい。
輸送車両のような大型車が用いられるのは、今回のように多くの人員が駆り出される場合に限られており、それは即ち作戦の規模の大きさを表している。
そして彼らの目的地は恐らく自分たちと同じだろう。微かな緊張感を覚えながら馬車に揺られていると、車窓から見える風景の中に遠く聳え立つ壁が現れた。房総半島を横断するほど巨大な壁の正体は、安房がまだ城郭都市だった頃に建設された城壁の名残であり、現在では関所として再利用されている。
かつて青ヶ島で目覚めた人々は海を渡って安房へ上陸し、そこに環濠集落を築いて生活の基盤とした。そして時代と共に環濠集落は城郭都市へと発展し、房総半島を北へ押し上げるように版図を広げてきたとされている。
城壁は幾度の修繕を経て今も尚儼乎たる風格を漂わせているが、防壁として機能しているとは言い難い。しかしそれは悪いことではなく、むしろ上総が平和であることの傍証だ。
かつては閉鎖区域だった上総の霊勢も先人の尽力によって安定し、今では連盟の関係者だけではなく、多くの一般企業や居住者が進出する第二の都市として発展している。
関所の門前へ到着する頃には、壁は見上げるほどの高さになっていた。無骨で堅牢な石造りの壁には一定の間隔で望楼が設置されており、駐在の防衛官が周囲へ目を光らせている。
「俺、望楼に人が居るとこ初めて見たんだけど、あれって機能してんのか?」
何気なく口をついた疑問に、先生は腰へ手を当てながら望楼を見上げると、
「避難勧告の件について商工会からの問い合わせが殺到してるらしいからね。警戒態勢を取っているっていうパフォーマンスが必要なんでしょう。まあ、意味はあっても効果があるとは思えないけどね」
そう言って小さく肩をすくめながら駐屯所へ歩き出した。近くにいた駐在防衛官に事情を説明すると、簡単な身分証明の後に応接室へ通される。
「作戦内容の通達があるまでこの部屋でお待ち下さい」
防衛官はそう告げると早々に部屋を後にした。案内してくれた防衛官もそうだが、ここまで来る間にすれ違った職員達の間にもどこかひりつくような緊張感が走っていた。現場特有の雰囲気に呑まれたのか、気持ちが高ぶってどうにも落ち着かない。
「なにソワソワしてんのよ?」
「……先生はリラックスしすぎだろ」
少し目を離した隙に来賓用のソファーに腰をかけて茶菓子をつまんでいた先生に対して、溜息混じりにそう答える。
「これから犬塚隊長の指揮下で任務に当たろうっていうんだぞ。緊張もするっつーの」
「なーんで最近の若い子達は里見八犬士だの円卓の騎士だのを神格化したがるのかしら」
「別に神格化じゃなくて単純な畏敬の念だよ。俺らの世代からすれば犬塚隊長なんて教科書に載ってる偉人たちと同じようなもんだからな」
「そんなもんかしらねえ。それに指揮下と言っても、私達なんか下っ端の下っ端。お目にかかれるかどうかも怪しいわよ?」
「――そうでもないぞ」
その瞬間、背後から飛び込んできた第三者の声に振り返ると、いつの間にか入り口に立っていた初老の男性が、開けっ放しの扉をノックしていた。
「ぐげっ……」
その人物に気付いた瞬間、先生が潰れた蛙のような声を上げた。
「……犬塚さん」
「面白い態度だな、燧。私に会えてそんなに嬉しいか?」
犬塚隊長は固まった先生を一瞥すると「失礼する」と言って部屋へ足を踏み入れた。先生が揉み手に愛想笑いを浮かべながら口を開く。
「あはは……お久しぶりです、犬塚さん。どうしてこちらに?」
「なに、かつての弟子が来ていると小耳に挟んだのでな。少しばかり旧交を温めようと思ったまでだ。あと、その気持ちの悪い手を止めろ」
犬塚隊長は呆れ顔でそう言うと、呆気に取られていたこちらを振り返った。その抜き身の刃のような鋭い眼光に知らず背筋が伸びる。
「お、お初にお目にかかります、犬塚隊長。今回の調査へ参加させて頂くことになりました、アタミ・ヴィリヤカイネンです」
