三話 平穏の先に
アタミは揚々と先を行く背中へ向けて改めて言葉を投げかける。
「それで、今回はどこほっつき歩いてたんだよ」
「ん? ああ、ちょっと中国までね」
「中国!? なんでまたそんな遠出を……」
燈燕の放浪癖は慣れっこたが、海を越えていたのは流石のアタミも予想外だったらしい。
「私が現役だった頃に世話になってた上官がいてさ。まあ今は退役してるんだけど、その人と会ってきたのよ」
流石にアタミより一回り長く生きているだけのことはあって、相応のコネクションを持ち合わせているらしい。
「へぇ……それで、肝心の収穫はあったのかよ?」
「ん、まぁね。何日かしたらまた行くから、そのつもりでお願いね」
「……へいへい。次はせめて連絡だけでも取れるようにしておいてくれよ」
「あはは。アポ無しで行ったら、まさか関所で端末没収されるとはねぇ。セキュリティ厳しくなったもんよ、まったく」
「ホント何やってんだよ……」
アタミは大きく肩を落とすが、燈燕はどこ吹く風といった様子で歩みを進めていく。
その後、管理棟で終業の手続きを済ませてから学院の敷地を後にしようとしたところで、
「それにしても――」
燈燕は足を止めてそう呟くと、学院の門を振り返りながら言葉を続けた。
「――もう一年も経ったのね。毎日のように通っていたのが、つい昨日のことのように思えるわ」
アタミもそれに倣って振り返る。
「そうだな。俺は今でもちょくちょく顔出してるから、それこそ実感湧かないよ」
燈燕はアタミへ横目で視線を送りながら口を開く。
「それで、臨時講師の仕事はどう?」
「最初はどうかと思ったけど、すごく遣り甲斐があるし、何より勉強になるよ。何事もやってみるもんだな」
「それはよかった。感謝しなさいよ? 元教導官のよしみとはいえ、結構無理言って仕事回して貰ってるんだから」
「その調子で情報官の仕事も取ってきてくれたら最高なんだけどな」
自慢げな燈燕に半目を向けながらそう呟く。
「耳が痛いわね……」
苦笑いを浮かべながらそう言うと、燈燕は小さく目を伏せながら言葉を続ける。
「それにしても教師姿、結構様になってたじゃない。やっぱりあなたには士官より教師のほうがしっくりくるわね」
燈燕は苦笑いを微笑へ変えると、僅かに眉尻を下げながらそう言った。そんな燈燕にアタミは小さく笑みで返す。
「ああ、俺もそう思うよ。でも――」
アタミは目を伏せて教室の壇上から見た景色を――生徒たちの顔を思い浮かべる。
「――講義をやってると、色々なものが見えてくるんだよ。特に、自分に足りないものとかさ」
燈燕の視線の先で、アタミが薄墨色の右眼を手の平で覆った。
この仕草はアタミが昔を思い出すときの癖のようなものだ。彼がこの道を志す切っ掛けとなった――彼にとって全ての終わりであり、始まりとなった事件の夜のことを。
アタミの左の瞳は一般的な黒色だ。しかしそれと対を成す位置には、光を失った薄墨色の瞳がある。一般的にオッドアイとして広く知られている〝虹彩異色症〟の特徴だ。この特徴は先天的に現れる場合と、病や事故などが原因で後天的に現れる場合に大きく分けられる。
アタミの場合は――後者だった。
薄墨色の瞳は十年前の事件の夜から光を映すことはなく、まるであの夜の出来事など無かったとでも言うように、今も世界を拒み続けている。
アタミの手中で薄墨色の瞳が僅かに熱を持つと、それそのものが別の生き物のように胎動し、眼窩の奥を微かな疼きが走る。
この瞳に触れるたびに、あの夜を思い出す。思い出すたびに、あの夜を再現するかのように眼窩が疼く。そう考えると、あの夜を拒み続けるこの右眼が何よりもあの夜に囚われているというのは、ひどく皮肉な話だ。
アタミは右眼を覆ったまま独り言ちるように言葉を続ける。
