十五話 ヤマアラシのジレンマ
座り心地の良い椅子に背を預けながら舟を漕いでいると、隣から微かに身じろぐような気配を覚える。衣擦れの音に視線を向けると、ベッドに寝かされていた戍孝がゆっくりと瞼を持ち上げた。
「よぉ、起きたか」
そう声をかけると、戍孝はゆっくりと視線をこちらへ動かした。
「……君は……渓谷にいた……」
そう呟いたところで戍孝は瞠目すると、勢い良く上半身を起こした。
「……ッ今は何時だ!? 私は…….私はどれくらい眠っていたんだ!?」
その勢いに気圧されながら壁掛け時計へ目を遣ると、時刻は二十一時十分を示していた。
「十時間ってところかな」
「十時間……!?」
戍孝は震える声でそう呟くと、次の瞬間、腕に刺さった点滴の管を引き抜きながらベッドから立ち上がった。
「お、おい!?」
戍孝は近くの机に立て掛けられていた刀を掴み取ると、そのまま部屋の出口へ向かって歩き出した。その腕を咄嗟にを掴むと、戍孝がこちらを振り返る。力なく震える腕には包帯が巻かれているが、それでも覆いきれないほど無数の蚯蚓腫れや切り傷が散見される。
「そんな体でどこ行くつもりだ。まさか、また渓谷へ行こうってんじゃないだろうな?」
「放してくれ。時間が……時間がないんだ……!!」
戍孝は眉を吊り上げると、歯を剥きながらそう言った。鬼気迫るその様子にたじろいでいると、戍孝がその身体が大きく揺らがせながら壁へ手をついた。恐らく立ち眩んだのだろう。半日近く寝たきりだったのだから無理もない。
「何があったか知らねぇけど、これ以上は体がもたないぞ。大人しく家に帰れ」
その言葉に戍孝の肩が小さく跳ねると、
「……帰る場所なんて……ない」
吐き捨てるようにそう言いながらこちらの腕を振り払った。
「おい、待てよ!」
戍孝が部屋の扉を開けると、
「あっ……」
そう小さく声を上げたのは、扉の前に佇んでいた女将さんだった。女将さんには事情を話して、この部屋を使わせて貰っている。
「声が聞こえたから様子を見に来たんだけど……目が覚めたんだね。何かあったのかい?」
狼狽する女将さんの表情に、戍孝はばつの悪い顔を浮かべる。女将さんからこちらへ視線を移し、諦めたように浅く目を伏せると、改めて女将さんのほうへ向き直った。
「……寝起きで少々取り乱してしまいました。お騒がせして申し訳ありません」
そう言って頭を下げると、女将さんは愁眉を開きながら口を開いた。
「そ、そうかい。それより、大事無さそうで安心したよ。下の階に居るから、何かあったら遠慮なく声をかけておくれ」
女将さんはそう言葉を残すと、下の階へ引き返していった。
「ほら、無理すんなよ」
ほっと息を吐いてそう言うと、ふらつく戍孝をベッドの端へ座らせる。
「自己紹介もまだだったな。俺は安房分室情報部のアタミ・ヴィリヤカイネンだ。そっちは里身戍孝防衛官で間違いないよな?」
「……ああ」
「俺達は青ヶ島への護送任務を受けた部隊の者だ」
任務関連の書類を差し出しながらそう告げると、
「青ヶ島……。もう……期限が……」
書類を手に取った戍孝が、紙上へ視線を落としながら蚊の鳴くような声で呟いた。書類を握る手が微かに震え、紙面に皺が走る。
あんなことがあった後で気が動転しているのかもしれない。任務について話すのは早計だったか――そう内心で自省しながら、俯いた戍孝へ声をかける。
「まあ、任務については後で詳しく説明するよ。下で何か食べられるものを貰ってくるから、今はゆっくり休んでくれ」
そう言葉を残して部屋を後にすると、階段を降りて一階へ移動し、食堂の掃除をしていた女将さんへ声をかける。
「女将さん、何か消化の良い食事をお願いできますか?」
「ああ、あの子の分だね? お安い御用だ。すぐに作るから待っていておくれ」