「犬塚秋霖だ」
古木のように節くれだった手が差し出され、慌てて握り返す。
和装ベースの制服に包まれた身体は細身ながらもしなやかな強靭さを持ち合わせており、血色の良い肌や海のように深い光を湛えた瞳からは、溢れんばかりの生命力を感じる。しかし最も目を引いたのは、その腰元に佩用された得物だ。
漆塗りの鞘や丁寧に巻き上げられた柄糸、磨き上げられた鍔に添えられた薄羽のような切羽など、意匠が凝らされた拵えだけでも十分な存在感を放つそれは、稀代の名刀にして無双の譚器――「村雨」だ。
村雨が目を引いた理由は絢爛な外装や名声だけではなく、鞘に収められた刀身深くから仄かに湧き上がる劫波にあった。
自分が装備するUSPのような物質は原則的に聖霊を持たないため、劫波を発することはない。しかし村雨のような物質と聖霊の中間の存在にあたる譚器は適合者と共鳴することで、このように劫波を発生させるのだ。
失礼と分かっていても、ついまじまじとその様子を見つめてしまった。そんな好奇の目には慣れっこなのか、犬塚隊長は特に気にした様子もなく柔和な笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「君の話は燧から聞いている。以前から挨拶に伺おうと思ってはいたのだが、何かと都合が合わなくてな。会えるのを楽しみにしていた」
「恐縮です。こちらこそ、お会いできて光栄です」
自分でも緊張で言葉の端が固くなっていることが分かる。犬塚隊長の指揮下に入るのなら姿を見かける機会くらいはあると思っていたが、まさかこうして直接言葉を交わすことになるとは予想だにしていなかった。
そんなこちらの様子を窺っていた犬塚隊長が頤に手を当てると、
「……燧の教え子にしては礼節をわきまえているな」
本音とも冗談とも取れないことを言った。すると先生は冗談を聞いたおばちゃんのように笑いながら小さく手を振ると、
「嫌だなあ、それじゃあまるで私が問題児みたいじゃないですか」
こっちはこっちで本気なのか冗談なのか分からないようなことを言った。
「……相変わらずのようだな、お前は」
犬塚隊長はそう言って小さく嘆息すると、こちらへ向き直って言葉を続けた。
「燧の下で働くのはさぞ苦労するだろう。不肖の弟子が迷惑をかけていないか?」
非常に返答に困る質問を投げかけられて、苦笑いを浮かべながら縋るように視線を向けると、先生は満面の笑みでウィンクを飛ばしてきた。その目配せの意図は全く理解できなかったが、どうせ犬塚隊長の前で嘘をつけるほど肝も太くないので、本音で答えることにした。
「……仰るとおり日々の苦労は枚挙に暇がありませんが、それでも浅学非才の身である自分がこうして情報官として働けるのは、ひとえに先せ――燧隊長のおかげに他なりません」
「……そうか」
犬塚隊長は感慨深げにぽつりと呟くと、
「どうやら、蛙の子が蛙に成るとは限らないようだな」
浅く目を伏せて笑みを深めながらそう言葉を続けた。そんな等閑視にも恬としていた先生が唐突に小さく声を上げると、犬塚隊長へ向けて言葉を続けた。
「そう言えば子で思い出したんですけど、さっき安房で娘さんを見かけましたよ」
予想だにしない先生の言葉に瞠目する。犬塚隊長も少なからず意外だった様子で、浅く眉を持ち上げながら口を開いた。
「ほう、娘に?」
「すれ違っただけで、挨拶はしませんでしたけどね。あっちも気付いた様子はありませんでしたし」
そう言われると自分にも心当たりがあった。恐らくインゲル・ベーカリーの帰りにすれ違った女性のことだろう。しかしまさか彼女が犬塚隊長の娘だったとは思いもよらなかった。
「確かロシアに留学してたんですよね。里帰りですか?」
「うむ、折を見て改めて紹介しよう。しかし、よく娘だと分かったな。最後に会ったのはもう随分と昔のことだろう?」
