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四話 少女の背中

「毎度あり、またいつでもいらっしゃいね」

 そう言ってアタミと燈燕を送り出すと、程なくして二人と入れ違うようにひとつの人影が店先で立ち止まった。

「いらっしゃい――あら?」

 気持ちを切り替えて新たな客のほうへ向き直ると、連盟の制服に身を包んだ少女がこちらへ微笑みかけていた。瞬時の特定こそできなかったものの、その柔和な表情に強烈な既視感を覚える。隣人や常連客でこそないが、そこには確かな見覚えがあった。

「お久しぶりです、おば様」

 既視感が輪郭を帯びると同時に、少女が小さく会釈をしながらそう言った。その鈴なりのような声に確信を得る。

「あらあらあら! ハルちゃんじゃない!」

 思わず身を乗り出しながら声をあげる。

「本当に久しぶりねぇ! まあ、しばらく見ない間に大きくなっちゃって……」

「おば様もお元気そうでなによりです」

 覚えられていたことに安心したのか、少女はさらに顔を綻ばせながらそう返した。

「うんうん、よく帰ってきたねぇ……ってことは、留学はもう終わったのかい?」

「はい。おかげさまで無事に期間を満了しました」

「そっかそっか、それはお疲れ様だったねえ。先に言ってくれれば何かお祝いを用意できたんだけど……」

「そんな、お気になさらないで下さい。お気持ちだけ有難く頂戴致します」

 少女は慌てた様子で小さく手を振りながら遠慮する。そんな様子もどこか懐かしくて、思わず笑みが零れた。

「そうだ! せっかくだから何か食べていかないかい? パンしかないけど、お祝い代わりにご馳走するよ」

「そんなご迷惑な――」

「いいのいいの」

 なおも遠慮する少女の言葉を笑顔で制しつつ店の中へ案内すると、少女はようやく折れた様子で笑みを深めながら小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、抹茶餡パンをひとつお願いします」

 メニューを見ることなくそう言った。どうやら初めから注文は決まっていたらしい。

「あらあら、大きくなっても好物は変わっていないみたいね」

 からかい混じりにそう言うと、少女は僅かに赤面した。

「テイクアウトする? それともここで食べていくかい?」

「食べていきます。久しぶりにおば様ともお話したいですし」

 少女はそう言ってイートインスペースへ向かっていった。

「あらあら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 そう言いながらショーケースから抹茶餡パンを取り出し、皿に乗せて少女の前に置く。

「はい、お待ちどおさま。飲み物は冷たい水と麦茶どっちがいい?」

「麦茶をお願いします」

「はいよ」

 厨房の冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出して青海波の装飾が施されたグラスへ注ぎ、ついでに自分の分も注いでからイートインスペースへ運ぶ。

「ここ、座ってもいいかい?」

 少女の前にグラスを置きながらそう尋ねると、少女は笑みを湛えたまま「もちろんです」と言って首肯した。対面の席へ腰掛けると、少女は折り目正しく手を合わせてからパンを一口サイズに千切って口へ運び始める。

 頬をほんのりと紅潮させながら租借する少女の姿は実に微笑ましいものだった。そんな姿を視界の端に収めながら麦茶を一口飲み、一呼吸置いてから話題を振る。

「それで、今日は里帰りかい? それにしては制服だけど」

「はい。ですがせっかくの機会でもありますので、今日は上総分室の見学をさせて頂いくことになっています」

「あらあら、それじゃあちょっと慌しい時期に重なっちゃったわねえ。ホラ、こっちは最近、方舟関係でバタバタしてるじゃない?」

「ええ、そのようですね。青色計画の件はロシアでも噂になっていましたよ」

「やっぱり外でもそうなんだねぇ。こっちはこっちで流言飛語が飛び交って、アタシには何が何やらって感じだよ。まあ、おかげで井戸端会議にゃ事欠かないけどね」

 冗談交じりにそう言うと、少女は僅かに目を伏せながら口を開いた。

「実際に壮大な計画ですから、俎上に載せられて然るべきだと思います。何せ連盟が創設されて今年で六十周年――その集大成とも言える青色計画の成否によって連盟の今後が大きく左右されることは間違いありませんから」

「六十年かぁ……私みたいなおばさんが産まれるより前からだなんて、途方もない話よね。まったく、連盟には足を向けて寝られないわ」

「確かに、この六十年の積み重ねが非常に価値あるものであることは間違いありません。ですが、盛者必衰という言葉もあります。連盟の支持率も年々減少傾向にありますし、今年は創設六十周年の記念祭も開かれますから、この節目に大きな成果を挙げておきたいというのが正直なところなのだと思います」

「へぇ、支持率がねぇ……連盟の悪い噂なんてほとんど聞かないから少し意外だわ」

「かつては宗教組織だった連盟も今では準軍事組織ですから、時代の流れとして当然と言えば当然なのかも知れません。それに文民が正しく批判する眼を持っているというのは、分権が基本の現代ではとても心強いことですよ」

「なるほどねぇ……アタシらも連盟におんぶに抱っこじゃ駄目ってことなのよね」

「災害において公助は義務として当然ですが、それ以上に自助や共助が重要だと考えられています。地域の皆様のご協力があってこその防災であることは疑いようも――」

 少女はそこでハッと気付いたように口元に手を寄せると、

「すみません。久しぶりだというのにこんな堅苦しい話をしてしまって……」

 慌ててパンを口へ運び、俯きがちに租借する。

「いやいや、聞いていてとても為になるよ。やっぱり現場で働く人の言葉は含蓄があるねぇ」

「いえ、私は先人の言葉を祖述しただけですので」

 語り口や内容はどこか達観しているが、恥ずかしげに謙遜しながらパンを口に運ぶその表情は年相応の少女のものだった。如才ない姿はもちろん頼りになるが、その裏に隠された、ある意味で未熟さとも言える無垢さは、見ていてどこか心が安らぐものだった。