「ありがとうございます」
女将さんは笑顔で腕まくりをすると、そそくさと厨房へ向かっていった。空いている席に着いて一息ついたところで、背後から声が飛んできた。
「お疲れ様、アタミ」
振り返ると、先生が軽く手を掲げながら食堂へ這入ってくるところだった。その後ろをアートが無言で付いてくる。
「先生……来てたのか」
「一応様子を見に来たんだけど、目を覚ましたみたいね。それで、様子はどうだった?」
「ある程度は予想してたけど、やっぱり尋常とは言い難いな。危うく部屋から飛び出すところだったよ」
「……そう」
先生が小さく息を吐くと、背後で静観していたアートが口を開いた。
「燧隊長。司法局への報告がありますので、お先に話を窺ってきても宜しいですか?」
「ええ、私は後から行くわ。あまり大勢で押しかけても迷惑だろうしね」
「畏まりました」
そう言って会釈をすると、アートは踵を返した。出口へ向かうその背中へ声をかける。
「余計なお世話かも知れないけど、あまり動揺させるようなことは言わないでやってくれよ」
デブリーフィングは症状を悪化させかねない。災害心理学はずぶの素人だが、それくらいは自分にも分かる。そしてそのことは彼女も弁えていることだろう。しかし杞憂だと分かってはいても、言葉にせずにはいられなかった。
「心配するな。軽い挨拶程度だ」
足を止めてそう言葉を残すと、アートは改めて食堂を後にした。それを見送ると、対面の席へ着いた先生に対して目下の懸念を問いかける。
「先生……これからアイツはどうなるんだ?」
その言葉に先生は浅く目を伏せると、
「その判断を下せるのは司法局だけよ。けど、そうね……順当にいけば、担当監察官へ引き渡し後、所属支部へ強制送還。護送予定日まで監視下に置かれることになると思うわ」
「そう……か。そうだよな。安全を考えるなら、それが一番だ」
己へ言い聞かせるようなその呟きに対して、先生は流し目を送りながら口を開く。
「それにしては腑に落ちない顔ね」
確かに先程から隔靴掻痒の感が拭いきれずにいる。何かが間違っている気がしてならない。だがそれが何かは分からないのだ。胸のうちに燻るものを吐き出すように言葉を紡ぐ。
「腑に落ちるもなにもないだろ。上が判断を下した時点で、俺たちみたいな下っ端の意見が介入する余地なんてないんだから」
「真っ当な意見ね。でも真っ当なだけで正しくはない――それは物分りの良い振りをした思考停止よ。そこから導き出されたものは、果たしてあなた自身の考えと言えるのかしら?」
寸鉄人を刺す言葉に二の句が継げなくなる。
「確かに上の判断は多くの場合において正しい。感情ではなく論理に基づいてリスクとリターンを秤にかけているわ。でもそれを思考停止の言い訳にしてはいけないのよ」
「それは……正論だと思うよ。けど実際のところ俺たちに出来ることなんてあるのか?」
「講釈を垂れておいて悪いけど、それは私にも分からないわ。けどね――」
先生はテーブルの上で浅く手を組むと、どこか遠い目をしながら言葉を続ける。
「完全無欠の規則や判断が存在しないのもまた事実。どんなに正しく思える答えでも、それが正解である保証はないし、どの答えが最善か分かる人なんていない。それでも私達は士官だから、いつかは決断しなくちゃならないの。だからね……アタミ――」
そう言うと、こちらを真っ直ぐに見据えながら言葉を続けた。
「――大切なのは、少しでも後悔しないように、最後の最後まで考え続けることよ」
「考え続ける……こと……」
その言葉を口に出して反芻する。
「悩んで、悩んで、悩み抜いて……そうして初めて、人は己の答えを持つことができる。任務終了まで時間はあるわ……あなたなりに考えてみて」
そこまで言うと、先生は表情を崩しながら立ち上がった。