「そりゃあ会うたびに写真見せて惚気られたら嫌でも覚えますって」
「……部下の前であまりそういうことを言うな」
そう言って体裁を保とうとする姿はどこにでもいる好々爺といった様子で、英雄と言えどもひとりの人間なのだということを思い出す。
「そう言えば今日は七夕――娘さんの誕生日でしたよね。もしかして、今日もホントは休暇だったんじゃあないですか?」
「ああ、よく覚えていたな」
「犬塚さんってば普段はワーカホリック気味なのに、七夕の日だけは毎年ちゃっかり休暇取ってましたからね」
「その言い方は色々と語弊があるが……まあ、今回ばかりは無理だったな。この忙しい時期だから、元から無茶な申請だとは自覚していたが」
犬塚隊長はそう言うと、腕を組んで嘆息した。
「それは……残念でしたね」
「仕方のないことだ。それに娘ももう子供ではないからな、事情は分かってくれるだろう。埋め合わせは後で考えるとして、今は任務に集中するとしよう」
犬塚隊長が腕を解きながらそう言った直後、応接室の入り口にひとつの人影が現れた。
「失礼します。お待たせして申し訳ありません」
そう言って小さく会釈をしながら部屋へ這入ってきたのは、艶やかな長髪をバレッタで纏め上げた妙齢の女性だった。切れ長の瞳から漂う怜悧な雰囲気を飾り気のないオーバル型の眼鏡が助長している。
「お、やっほーレイちゃん。ひっさしぶり」
「お久しぶりです、燧情報官。ですがその呼び方はお止め下さいと再三申し上げた筈ですが」
「えー、呼びやすいからいいじゃん」
「私にも立場というものがありますので、せめて仕事中は名前でお呼び下さい」
「へいへい」
口を尖らせた先生を尻目に女性はこちらへ視線を向けると、会釈をしてから改めて口を開いた。
「アタミ・ヴィリヤカイネン情報官ですね。初めまして。私は参謀官の黒峰・麗子と申します。此度は多忙の総長に代わって任務内容の通達に参りました」
慌てて深く礼をしながら挨拶を返すと、後ろから先生が口を挟んできた。
「麗子は相変わらず総長の代わりにあちこち飛び回ってるのね」
「これが私の役目ですので」
そう言って眼鏡のブリッジを浅く持ち上げる黒峰参謀官は先生より若く見えるにも関わらず、言葉の節々から感じられる頼りがいは常人のそれとは段違いだ。その若さで伊達に参謀官に任命されているわけではない。
「早速ですが、作戦概要の説明に移らせて頂きます。まずはこちらの資料をご覧下さい」
黒峰参謀官が手元のタブレットを手早く操作すると、こちらの端末に着信が入った。送信された資料を表示すると、それは養老渓谷の詳細な地図だった。
「今回の任務は誘因調査になります」
誘因とは災害を引き起こすきっかけとなる外力を指す言葉であり、霊災における誘因とは例えば今回のような異常劫波を指している。
「今回は混成部隊ですので、皆様の能力を踏まえた上で隊内連携の取りやすい少人数に小分けをして、それぞれに調査エリアを割り振りました」
そう言って黒峰参謀官がタブレットを操作すると、手元の地図が赤のラインで細かく区分けされてゆき、それぞれのエリア中央部に数字が浮かんできた。最も大きい数字を見るに、全部で三十二のエリアに分けられているようだ。
「お二方に調査を担当して頂くのは、第十一エリアになります」
改めて地図へ目を落として数字の十一を探す。しかしそれはすぐには見つからなかった。その理由は、第十一エリアの範囲が他と比べて非常に狭いからだった。
考えてみれば自分と先生の二人しかいない部隊なのだから当然といえば当然なのだが、役に立てているか不安になるような、何とも言い難いやるせない気持ちに襲われる。そんな自分の感情を知ってか知らずか、黒峰参謀官は淡々と言葉を続ける。
「このエリアは手付かずの自然が多く、地形の高低差や背の高い雑木などによって特に見晴らしが悪くなっているため、通常の部隊での調査は困難だと判断しました」
