二話 始まりはいつものように
日本国、房総半島。
関東地方の南東部に位置する半島のさらに南東部。太平洋に臨む沿岸部の一角に、一際広い敷地を持った建築物がある。
管理棟を中心として大小様々な施設が併設されたそれは、世界最大の国際組織である六花連盟の自治機関であり、複数の教育機関を統合管理する施設――〝六花学院〟だ。
管理棟から中央棟を経て立ち並ぶ施設の数は大小合わせてゆうに五十を超えており、そのひとつひとつが機能に応じた広さを備えているため、総合的な敷地面積は相当なものになっている。しかしその多くが今は水を打ったような静けさに包まれおり、自習のために図書館を出入りする人影が僅かに見て取れる程度だ。
そんな施設のひとつである第五特別教室棟の一室に、男の声が響いた。
「二〇六一年。全てのターニングポイントとなるこの年、激化の一途を辿る第三次世界大戦対策の一環として、新たな低致死性無力化兵器『Mウイルス』が開発されました」
教壇に立つ男――アタミ・ヴィリヤカイネンはそこで小さく息を吸うと、教室の全体へ声を届かせるように意識しながら言葉を続けた。
「Mウイルスはその名のとおりウイルス性の生物兵器であり、その効果は〝宿主が有するミームの一時的な鎮静化〟です」
続けて黒板のスペースに〝ミーム〟というワードを抜粋すると、
「以前にも習ったと思いますが、模倣子とは遺伝子との類推から生まれた概念であり、人から人へと伝播することで文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報のことです。戦争に関して言えば民族集団における排他的感情も、異なる文化への未知に基づく〝恐怖〟から生まれるミームのひとつですね」
教鞭を執るアタミの声からは、講師としての経験の少なさからか余裕の色はあまり感じられない。しかし極度の緊張を感じさせるものでもなく、慣れた手つきで板書しつつ着々と講義を進めていく。
「つまりこの兵器は肉体ではなく感情に作用するものとしてその安全性と有用性が示されました。このことからMウイルスは人々から平和への希求を込めて、旧約聖書に登場する平和の象徴〝ヨナ鳩〟の愛称で歓呼して迎えられることになります」
要点の板書を終えると、アタミは視線を黒板から背後へ戻した。
アタミの眼前には清潔感のある白磁と温かみのあるアイボリーのコントラストに彩られた階段教室が広がっている。横長の机一つに対して椅子の数は五つあり、教室の広さも相まって大きなキャパシティを有するが、それらが十全に活かされる機会は少なく、今も所々に空席が見られる状況だ。
そんな教室の席を埋めているのは、これまた年若い少年少女らだ。彼らの年齢はアタミより一層若く、十五歳前後といったところだろう。真剣な面持ちで板書を取っていた生徒たちの手が粗方止まったことを確認すると、アタミは改めて口を開く。
「その翌年、初となるヨナの実践投入が敢行され、当初の予想どおり徐々に鎮静化してゆく戦場の経過を見守る中で、それは唐突に起こりました――」
アタミはそこで小さく間を置くと、生徒たちの傾聴を促しつつ言葉を続ける。
「――同年五月十九日。イングランド南東部においてヨナの異常活性化が観測されます」
より分かりやすい言葉として〝異常活性化〟の末尾に〝暴走〟と書き加える。
「異常活性化――即ち暴走したヨナは宿主のミームを無差別に吸収し始めました。これによりヨナに感染した者は徐々に感情を喪失し、最終的に半永久的な植物状態に陥るという症状が現れました」
正確には吸収ではなく劣性転写による崩壊現象なのだが、厳密なニュアンスより分かりやすさを重視しているらしく、教科書の表記も吸収で統一してある。
「唐突に現れたその異常固体はワクチンを受け付けず、他のウイルスに対して規格外と言えるほどの感染力を備えており、前例の無い速度で拡散するパンデミックに人類は防衛の一手に回るしかありませんでした。そして混乱の中で病はいつしか〝魂が乖離する〟と比喩され、悔恨とのダブルミーニングから「乖魂病」と呼ばれるようになります」
悔恨とは過ちを後悔すること。乖魂病という名前には人類が犯した最大の過ちに対する贖罪の念が込められていたのかも知れない。
「パンデミックによる人類の激減に伴って各国の機能は著しく低下し、人々は感染から逃れるために地上を放棄すると、地下に建造・隔離したジオフロントへと活動拠点を移します。しかし事ここに至って尚も乖魂病の治療法は発見されず、このまま緩やかな滅びを待つばかりかと思われていた人類に――ここで動きがありました」
そこで短く間を置いてから「それでは次のページを」と言いながら手元の教科書を捲ると、次いで生徒たちの間から紙の音が木々のさざめきのように響いてきた。