「それじゃあ私もちょっくら挨拶してこようかな」
そう言葉を残して、背中越しにひらひらと手を振りながら食堂を後にした。
その背中を見送り、眉根を寄せながら唸っていると、厨房から女将さんの声が飛んできた。
「何だか大変そうだねぇ」
「あ、いえ……心配をお掛けしてすみません」
「いやいや、士官さんにはいつも世話になってるからね。大したことは出来ないけど……そうだ、良かったら何か飲むかい?」
「ありがとうございます。それじゃあお言葉に甘えて……出来れば、脳に良いものをお願いします」
「あはは、それは難しい注文だ……と言いたいところだけど、実は丁度良いものがあるのよ」
程なくして女将さんが運んでくれたものは、透き通ったワインレッドの飲み物だった。
「クランベリージュースって言ってね。なんでも脳に良いとかで、どこかの雑誌に載ってたのよ。そろそろ物忘れが激しくなってくる年でねぇ……」
女将さんのジョークに小さく苦笑いを浮かべながら、差し出されたグラスを受け取る。
「綺麗な色ですね。頂きます」
グラスを傾けて液体を口へ含むと、柑橘系の酸味が舌を刺激した。続けて仄かな甘みが口内へ広がり、同時に花のような香りが鼻腔を抜けていく。爽やかな清涼感が体の内側から染み渡るようだ。
「これは……美味しいですね」
「ふふ、それはよかった。もう遅いし、あまり根を詰めないようにね?」
「……ありがとうございます」
女将さんは微笑むと、再び厨房の奥へ消えていった。大きく伸びをすると、そのまま倒れ込むように机に突っ伏す。
「考えるって言われてもなあ……」
頭を掻きながらそう独り言ちると、背後から声が飛んできた。
「士官があまり情けない格好をするな。周囲へいたずらに不安を与えるだけだぞ。虚勢でも背筋だけは伸ばしておけ」
その声に体を起こすと、アートが一人分のスペースを離して席に座った。
「話はもういいのか?」
「言っただろう、軽い挨拶だけだと。今回の任務において私は大した権限を持たない。あくまで監察と報告が仕事だからな。こちらの手助けは期待しないことだ」
「相変わらず手厳しいな」
「お前には頼りになる上官がいるだろう」
「……あっちもあっちで相変わらずだけどな」
「……隊長から何か言われたようだな」
「まあな……後悔しないように考え続けろってさ」
「なるほど……あの方らしい助言だ。それで、何か分かったか?」
「分からないからこうして悩んでるんだよ」
「悩む……か。昔から一人で解決しようとするのはお前の悪い癖だな。燧隊長は一人で考えろとは言わなかった筈だ」
アートはそこで短く言葉を句切ると、
「誰かの力になりたいと思うなら、まずは相手を知ることだ。そんなところで無い物ねだりをしていても、独善的な意見しか浮かんでこないだろう」
そう言うと、真っ直ぐにこちらを見据えながら言葉を続ける。
「目を見て、言葉を交わして、ようやく相手を知ることができる。それでも分かり合えず、答えが見つからないなら、また他の人に相談すればいい。そうやって一人で頭を抱えるのは最後の手段にしておけ」
「そう言えば、俺、あいつのことまだ何も知らないんだよな」
「だがこれで、まだ何も知らないということをお前は知った。後はお前次第だ」
そう言って席を立つと同時、食堂の入り口が開かれて先生が這入って来た。
「こっちも話し終わったわよ。それじゃあ私は分室へ戻るから、後は二人に任せるわね」
「もう行くのか。随分と急だな」
「無事が確認できたからね。今日中に済ませなきゃいけない手続きがあるのよ」
「……そうか」
僅かに目を伏せてそう言うと、額に衝撃が走った。小さい悲鳴ととも視線を上げると、
「まったく、しょげた顔しないの。あなたがそんな顔してどーすんのよ」