「なるほど、そこでコイツの出番ってワケね」
先生が得心行ったようにそう言うと、こちらの肩に肘を乗せた。
「……ああ」
ワンテンポ遅れて先生の言葉の意味に気付き、自らの灰色の右眼に触れる。黒峰参謀官はひとつ頷いてから細長い指でブリッジを押し上げると、
「ヴィリヤカイネン情報官の眼についてはこちらも報告を受けております。知覚範囲の広い感知系の特異体質ならば、複雑なエリアの調査も効率的に進めることが可能でしょう」
こちらを真っ直ぐに見据えながらそう言った。
特異体質と言えば聞こえは良いが、その実は十年前の事件が原因で患った観想系異常症から併発した後天性遺伝子疾患だ。より簡単に説明するならば、霊災で壊れかけた身体を無理やり修復しようとして歪な形で復元されてしまったのが、この灰色の右眼だ。
その結果、右眼が本来持ち合わせていた視細胞は全て観想後終末細胞に変質している。
視細胞が光を受容することで感覚を発生させるのに対して、観想後終末細胞は劫波を受容することで感覚を発生させる。
つまりこの眼は光が見えない代わりに――劫波が見えるのだ。
「全部隊からの報告による対象区域の安全確保をもって任務を完了とします。制限時間は設けませんが、出来る限り迅速な遂行をよろしくお願い致します。緊急時には犬塚隊長率いる白驟雨がバックアップに当たりますので、お二人は報告を最優先として交戦は出来る限り控えるようにお願い致します」
黒峰参謀官は一息にそう言い終えると、小さく息を吸ってこちらを見回しながら言葉を続ける。
「参謀本部からの通達は以上です。何か質問等はございますか?」
こちらの首肯を確認すると、黒峰参謀官はタブレットを小脇に抱え直し、踵を合わせて姿勢を正した。
「それでは、これにて失礼いたします。皆様のご活躍を心よりお祈り申し上げます」
黒峰参謀官は折り目正しくそう告げると、浅く一礼して部屋を後にした。その後ろ姿を見送っていた先生が両手を腰に当てて小さく息を吐くと、
「それじゃ、私達も行きましょうか」
こちらを振り返りながらそう言った。頷きを返して犬塚隊長へ向き直り「失礼します」と言って一礼すると、犬塚隊長はひとつ頷いてから燈燕を一瞥し、こちらの肩に手を置いて言葉を続けた。
「……燧の指導役やっていた頃は今よりも血圧がずっと高かったものだ。理不尽に耐え切れなくなったらいつでも私のところに来るといい」
「ありがとうございます。肝に銘じておきます」
苦笑を浮かべながらそう返事をして、部屋を後にする。部屋を出て振り返ると先生が犬塚隊長に呼び止められていたので、盗み聞きをしないように廊下の少し離れた場所で燈燕を待つことにした。
「――燧」
アタミを追って部屋を出ようとしたところで犬塚さんに呼び止められる。
「何ですか? 説教ならまた今度にして下さいよ」
足を止めて振り返り、冗談交じりにそう言うと、
「……その台詞に対する説教は次会ったときにしてやろう」
犬塚さんは平静を装いつつも額に青筋を浮かべながらそう返した。そして大袈裟に溜息を吐くと、腕を組み直しながら言葉を続ける。
「八年前、総長がお前を教導部へ異動させると言ったとき、私は強く反対した。燧はまだ幼く人を導けるほどの器ではない、とな。……だが、それは見当違いだったようだ」
犬塚さんは遠い目をしてそう呟くと、アタミが出て行った廊下へ視線を向けた。
「一人の親として、彼を見ていれば分かる」
そう言ってこちらへ視線を戻すと、
「師の鑑とは言い難いが、お前なりによくやっているようで安心した。今後もお前はお前が信じる道を進んでいくといい」
初めて出会った時から変わらない、深い慈愛を湛えた瞳に笑みを浮かべてそう続けた。
「……やっぱり師匠には敵わないっスね」
今はこれが精一杯だが、いつかもう少しまともな恩返しができることを期待しながら、本心から湧き出る思いを笑みと共に返す。