「俺が生徒達に知って欲しいことって、突き詰めるところ〝実感〟なんだよな。彼らがこれから立ち向かうであろう困難の……その実感だ。でもそれを十分に伝えるには、俺自身の経験がまるで足りていない。だから――」
そう言って掌を離すと、親指で制服の胸元を飾る徽章を指し示し、一層大きな笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「――今は、こっちが俺の〝学び舎〟だ」
彼らの徽章には六枚一輪の花――『六花』が彫り込まれている。
この紋章こそ、現代において人類最大の脅威とされる聖霊災害に立ち向かうための国際組織――『六花連盟』の象徴だ。
今からおよそ四百八十年前。人類はヨナのパンデミックによって存亡の危機に瀕するが、残された全人類をコールドスリープすることによってそれを回避しようとした。人類の希望を託されたのは、彼らが英知と心血の全てを注ぎ込んで開発した人工知能『ノア』だった。
そんなノアが百と数十年の月日をかけて最終的に選択した手段は、当初予想されていた殲滅ではなく――ヨナとの共生だった。
アブラムシとブフネラ、あるいはミドリゾウリムシとクロレラのように、ノアは人類とヨナを共生させることによって環境への適応を試みたのだ。
その結果を端的に言ってしまえば、人類はヨナとの共生に成功し、乖魂病による死の転帰を回避する術を得たということになる。
人類絶滅の回避という観点から見れば、方舟計画は成功したと言えるだろう。
問題は――その過程だった。
当然といえば当然だが、人類の品種改良とさえ言える未曾有の治療行為には、非常に多くの弊害を伴った。そのひとつが、水平伝播に伴う乖魂病の進行だった。
共生を実現させるためには体細胞の一部を解凍した上でヨナのウイルスゲノムを水平伝播する必要があったため、共生関係が成立する頃には、人類は乖魂病の進行によってその記憶の大部分を喪失していた。
共生が成功したことで長年の悲願であった地上への帰還を果たした人類だったが、その足取りは明るいものではなかった。多くの人々は茫然自失の状態で、同じように記憶を失った者たちと身を寄せ合いながら、僅かに残された記憶を頼りに細々と生活したという。
当然ながら自らの生活を事細か記録する者は少なく、また記録を保存する技術さえも失われていたため、当時の歴史的資料はごく僅かしか残されていなかった。
各地に残されていた生活の痕跡から、人類がコールドスリープから目覚めた時期は西暦二二五〇年前後――方舟計画始動からおよそ百五十年後だと予想されてはいるが、文明の再生が進んだ現代においても、後有史時代(方舟計画が始動した二一〇〇年より後の時代の名称)初期にはまだまだ多くの空白が残されたままである。
その後の人類が数世紀というごく短期間で失われた文明の多くを再生できた理由は、方舟計画以前に使用していたジオフロントにあった。人類はジオフロントに残された記録から己の身に起きたことを知り、そこに残されたかつての技術遺産をもって少しずつ文明を再生していった。こうして二五八〇年現在、人類は二十世紀初期程度まで文明レベルを再生させている。
しかし人類が共生という変化をもって絶滅を免れたように、ヨナもまた進化をもって四百八十年という月日を生き延びていた。
進化のトリガーとなったのは、前有史時代の人類から吸収した模倣子だった。
模倣子は人々の間で複製・伝達されることで文化を形成する情報であり、その性質を一言で表すならば〝摸倣〟が適当だろう。
そして模倣子という概念を吸収――より正確に言うならば〝学習〟することによって進化したウイルスもまた摸倣の性質を有していた。
進化したウイルスは既にヨナとは完全に異質な構造体へと変貌していたことから、これをヨナの進化形態と位置づけ、改めて『聖霊』と呼称するようになる。