先生がデコピンのポーズのまま悪戯っぽい笑みを浮かべると、
「……アタミ、ひとつだけお願いを聞いてくれないかしら?」
微かに眉尻を下げて笑みを和らげながらそう言葉を続けた。
「人はね、何もせずに分かり合えるほど単純な生き物じゃない。それはときに理不尽で、苦難を伴うわ。それでもあなたには、相手を知ろうとすることを諦めないで欲しいの。そうすれば、きっと見えてくるものがあるわ」
痛む額を押さえながら口を開こうとした瞬間、
「お粥できたよ」
その言葉と共に厨房から、盆に一人用の土鍋と水の入ったグラスを載せた女将さんが顔を覗かせた。
「ほらほら、冷めないうちに持っていってあげなさい」
女将さんから盆を受け取ると、そう先生にせっつかれながら食堂を後にする。
アタミが食堂を出たのを確認すると、燧隊長を振り返りながら口を開く。
「アタミは気づいていないようですね」
「……そうね」
燧隊長は先程までの笑みを消し、神妙な顔つきでそう言った。
「里身防衛官にはあの日のこと……アタミのことを話したのですか?」
燧隊長は無言で首を横に振った。
「……そうですか」
「悪いわね、気苦労かけちゃって」
「……いえ」
「今回の件に関して、私はあまり干渉するべきじゃないと思っている。けどアタミなら、私たちには見えないものが見えるかもしれないわ」
燧隊長は眉尻を下げながらこちらを振り返ると、
「アタミのこと、お願いね」
そう言って悲しそうに微笑んだ。
「……はい」
盆を床において扉をノックすると、控えめな返事が返ってきた。扉を開けると、戍孝はベッドの上で体を起こしたままこちらを振り返った。先程までの張り詰めるような殺気は身を潜めているが、その表情は硬いままだ。
「よう、体調はどうだ?」
努めて明るい声で話しかけるが、戍孝は身を固くしたまま口を開く。
「……問題ない」
「それは良かった」
「……迷惑をかけたな」
「気にすんなよ。それより、何か食べられそうか? 女将さんがお粥を作ってくれたんだ」
「かたじけない」
戍孝はお粥を受け取ると、手を合わせてから静かに口へ運び始める。食事の様子をまじまじと見つめるのも失礼かと思い、視線を逸らしながら近くの椅子に腰掛ける。ベランダへ続く扉はガラス戸になっているため、ここからでも外の景色が一望できるようになっている。
彼我の間を食器が奏でる小気味良い音だけが響いている。目端にその様子を映していると、戍孝も時折何かを気にするように窓の外へ視線を向けていることに気付く。
「何か見えるのか?」
「……渓谷が」
その視線を追って闇の中へ眼を凝らすと、夜の底に揺れる木々が見えた。あれは養老渓谷の入り口に広がる森林部分だろう。
戍孝は木製のスプーンをそっと下ろすと、こちらへ視線を戻した。
「い……燧隊長に聞いた。君達もあの日、渓谷にいたのだな」
「君達もってことは、やっぱり……」
「ああ……」
戍孝は再び窓の外へ目を向けると、遠く渓谷を見渡しながら言葉を続ける。
「穏やかな風景だ……。まるで、あの日の出来事が全て夢だったかのような……」
耳を澄ませば夜風の音に混ざって木々のさざめきが微かに聞こえる。確かにこれだけ見ると、今もあの奥で霊災が活動を続けているとは思えない。
そう呟いた戍孝が眉根を寄せて唇を引き結ぶと、
「……でも、夢なんかじゃない。あの場所で見た悪夢のような光景は、全てが現実なんだ」
「……ああ」
「君はあの日、あの場所で何を見た?」
第三次国府台合戦以降もっとも甚大な被害を齎した今回の霊災は、多くの人々の心と身体に消えない傷を残した。そしてそれは自分も例外ではない。脳裏に刻み込まれた光景がフラッシュバックすると共に硝煙と血の臭いが鮮明に蘇り、鼻腔の奥がツンと痛む。
「――地獄だ」
冥冥の裡にそう言葉を零していた。
