十七話 それぞれの決意
「――了解。それじゃあ引き続きアタミたちのサポートをよろしくね」
そう言葉を残して通信を切ると、高台のベンチから腰を上げて日の出を望む。咥えていた棒を携帯灰皿へ捨てて小さく溜息を吐き、懐から取り出した新たなロリポップの包みを剥がしていく。
「禁煙に成功したと思ったら、次は糖尿病になるつもりか?」
その言葉と共に現れた小さな人影が跳ねると、こちらの手からロリポップを奪い取った。
「美禄姐さん……」
「何じゃ、ガラにもなく物憂げな顔をして」
「…………」
こちらの無言を受け取った美禄姐さんは静かに隣へ並び立つと、
「……アタミたちは渓谷へ向かったようじゃな」
こちらの心情を見透かしたようにそう呟いた。
小さく息を吐いて浅く目を伏せると、胸の内を吐露していく。
「見守ることが、こんなにもどかしいとは思いませんでした」
美禄姐さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をすると、すぐに相好を崩してくつくつと笑いながら言葉を作る。
「お主もようやくワシの気持ちが理解できたか。ワシは能力の性質上、いつだって後ろで待つ側じゃったからのう」
そう言って深く息を吐くと、美禄姐さんは遠い目をしながら言葉を続ける。
「アタミは昔のお主にそっくりじゃ。努力家で、他人思いで、そのくせ少し捻くれていて、何度挫けても決して諦めない。そのせいか、いつも誰かのために戦っておる」
そう呟くと、美禄姐さんは寂しげに目を伏せた。
「傷を負うのはワシらではなく、いつだって彼らの方じゃ。どんなに思ったところで、矢となり敵を打ち払うことも、盾となり守ることも叶わぬ」
「……だったら私たちは何もできないんですか?」
「どんなに心を痛めたとしてもそれを押し殺して、優しく出迎えてやる。悩み立ち止まったなら、寄り添い支えてやる。再び立ち上がったなら、そっと背中を押してやる。そして道に迷わぬように、笑顔で送り出してやる。それが――ワシらの戦いじゃ」
「私たちの……戦い……」
その言葉を反芻すると、強く奥歯を噛み締める。深く息を吸ってゆっくりと吐き出すと、背筋を真っ直ぐに伸ばして己の両頬を強く叩く。
「姐さん。里見さんと……総長と話をさせて下さい」
「……よいのか?」
美禄姐さんは微かに瞠目しながらそう言った。浅く目を伏せると、アタミと師弟の契りを交わした日のことを思い出しながら言葉を作る。
「プライドはあの日、犬に食わせて捨てたつもりでした。けど、まだ覚悟が足りなかったみたいです。姐さん……私は、私にできることを全てやります」
その言葉に美禄姐さんは満足げに微笑むと、
「いいじゃろう……じゃが、今すぐという訳にはゆかぬ」
そう言って踵を返しながら言葉を続ける。
「……付いて来い」
その背中を追いかけながら、心の中で言葉を作る。
――皆、頑張りなさい。私も……すぐに追いつくから。
コツ、コツ、コツ――と、メトロノームのような歩調で歩みを進めていく。
眼前には石造りの廊下が遠くまで続いており、岩肌を四角く切り抜いたような飾り気のない窓から朝日が差し込んでいる。靴底が天然石材の床を叩く度に、硬質な音が反響する。それ程までにこの場の気密性が高いということだろう。
かつて上総の霊災から安房を守護してきたこの関所は、数十年の時を経て再び本来の機能を果たそうとしていた。時折すれ違う士官たちの表情は一様に引き締まり、どこか殺気立ってすらいる。しかし作戦開始まで残り一時間を切っているのだから、それも然もありなん。
腕時計に目をやると、合流予定時間が数分後に迫っていた。普段は三十分前行動を心掛けているが、各部との調整に予想以上に手間取ってしまった。