聖霊とは本来、聖書に登場する〝神の力〟そのものを指す言葉である。
聖書の記述によると聖霊は様々な姿をとって地上に顕現したとされており、マタイによる福音書に登場した際も〝鳩〟の姿を〝摸倣〟したことからこの新たなウイルスの名の由来となったそうだ。
この模倣の特性を起因として引き起こされる災害こそ、現代において人類最大の脅威とされている〝聖霊災害〟なのだ。
そしてそんな聖霊災害に立ち向かうべくジオフロントの記録から再生されたのが、前有史時代最後の国際組織であり、人類がその命運をかけて戦った最後の砦――六花連盟だった。
そんな六花連盟の徽章を胸に携えたアタミと燈燕が向かった先は、六花学院の敷地と隣り合うように広がった安房分室の営内だった。
安房分室――正式名称、六花連盟日本支部安房分室。
二人が所属している機関の名前だ。
分室とは参謀本部の所掌事務を分掌する地方出先機関であり、主に士官が課業を行うための場である。しかし営内居住者にとっては生活の場でもあるため、その敷地内には部棟や訓練施設の他にも、営内舎、食堂、売店、浴場など生活に必要な様々な施設が整備されており、ひとつの街のような様相を呈している。
『――日本付近は広い範囲で大気の状態が不安定になるでしょう。日本海側では所々で雨となり、雷を伴う事もある見込みです。太平洋側でも昼頃からは急な雨や雷雨に注意が必要です。落雷や突風にもお気をつけください。最高気温は――』
八百屋の店先に吊るされたラジオから流れるアナウンサーの声を小耳に挟みつつ、昼時で賑わう商店街を歩いていく。
西暦二五八〇年七月七日――この日の天気予報は曇りのち雨だった。
のんびりと歩みを進めながら空を望むと、そこに映されるのは一面の灰色だ。
梅雨入りから一ヶ月近く経った今も、空模様は連日の曇天だった。
しかし夏季特有の焼け付くような日差しが無いため、これはこれで良い天気だと言えるのかもしれない。街路に吹き込む黒南風も、今朝方まで続いた宿雨のおかげか、盛夏の兆しを感じさせない心地良いものだった。花屋の店先に並ぶ色とりどりの花々も、鮮やかな花弁に灰色を写した露を乗せて輝いている。
――もう夏か……そろそろ顔出しに行かないとなあ……。
アタミは横目で花々を眺めながら、内心で独り言ちる。
――あいつはどうすんのかな……。
すると、隣を歩く燈燕が唐突に口を開いた。
「ぼうっとしてると転ぶわよ」
「ん、ああ」
気の抜けた返事を返すアタミを見て、燈燕はお得意の悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「何考えてたか当ててあげようか」
その視線にアタミは口を引き結んだまま目線で挑発を返す。
「どうせアートのことでしょ?」
「……違ぇよ。ちょっと墓参りの予定を考えてただけだ」
アタミが苦虫を噛み潰したような顔でそう答えると、
「なるほど。それでアートにどう切り出そうか考えてたワケね」
燈燕は呆れたような笑みを浮かべてそう言った。
まさにぐうの音も出ずにアタミは口を噤む。燈燕は時々エスパーかと疑いたくなるほど正確に心中を見透かしてくることがあるのだ。そんな燈燕はわざとらしく溜息を吐くと、やれやれといった面持ちで言葉を続けた。
「そんなの気軽に誘ったらいいじゃない。お墓参りだけはいつも一緒に行ってるんだから」
だけ、の部分を強調する辺りに若干の悪意を感じるが、実際にその通りなので反論の余地は無かった。
「別に毎回一緒に行く必要も無いだろ。アートはともかく俺なんかは士官になりたてで忙しいし、そもそも同時に休みを取れる機会なんて、これからどんどん減っていくだろうしな」
「ふーん?」
ぶっきらぼうにそう言うと、燈燕は含みのある視線を返しながら呟いた。
「ま、私は子供をもったことないから分からないけど、やっぱり息子娘が揃って顔出してくれたほうが親としては嬉しいもんじゃない?」