「地獄……か。ありきたりな言葉だと思っていたが、その意味をあの日ほど実感したことはなかった」
戍孝はそう言うと、僅かに視線を落としながら言葉を続ける。
「……そしてあの日ほど、己の弱さを憎んだこともなかった」
唇を震わせながらそう呟くと、食器を持つ手に力が込められる。
「あの日……私は何もできなかった。何もできなかった私にできることは、散っていった命に僅かでも報いることだけだ」
戍孝は視線を上げると、こちらを真っ直ぐに見据えながら言葉を続ける。
「だから私は戦う。我が身を焦がす衝動を刀に乗せて振るうことしか、今の私にはできない」
「そのために、アンタは閉鎖区域に……?」
「……そうだ」
戍孝の言葉が胸に突き刺さる。立場は違えど、その無力感は痛いほど理解できた。
霊災が発現する瞬間、自分はその現場に居合わせた――図らずとも悪夢の始まりに立ち合わせていたのだ。
自惚れと自覚していても、考えずにはいられない。
自分がもっと別の選択肢を選んでいれば、今とは違った未来があったのではないか――霊災を未然に防ぐことが出来たのではないか――と。
「俺も……九年前、士官を志したあの日から、自分は成長したと思っていた」
胸のもやを吐き出すように言葉を吐露してゆく。
「身体も大きくなったし、知識も増えた。顕霊との戦い方を身に着けて、今度こそ自分の手で誰かを救えると思っていた……でも違った。あの日俺が出来たことと言えば、自分の身を守ることだけだった。霊災を止めることはおろか、目の前にある亡骸の瞼を降ろしてやることすら叶わなかったんだ」
光を失った女性の瞳が脳裏を過ぎり、胃酸が喉を焼いた。しかしそれをぐっと堪えて言葉を搾り出す。
「悲哀も後悔も、慙愧も憤怒も、正面から受け止めるにはあまりに重すぎる。他の何かにぶつけていないと、己の感情に押し潰されてしまいそうになる」
我武者羅に業務へ取り組んだのも、そういった理由があったのかもしれない。
「ならば、少しは私の気持ちも分かるのではないか?」
「そうだとしても……いや、だからこそ、アンタのやり方は間違っていると思う。そんなことを続けていたら、いつか本当に死ぬぞ」
「……例えそうだとしても、顕霊と戦うのが我々の使命だ」
「違う。俺たちは死ぬために戦っているんじゃない。生きるために戦っているんだ。アンタのそれは勇気と蛮勇を履き違えているだけだ」
「この足を動かすものならば蛮勇でもかまわない。彼らの命に生かされたからこそ、私は逃げるわけにはいかないんだ」
「だから、それは前向きな振りをした現実逃避だって言っているんだ」
「……君の言い分が間違いだとは思わない。だが、私には私の信条がある」
戍孝はそう言い放つと、強く握りこぶしを作りながら言葉を続ける。
「私は武家の生まれだ。幼い頃より武士としての修練を積み、それを誇りとして今まで生きてきた。だからこそ、私は私自身を許せないのだ。命を惜しんで死に場所を見誤るなど……武士の恥だ」
「死んで花実が咲くなんざ、時代錯誤もいいところだ」
「君にとってはそうかもしれないな。だが私は士官である以前に武士なのだ。生き方が違えば考え方も違う」
「武士だのなんだの知ったこっちゃない。人の価値を死に様で決めるなんざ、それ以前の問題だって言っているんだ」
「それこそ価値観の違いにすぎない」
戍孝は塵も灰も付かぬようにそう言い放った。
価値観の違い――この討論はそこに集約される。
互いの価値観が平行線である以上、意見を押し付け合うばかりでは、どこまでいっても小田原評定だ。戍孝の双眸を睨み返そうとするが、こちらを見据える虚ろな瞳は己の無力さを映す鏡のようで、思わず目を逸らしてしまう。