 それは恐らく、その未熟さこそが人の本質だからなのだろう。だとすれば彼女の毅然とした態度は、己の弱さを隠すために作られたものだと言えるのかもしれない。

 年端も行かぬ少女が己の身を守るために身に着けた、意思という名の鎧だ。

 ――守るため、かぁ……。

 結露したグラスの表面をなぞり、指先に雫を溜めながら内心でそう独り言ちると、ふと湧き上がった疑問を口にしてみる。

「今さらだけどさ、ハルちゃんはどうして士官になろうと思ったんだい?」

 少女は手を止めて「そうですね」と呟くと、僅かに目を伏せながら言葉を続けた。

「……私は生まれてから――いえ、生まれる前からずっと誰かに守られて、助けられながら生きてきました。だからこそ、今度は誰かの助けになりたいと思ったのです」

「でも、それなら別の仕事でもよかったんじゃないかい? 士官の――それもわざわざ一番危険な防衛官を志望しなくたって、他にやりようは幾らでもあったんじゃあ――」

 少女は麦茶を一口飲んでからおもむろにグラスを下ろすと、氷が涼しげな音を立て、雫が透明な線を引きながらコースターへ染み入る。

「……最初は、ずっと私を守ってくれた父上の背中に少しでも追いつきたいと思ったからでした」

 少女は「子供っぽいですよね」と呟いて僅かにはにかむと、

「その気持ちに変わりはありません。でも、今はそれだけではないのです」

 そう言って店先を彩る人々の往来に目を向けながら言葉を続ける。

「私は、この何の変哲もない日常が好きです。だからこそ、この平穏を守るために少しでも役立てるのなら、それはとても素敵なことだと思ったのです」

 その言葉に一瞬、時間が止まったような気がした。しかしそんな錯覚もすぐに身を潜めると、店先から吹き込んだ湿った風が少女の黒髪を揺らした。

 冥冥の裡に溜息が零れ落ちる。

「……まったく、大人顔負けだね。アタシはハルちゃんの、そういう純粋さが一番心配だよ。まだまだ若いんだから、もっと我侭言っても罰は当たらないと思うよ?」

 すると少女は珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべると、

「周りに心配をかけてでも士官になりたいと思うのは、我侭にはなりませんか?」

 眉尻を下げながらそう言った。その表情に、胸の内から湧き上がる感情をそのまま開放するように声を上げて笑う。

「……こりゃあ敵わないね。そう言えばハルちゃんって意外と頑固なのよね。そういうとこも変わってなくて、ちょっと安心したわ」

 少女は照れくさそうに笑みを返し、皿に乗せられた最後の一切れを食べ終えると、

「私も大きく変わった町並みを見て少し不安でしたが、変わらないものもあって安心しました。おば様の優しさも、このパンの美味しさも――昔のままです」

 そう言ってから「ご馳走様でした」と手を合わせた。

「ん、お粗末さまでした」

 そう返して皿を下げると、グラスを傾ける少女を眺めながら何の気なしに話題を振る。

「そう言えば、さっき見学って言ってたけど、卒業後はこっちに帰ってくるのかい?」

 少女はその言葉にピタリと手を止めると、グラスを置いて小さく頭を振った。

「……いえ。ロシアへ留まることにしました」

 少女はそう呟くと、少し寂しそうな笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「手前味噌ですが、日本では父の影響が大きいので。ですから、真に己を磨くには海外の方が適当だと判断しました」

「……そっか。ハルちゃんのお父さんは、里の英雄だもんね」

 留学とは違い無期限で故郷の地を離れるというのは、彼女にとっても苦渋の決断であったことだろう。だとすれば、自分にできることは笑顔で送り出してやることだけだ。

「そっかそっか。少し寂しいけど、立派な選択だと思うよ。アタシも陰ながら応援してるからさ、胸張って頑張りなよ!」

「……はい。ありがとうございます」

 暗い雰囲気を作らぬよう努めて明るく振舞うと、少女も笑みを深めながらそう返した。

「それでは、そろそろ失礼します」

 そう言うと、少女は静かに席を立った。少女を見送りに店先へ移動する。

「そうだ。上総へ行くなら、少し時間をずらしたほうがいいかもしれないね。昼時は関所が混雑するから、運が悪いと長いこと立ち往生を食らうのよ。今日みたいな日はまだマシだけど、猛暑日には熱中症で倒れる人がいるくらいだから」

「そう……ですね。お心遣い頂きありがとうございます。こちらで少し用を済ませてから向かうことにします」

「お節介だったらごめんね。たぶん一時間もすればピークは過ぎると思うからさ」

 そう付け加えてから小さく手を振る。

「久しぶりに話せて楽しかったよ」

「こちらこそ楽しかったです。近いうちにまたお邪魔させて頂きますね」

 少女は小さく会釈すると、踵を返して歩き出した。

「……ハルちゃん――」

 そんな少女の背中が何故かとても小さく見えて、余計だと分かっていながらも思わず声をかけてしまった。振り返った少女に対して、漠然とした不安を掻き消すように精一杯の笑みを浮かべる。

「――気を付けてね」

 少女はきょとんとしていたが、すぐに柔和な笑みを浮かべると、

「ありがとうございます。今年も猛暑が続くそうですから、おば様もどうぞご自愛下さい」

 そう言い残して、今度こそ初夏の喧騒へと消えていった。


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