「……そりゃあそうだと思うよ。アートもそう思っているからこそ、墓参りだけは付いて来てくれるんだろうしな」
「だったら言うこと無いじゃない」
「とは言え、墓前だけ仲良い振りするっていうのもどうかと思うしなあ」
「それは本来ならアートが考えることなんじゃないの? アタミはいつもどおりでいいじゃない、別に喧嘩してるワケじゃなくて、あなたが一方的に避けられてるだけなんだから」
「……ぐっ」
「本当にぐうの音を出す人って初めて見たわ」
「……俺も明らかな地雷の上でタップダンスする人は初めて見た」
ちょっとは気遣いというものを見せてくれても罰は当たらないだろう――と恨みがましい視線を送るが、当の本人はどこ吹く風といった様子でケラケラと笑いながら言葉を続ける。
「まあまあ、オブラートに包んだところで手品みたいに中身が変わることなんてないんだから包むだけ無駄ってもんよ。現状に不満があるなら、なおのこと現状から目を逸らしちゃあ駄目なのよ?」
「それが正論なのは認めるけど、先生はやることが一々大雑把すぎるんだよ。現状を見せるために生傷抉って致命傷になったら元も子もないだろ」
「心の傷は時に人を成長させるものなのだよ。大いに悩みたまえ、若人よ」
「名言っぽく言えば誰もが納得すると思うなよ」
アタミの嘆息を尻目に、燈燕は小さく鼻歌を歌いながら軽い足取りで商店街を往く。そんな子供のように無邪気な背中にアタミ小さく苦笑を浮かべる。燈燕は時に傍若無人な振る舞いを見せるが、その真っ直ぐに我が道を往く気炎万丈な生き方が少しも羨ましくないと言えば嘘になる。真似しようとは思わないとは言え、だ。
「心の傷を癒すには、まずは内にたまった毒素を吐き出すこと。そして十分な睡眠と美味しい食事、これ鉄則よね」
そう言うと、燈燕はまるで踊るような足取りでひとつの店に近づいていった。掲げられた看板には「インゲル・ベーカリー」と書かれている。昔から二人の行きつけの店だ。
燈燕は店の扉を潜り、美味しそうなパンが並んだショーケースに手をかけると、身を乗り出すようにして声を上げた。
「おばちゃーん! パン買いにきたよっと」
この店には何度も通っているが、燈燕がレジの横に置かれた呼び出しベルを使っているところは未だに見たことがない。しかしもう慣れっこなのでアタミも今更突っ込もうとは思わない。
燈燕の声に顔を上げたのは、奥の厨房で仕込みをしていた初老の女性だった。
「あらあらトーエンさん、いらっしゃい」
「こんにちは、おばちゃん」
「アタミちゃんも、いらっしゃい。毎度ありがとうね」
そう言ってひまわりのような笑顔を浮かべる女性は、この店を一人で切り盛りする店長だ。
「今日は何にするんだい?」
店長の言葉に燈燕は腕を組むと、
「確かこの前はホットドックだったから……今日はサンドイッチにしようかな。アタミはどうする?」
「俺も同じので」
「それじゃあ全員サンドイッチね。美禄姐さんの分はどれが良いかしら。とりあえずフルーツサンドは確定として、あの人いつも忙しそうだから何か精のつくものを……おばちゃん、何かオススメとかないかしら?」
「それならカレーパンとかどうだい? 今なら揚げたて熱々よ」
「おお、美味しそう! じゃあフルーツサンドとカレーパンを別の袋に包んで貰って……私も食べたくなっちゃったから同じものと、後はカツサンドをお願い!」
三人分の注文を受けると、店長は慣れた手つきで品物を紙袋に詰めながら口を開いた。
「今日は食べていかないのかい?」
四人がけのテーブルが二つ置かれたイートインスペースへ目線を遣りながらそう言うと、燈燕は残念そうに眉尻を下げながら答えた。
「そうしたいのは山々だけど、午後は上総まで出張だからあまりのんびりできないのよね」