「そんな体の良い言葉を並べられても、こっちは全く理解出来ねぇよ。アンタのやり方は命を蔑ろにしているようにしか見えない。救われたって言うなら、その命を少しは大切にしようとは思わないのかよ?」
「……私は生きたくて生きた伸びた訳じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、かぁっと目の前が赤くなる。
「お前なぁ……! 犠牲になった人たちは生きたくても生きられなかった――」
「――そんなことは分かっている!!」
戍孝はこちらの言葉を遮ると、吐き捨てるようにそう叫んだ。戍孝が千切れんばかりに唇を噛み締めると、瞳の中で瞋恚と絶望の炎が揺らめく。
「それでも……私は……ッ!!」
そう言った直後、戍孝が口元を押さえて身を屈めると、ゴミ箱の中へ嘔吐した。
「お、おい! 大丈夫か!?」
近寄ろうとするが、手を掲げて制される。過労とストレスによって内臓がダメージを負っているのだろう。
「これで……分かっただろう。私には救う価値も、救われる資格もないんだ」
そう言った戍孝は苦しそうに肩で息をすると、再び言葉を吐き出す。
「……これ以上……私に構うな。……私を……独りにしてくれ」
やっとのことでそう言うと、対話を拒絶するかのように深く俯いて唇を引き結んだ。
戍孝はサバイバーズ・ギルトに支配されている。自己懲罰でしか己を肯定できないのだ。しかしそれが分かったところで、返す言葉は見つからなかった。叱責も同情も激励も、今の戍孝には届かない。
「……病み上がりに無理させてすまなかった」
そう言葉を残して背を向けると、逃げるように部屋を後にする。後ろ手に扉を閉めたところで、廊下の壁に背を預けた人影に気付く。
「……アート。聞いてたのか」
「これも監察官の務めだからな」
アートは壁から背を離すと、悪びれることもなくそう言い切った。
「そうかよ……けど、これで分かっただろ。俺にアイツを止めることはできない」
吐き捨てるようにそう告げるが、アートは意にも介さずに淡々と言葉を返す。
「誰もお前に止めろとは言っていないし、そんなことを期待した覚えもない」
そして僅かに逡巡するような素振りを見せると、踵を返しながら言葉を続けた。
「……少し、外で話そう」
宿屋の外へ出ると、遠くから風の音に混じって虫の鳴き声が聞こえてきた。アートは木製の欄干に背を預けると、静かに口を開く。
「そもそもの話、現在の私達に拘束権限が無いだけであって、里身防衛官を保護すること自体はそう難しいことではない。現時点での資料を司法局へ提出すれば、ほぼ間違いなく令状が発行されるだろう」
現状、日本支部に所属する自分たちは戍孝に対する拘束力を持っておらず、監察官であるアートが司法局へ報告し令状が発行されることではじめて発生するのだ。
「だったら何故そうしないんだ?」
「嫌でもそうすることになるさ、このままいけばな。だが、お前はそれが正しいと思うか?」
「……分かんねぇよ」
アートは「そうか」と短く答えると、浅く目を伏せながらぽつりと言葉をこぼす。
「私もだ……迷っている」
「迷う余地なんてあるのか? 監察官の任務は事実をありのまま報告することだろ?」
「違う。監察官の任務は――真実を見極めることだ」
アートは首を横へ振ると、きっぱりとそう言い切った。その言葉に微かな疑問を覚える。
「それは……アイツが嘘を吐いているってことか?」
「それは本人にしか分からないことだ。だが逆に問うが、お前は里身防衛官の言動の全てが本心だと思うか?」
その言葉を改めて己自身へ問いかける。戍孝の言葉が全て嘘だったとは思えない。しかし全てが本心だったかと問われると、それも違うように思える。
違和感の芽となっているのは戍孝との会話のなかで覚えた奇妙な感覚だった。