「二〇九〇年。パンデミック後初となる世界共同首脳会談が開かれると、この会談において生存戦略の推進を旗印とした連盟の設立が宣言され、その後開催された連盟会議において人類存続計画「方舟計画」が提唱・可決されます」
赤色で強調された〝方舟計画〟の文字をチョークで指しながら言葉を続ける。
「方舟計画とはパンデミックへの対抗手段の模索を人工知能へ託し、手段が発見されるであろう未来まで全ての人類をコールドスリープさせるというものでした」
そう言いながら、こんな一か八かの計画に未来を託した当時の人類に畏敬とも憐憫ともとれない複雑な感情を覚える。それとも当時の技術力でならば蓋然性があったのだろうかと、そんなことを考えつつ板書を続ける。
「その後コールドスリープを象徴する雪の結晶『六花』から名を取った六花憲章が署名されて生存戦略推進機構『六花連盟』が正式に発足すると、連盟の主導の下で新たな人工知能の開発とコールドスリープの安定化および装置を維持するための大規模シェルターの建造が世界各地で進められました」
大規模シェルターの末尾に注釈として(通称「方舟」)と書き加えると、
「そして二一〇〇年。完成した方舟において全人類のコールドスリープが開始され、ここに方舟計画が始動します」
そう言って締めの一文を板書した。チョークを置いて一息吐くと、生徒たちを振り返りながら言葉を続ける。
「これで『前有史時代・薄暮期』は終わりです。中間試験の範囲はここまでなので、しっかりと復習しておくように。分からないことがあったら積極的に質問して下さいね」
そう言い終えたところで、終鈴のチャイムが教室に鳴り響いた。授業終了の挨拶を済ませて手早く教材を片付ける。しかしすぐには教室を後にせず、生徒からの個別の質問へ対応するための時間を取る。
教室を見回すと、生徒たちは各々の弁当を取り出したり、食堂へ向かうためか若干の早足で教室を出て行ったりと、慌ただしい様子である。四時限目が終わったことで、今は昼休みの時間なのだから無理からぬことだ。
生徒からの質問が無いことを確認すると、アタミは教室を後にする。
「よっ、アタミセンセー」
出口を潜った直後、横方から芝居がかった声をかけられて足を止める。振り返ると、スーツタイプの制服を着た女性が、出口付近の壁に背を預けたまま小さく手を振っていた。
「……そんなとこで何してんのさ、先生」
アタミが口角を下げながらそう言うと、先生と呼ばれた女性――燧・燈燕が悪戯っぽい笑みを浮かべた。伊達眼鏡越しの瞳が細くなり、吊り上がった口端からロリポップの棒が突き出ている。
「いやね、たまには教え子が教鞭を執る姿を見ておこうと思ってさ。それに元教師の身としては、やっぱり気になるところじゃない?」
肩口で切りそろえられた茶髪を揺らしながらカラカラと笑う燈燕は二十代を思わせる若々しい雰囲気を纏っているが、これでもアタミより一回り以上長く生きている人生の先輩であり、直属の上司でもある。本来であれば相応の礼節を持ってあたるべき人物なのだが、そのやり取りは長年の友人を思わせるものだった。
「その教え子もとい部下に仕事押し付けたまま三日も音信不通になっておいて、帰ってきて早々にやることが出歯亀かよ……」
「まあまあ、午後の予定には間に合ったんだし、細かいことはいいじゃない。それにここへ来たのもあなたにちょっかい出すためだけじゃないのよ?」
そう言いながら燈燕は教室を覗き込んできょろきょろと見回すと、満足そうに一度頷いた。
「いやあ、この教室も懐かしいわね。そっか、ちょうど昼休みの時間だったわね」
「それで、用ってのは?」
アタミの言葉に、燈燕は懐から取り出した携帯端末を揺らしながら言った。
「美禄姐さんから呼び出しよ、二人揃ってね」
「室長が? 確か検診の日はまだ先だったよな。何の用だろう?」
「さあね。まあ、行ってみれば分かることよ。あ、あと呼び出しついでに昼食の買出し頼まれてるから、荷物持ちよろしくね」
「まあ荷物持ちは別に構わないとして、その前にひとつ聞きたいことがあるんだけど……先生、入構許可証は?」
登録者以外が学院へ入構する場合、受付で所定の手続きを行った上で、その際に発行される許可証の着用が義務付けられている。しかし燈燕の制服にはそれが見当たらない。
燈燕は視線を右上へ逸らしながら空気の漏れるような声で「あー」と呟いた後に、一際大きく屈託のない笑顔を浮かべると、
「……じゃあ、バレないうちに出ましょうか?」
そう言うや否や素早く踵を返して歩き出した。
「元教師のくせに反面教師の鑑だな、おい」
アタミはそう呟いてからしぶしぶその後を追いかける。