眉根を寄せて僅かに歩調を早めると、廊下の突き当たりにある螺旋階段を登っていく。重厚な鉄の扉を開けて望楼へ出ると、こちらへ背を向けて立つひとつの人影があった。その人影は連盟の制服に身を包み、後ろ手を軽く組みながら遠く渓谷を望んでいる。
「失礼します、里見総長。ただ今到着しました」
その言葉に、人影がこちらを振り返る。
「お疲れ様です、麗子さん」
ロマンスグレーを撫で付け髪た初老の男性は、浅い皺が刻まれた口元に柔和な笑みを湛えたままそう言った。柔らかな物腰や好好爺然とした風貌からは連想し辛いが、この人物こそ日本支部の総指揮を司る参謀総長であり、世界に二十人といない円卓の騎士の一人でもある、里見袖露その人だ。
「各部の首尾は?」
「全て、滞りなく」
「流石、仕事が早いですね」
「恐縮です」
会釈をしながらそう告げると、総長は踵を返して再び外の景色へ視線を向けた。その横顔は大規模な作戦を間近に控えているとは思えない凪の表情だ。
「どうやら、彼も到着したようですね」
そう呟いた総長の視線を追うと、曇天の中に黒い点が浮かんでいるのが見えた。その直後、端末に通信が入り、管制室からの報告を受ける。
「……総長。ロシア支部からの着陸要請が届きました」
「許可を」
「畏まりました」
管制室へその旨を伝えて通信を切ると、
「それでは、伝説を出迎えに行きましょうか」
そう言って踵を返した総長の後に続いて望楼を後にすると、関所の屋上に設置されたヘリポートへ移動する。ロシア支部所有の垂直離着陸機が強風を撒き散らしながら着陸すると、機体の側面が展開し、中から人影が現れた。
統一された衣装を身に纏う人影は全部で七つ。それぞれが制服の上にケープコートを羽織り、真紅の装飾が刻まれた白磁のケブラーマスクを身に着けている。
ロシア支部第一特務部隊、ブィリーナの隊員たちだ。
そして少し遅れて、一際大柄な男性がヘリポートへ降り立った。身長二メートルに迫る筋骨隆々とした肉体は遠目からでも威圧感を覚える程だ。ケープコートを羽織ってはいるが、マスクは付けていない。
隊員たちの間を割ってこちらへ近づいてきたその男性は、無数の傷と深い皺が刻まれた顔に眼帯を巻いており、炯々たる隻眼がこちらを見下ろしている。齢九十を迎えてなおも生命力と威厳に溢れた立ち居振る舞いは、無意識に他者を萎縮させるほどの威圧感を孕んでいる。
彼こそがブィリーナの隊長であるイリヤ・グロズヌイ――抜山蓋世の英雄だ。
総長が一歩踏み出して会釈すると、
「お久しぶりです、グロズヌイ卿。この度は、作戦へのご協力感謝します。日本支部を代表して心よりの――」
「――世辞は要らん。さっさと始めるぞ」
グロズヌイ卿は切り捨てるようにそう言い放った。しかし総長はそんな冷淡な物言いにも眉ひとつ動かすことなく、微笑を湛えたまま言葉を返す。
「お変わりないようで安心しました。それでは早速ですが準備をお願いします」
「……行くぞ」
グロズヌイ卿は背後の部下たちへそう告げると、自分たちの横を通り抜けて渓谷へ向かっていった。場を覆い尽くすほどの重厚な気配が遠ざかるのを確認すると、小さく息を吐いてから肺へ酸素を送る。いつの間にか呼吸を忘れていたようだ。結局、私は挨拶をするどころか、一言も発することができなかった。
しかしそんな彼を前にして一切物怖じしないあたり、総長も流石の貫禄だ。同じ騎士でも総長と卿は対極に位置しているように思える。
そんなことを考えていると、再びインカムに通信が入った。
「――報告です。全二十八部隊、準備完了しました」
「分かりました」
総長はそう呟いて曇天を仰ぐと、独り言ちるように言葉を作る。
「霊災発生から既に六日――あまり時間が経ちすぎました。これ以上、過去を置き去りにしたまま明日へ進むことは出来ません」
その言葉と共に踵を返し、歩みを進めながら言葉を続ける。
「今日で全てを――終わらせましょう」