会話とは言わずもがな、他者を理解する上で非常に重要なものだ。人は言葉によって感情を表現することが可能な生き物であり、そして熾烈な感情は自然と言葉に表れる。聞き手はそこに感情を覚えるからこそ共感し、内容如何によらず理解しやすくなるものだ。しかし、戍孝との会話にはそれがほとんど感じ取れなかった。
例えば学生が授業中に読み上げる教科書の内容のように、ただ目の前にある正論を並べ立てているだけのように聞こえた。いくつの言葉を交わせども、言葉が心を素通りし、打てども打てども響かずに、まるで雲を掴むかのような――いや、初めからそこに存在すらしていないかのように、戍孝戍孝という人物の核たる部分が、その本質が、まったく窺えなかった。
とは言えこの感情に確信は無く、現時点ではただの願望でしかない。
幼稚な感情だとは思う。独善的だ――とも。
だからこそ受け入れ難く、しかし切り離し難い感情だ。
「……俺だってそうは思いたくないさ。でも、それは俺の願望というか……希望的観測にすぎないだろ?」
「確かに希望的観測は妄信するべきものではない。だがそれを否定しきる要素がないのであれば、簡単に切り捨ててはいけないのもまた事実だ」
アートは物思いに耽るかのように目を伏せると、
「監察官になって学んだことがある。それは、人間はあまりに曖昧な生き物だということだ」
そう呟き、独白するかのように言葉を続ける。
「全てが真実で構成された者は誰ひとりとしておらず、その逆もまた然り。だがそれは、目に見えるもの全てが真実とは限らないということでもある。そして皮肉なことに、真実よりも嘘を信じるほうが容易いものだ。だからこそ監察官は常に目の前の事実を妄信することなく、真実を見極めなければならない」
アートは瞼を持ち上げると、こちらへ視線を流しながら言葉を続ける。
「アタミ、そもそも人は何故嘘を吐くと思う?」
哲学的な問いに頭を捻るが、答えは浮かばない。
「……そんなこと、考えたこともなかった」
それが素直な感想だった。アートはそんな間抜けな答えを笑うでもなく、僅かに目を伏せるだけだった。そもそも正解のある問いには思えない。初めから答えを求めていたのではなく、思考させるためだったのだろう。
「私は……救われたいからだと思う。その内容の善し悪しに関わらず、嘘とは救いを求める心から生まれるものだと」
「救いを求めるからこそ、嘘を吐くってことか?」
「ときに真実が人を傷つけるのならば、嘘が人を救うこともある」
「……どうしてそんなことが分かるんだ?」
「……嘘に救われた者を知っているからだ」
悲しげに呟かれたその言葉が、無性に心をくすぐる。
「仮にその通りだとしたら、それこそおかしくないか? アイツの自己懲罰は既にデストルドーと呼べる段階にまで至っている。発言の真偽はどうあれ、戍孝の行動がそれを示しちまっているだろ?」
「だからこそ私は違和感を覚えているんだ。表面上の行動がその者の本心を表しているとは限らないからな」
アートはそこで短く句切ると、再三問いかけてくる。
「アタミ、里身防衛官の目的は何だ? 何のために閉鎖区域へ向かっている?」
「それは……顕霊と戦うためだろう?」
「顕霊と戦うことで、霊災を止めようとしていると?」
「そういうことに……なるんじゃないか?」
「それはどうだろうな。仮にも士官なのだ。自分の行動が無意味であることくらい自覚しているはずだ」
末端の小物をいくら叩いたところで釜底の薪を抽かなければ意味はない。それは誰の目にも明らかなことだ。
「だったら、そうだと分かった上で自分自身を制御することが出来ていないんじゃないか? デストルドーってのはそういうもんだろ?」
「ならば、真の目的は死による自己懲罰だと?」
「だからこそアイツは己の危険を顧みず、丸一日以上も渓谷で……」
――丸一日以上も……?