「あらあら、忙しいのねえ……やっぱりアレかい? 最近噂になってるあの、方舟関係のお仕事かい?」
「いやいや、私達みたいな下っ端があんな一大計画に関われる訳ないって。ウチに回ってくる任務なんて、ちょっとした雑用みたいなもんよ」
「あらあら、雑用も立派なお仕事じゃないのさ」
店長は綺麗に切り揃えられた爪でショーケースを叩くと、
「このパンひとつにしたって厨房の掃除から素材の買出しまで、小さな雑用を積み重ねたからこそ、こうして自信を持ってお客さんにお出しできるのよ?」
「うっ……けだし至言に返す言葉もございません」
頂門の一針を受けて燈燕が笑みを引きつらせた。燈燕の仰々しい物言いに店長は呆れ笑いを浮かべる。その様子を見たアタミが横から口を挟む。
「先生も少しはおばちゃんを見習ったらどうよ? パンのついでに爪の垢も煎じて出してもらったほうがいいんじゃ――っ痛てぇ!」
言い終える前に燈燕の踵がアタミの爪先を踏み抜いた。アタミは視線に精一杯の抗議の念を込めて燈燕を睨むが、当の本人は素知らぬ顔だ。
「相変わらず仲が良いねぇ」
そんな様子を見て店長は快活な笑い声を上げると、
「アタシは連盟のお仕事についてはあんまり詳しくないけど、アンタたちが頑張ってくれてるからこそ、こうして平穏に過ごせているってことだけは理解しているつもりだよ。だから、もっと自分の仕事に自信を持ちなさいな」
注文品を詰め終えた紙袋を差し出しながらそう言った。
「ありがとね、おばちゃん」
燈燕の言葉に店長は満足そうな笑みを浮かべながら頷いた。
「こちらこそ、午後のお仕事も頑張ってね」
「うん。それじゃあおばちゃん、ごちそーさま」
「ご馳走様でした」
「毎度あり、またいつでもいらっしゃいね」
店先で手を振って見送ってくれる店長に対して、燈燕も後ろ歩きで大きく手を振り返しながら店を後にする。
「前見て歩かないと転ぶぞ」
アタミは行きに燈燕に言われたことの意趣返しのつもりでそう言ったものの、当の本人が覚えているかは非常に怪しかった。
程なくして燈燕が前を向くために振り返った瞬間、何かを見つけたように小さく声を上げると、足を止めて再びパン屋の方向を振り返った。正確には、直前にすれ違った人物へと視線を向けるためだ。
アタミも同じように彼女の視線を追うが、二人へ背を向けて歩く人の数は十を超えている。その上、アタミはすれ違った人物の顔を見ていない――とは言え振り返ったタイミングと視線の方向から、どの人物かはおおよその検討が付いた。
恐らく燈燕の視線は、数メートル先を歩いてゆく少女へ向けられている。
少女は二人と同じく連盟の制服に身に包んでおり、その楚々とした歩調に合わせて、真っ直ぐに伸ばされた背筋の上を、墨を流したような濡れ羽色の長髪が揺れている。
「……知り合い?」
アタミが少女の背中から視線を戻しつつそう言うと、燈燕は懐かしむように目を細めながら口を開いた。
「一応ね。最後に会ったのはしばらく前だから、あっちは覚えてないだろうなあ」
「しばらくってどれくらい?」
「多分あなたと初めて会った頃だから……八年くらいかな?」
「って言うと、先生が一番荒れてた時期か? それじゃあ分からないのも無理ないな」
「……それは褒め言葉として受け取っておくわ」
燈燕は苦々しげな表情でそう言うと、踵を返して歩き始めた。
「話しかけなくていいのかよ?」
「覚えのない相手に急に話しかけられても混乱するだろうし、説明するのも面倒だからね。折を見て挨拶に行くわ。改めて紹介して貰った方が何かとスムーズだろうし」
燈燕の後を追いながらアタミが再度振り返ると、遠くで先程の少女とパン屋の店長が親しげに会話しているのが見えた。
「それより――」
燈燕の声にアタミは改めて前方へ向き直る。
「――おばちゃんも言ってたけど、やっぱり噂になってるみたいね……方舟の話」