己の言葉に微かな違和感を覚える。それは戍孝との会話の中で覚えたものに近しい感覚だ。
「……話してみろ」
こちらの無言から何かを悟ったのか、アートが静かにこちらの言葉を促した。
初めはひとつの違和感だった。そこから芋づる式に湧き出る疑問をぽつりぽつりと口にしてゆく。それらの疑問や矛盾を整理するうちに、ひとつの可能性に至った。
「……なるほど。考えられない話ではないな」
黙って腕を組んだままこちらの話へ耳を傾けていたアートがそう言葉を零すと、
「それで、お前はどうする? あまり時間は残されていないぞ?」
そう言ってこちらを真っ直ぐに見据える。
ひとつの可能性には至った。しかし、やはり確証がないことに変わりはない。行動するための根拠としてはひどく弱いものだ。
それに行動するにしても、自分は全ての責任を一人で負いきれる立場ではない。問題を起こせば、その責任は必ず誰かに波及する。それは例えば隊長である先生や、担当監察官であるアート。知り合ったばかりのシオンやドロシーさんだって無関係では済まない……だからこそ迷いが生じる。
こちらを見据えるアートの瞳がひどく眩しく思える。
「お前は……強いな、アート」
「……強い?」
「俺はアイツの真意を汲み取ろうとすらせずに感情論で否定して……一度は背を向けた俺が、今更どんな顔してアイツの前に立ったらいいんだ」
「背を向けた……か。それでもお前は、逃げた訳じゃないだろう。ただ逃げたのであれば、そのように悩んだりはしない。お前は……理解しようとしたんだ。理解から最も遠い感情は憤怒や憎悪などではなく、無関心だ。否定の感情も、相手を知ろうとしなければ湧いてはこない」
アートはそこで短く言葉を句切ると、
「お前は最初の一歩を踏み出した。しかしこれ以上踏み込めば互いに傷付くことになるかもしれない――だからこそお前は無意識に距離を開けた。ヤマアラシのジレンマ……と言うには少しばかり不恰好だがな」
ヤマアラシのジレンマ――確かショーペンハウアーの寓話をもとにした心理学用語だっただだろうか。針毛に包まれたヤマアラシは寄り添うことで相手を傷つけてしまうため、相手を想うが故にあえて距離を取るという。
「肝要なのは、今お前がそれを自覚したということだ。その上で歩みを続けるかどうか――それを決めるのがお前の責任だ」
「……責任」
「何が正しいかなんて誰にも分からない。それでもいつかは決断しなければならない。だからこそ、燧隊長は少しでも後悔しないように考えろと言った。そして考え抜いた末に出した答えならば、あの方は否定しないだろう」
何度も反芻した先生の言葉。その意味が、今なら分かる気がする。
「燧隊長はお前のことを信じている。お前の行動が正しいことを信じているのではなく、お前が正しくあろうとすることを――信じているのだ」
そこまで言うと、アートは欄干から背を離して踵を返した。
「……これ以上の問答は不要だ。後は己の内に問い、そして――悔いのない答えを見つけ出してみせろ」
そう言って宿屋へ向けて歩き出し、数歩進んだところで足を止めると、背中越しに声をかけてくる。
「お前が決断するのであれば、私も監察官として――最後まで見届けよう」
「……ああ。ありがとな、アート」
アートは振り返ることなく再び歩み出すと、そのまま宿屋の中へ消えていった。
もう少し夜風に当たっていたい気分であったため、宿屋へ背を向けると、ゆっくりと歩みを進めていく。夜空を仰ぎ、月に向かって溜息を吐く。白い息でも吐ければ多少の情緒は感じられただろうが、いかんせん夏日にそれも叶わない。
月はそんな自分を嘲笑うこともせずに、ただ静かにこちらを見下ろしている。
十年前、あの夜もこんな綺麗な満月だった。
先生と出会うまでは、月が満ちる度にこうして月を見上げていた。
まるで、あの夜を懺悔するかのように。
自分は多くの人に救われてきた。今こうして空を見上げていられるのも、そのおかげに他ならない。それがどれほど有難いことなのか、今になってようやく理解出来る。
自分は救われた人間だ。だとすれば――いや、そんな自分だからこそ、出来ることがあるのかもしれない。
それは……一体何だ?
犬江室長は優しく支えてくれた。
先生は背中を押してくれた。
そしてアートは、生きる意味を与えてくれた。
そんな自分にできること……それは――
懐から端末を取り出して発信すると、程なくして通話が繋がった。
「……先生、頼みがある」