「ああ――」
アタミはそう呟きながら黒味を帯び始めた灰色の空を見上げると、小さく息を吐いてから言葉を続けた。
「――まあ、それだけの価値があるってことなんだろ。なにせ青色計画が成功すれば、ノアを回収できるかも知れないんだからよ」
そう呟いて、アタミは自身の記憶を反芻する。
かつて方舟計画から目覚めた人類は文明レベルを大きく後退させており、記録を保存する技術さえも失っていたため、長い年月の中で方舟の所在は次第に失われていった。
しかしそれも七十余年前に発足した民間の調査隊によって、いくつかの方舟の所在が明らかとなる。そのひとつが、房総半島から南へおよそ二百七十キロメートルの位置に存在する火山島『青ヶ島』だった。
青色計画とは、そんな青ヶ島の地中深くに今も尚眠り続けている方舟を発掘する計画だ。
方舟の発掘に成功し、前有史時代の英知の結晶――ヨナとの共生という形で一度は人類を救って見せた究極の人工知能「ノア」を回収することができたならば、あらゆる分野に革命的なブレイクスルーが巻き起こることは必然だろう。
「ノア、ねえ……」
燈燕はそう呟くと、独り言ちるように言葉を続ける。
「人類の至宝、救世の叡智、第一にして第六の預言者――ノアの演算能力を持ってすれば聖霊の完全制御さえ不可能ではない……か」
それはアタミにとっても聞きなれたフレーズだった。ノアに対する人々の期待の大きさ故か、まことしやかに囁かれる噂は枚挙に暇が無い。
「本当に可能なのかしらね……霊災の無い世界なんて」
燈燕はまるでその先にあるものを見ようとするように、遠い目で灰色の空を望みながらそう呟いた。アタミが横目で彼女の様子を窺うと、普段はヘラヘラとしているその横顔に表情は無く、そこからは何の感情も読み取ることができなかった。その全てを詳しく知っている訳では無いが、彼女も霊災とは決して浅からぬ因縁がある筈だ。
「……さあ、どうだろうな」
燈燕の問いに答えることができる者はいない。何せ数多の学者達がこの数百年間血眼になってなおも解き明かせない問題なのだから。彼女自身もそれをよく分かっているはずだ。それでも時折、誰ともなく問いかけずにはいられなくなる気持ちはアタミにも覚えがある。
大きな希望の裏には、それに比例する不安が付きまとうものだ。
「もしかしたら全部が全部上手く行って、そういう未来が実現するのかもしれないし、そうならないかもしれない。ひとつ確かなことは、どんなに強く望んだところで、かつてのノアのように神様が予言を授けてくれることなんてないってことだ。それでも――」
アタミは己自身へ言い聞かせるように、言葉を紡いでいく。
「――それでも、俺達のやることは変わらないだろ。雲を掴むような話だとしても、机上の空論だとしても……そこに可能性がある限り、諦める訳にはいかないんだからよ」
正解のない自問自答を繰り返しながら、それでも前に進み続けるしか道はないのだから。アタミは心の中でそう言い聞かせると、視線を正面へ戻して歩みを続ける。
燈燕は横目でその顔を窺い、零れた笑みを噛み締めながら前へ向き直ると、
「……ガキんちょが一丁前の口を効くようになったじゃないの」
アタミの肩を肘で小突きながらそう言った。
「まあ、あなたの言うとおり、見えない先のことばっかり考えても仕方ないわよね。おばちゃんを見習って、まずは私達にできることを地道にやりましょうか」
燈燕は茶色の紙袋を掲げて肩越しに振り返ると、口端に笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「まずはコレね。せっかくの揚げたてなんだから、冷めないうちに届けちゃいましょう」
「おう」
調子を取り戻した燈燕へ微笑と共にそう言葉を返すと、アタミも速度を上げてその背中を追いかける。