十二話 燻り
安房分室情報棟、第一資料室の室内に紙を掻く音が響いている。
ペンを走らせる手を止めると、小さく息を吐いて壁掛け時計へ目を移す。七月十二日午前八時二十三分。養老渓谷の霊災が発生してからおよそ五日が経過していた。
あの日、自分は霊災発現の瞬間に遭遇し、そして九死に一生を得た。四日前、病院のベッドで目を覚ましたとき、霊災は既に鎮静化していた。
しかし全てが終わった訳ではない。霊災は完全に不活化した訳ではなく一時的に休眠しているようなもので、現在、養老渓谷はその全域が閉鎖区域に指定されている。
霊災が鎮静化したことを受けて日本支部はすぐさま捜索隊を編制し、三日間に及ぶ生存者の捜索活動が行われた。
死者四十六人、行方不明者百七十二人。それが連盟によって公開された被災状況だ。
そしてその中には――犬塚隊長の名前もあった。
先生の話によれば犬塚隊長はあの後から行方が分かっておらず、捜索隊によって村雨だけが回収されたらしい。
ふと、握り締めていたペンが軋む音で我に返る。白くなった指を解いてペンを机の上に転がすと、物憂い気分を吐き出すように深く溜息を吐く。
先生やアートは数日前から諸所を駆け巡っているため、顔を合わせていない。一人になりたい気分だったので、それ自体は有難かったが。
霊災を思い返し、自問自答を繰り返す。
あの日は生と死の境界線上で綱渡りをするような一日だった。散々な目に会ったが、今思い返せば自分は運が良かった。どれかひとつでもピースが欠けていたら、今頃自分は生きてはいなかっただろう。
いや、自分は救われたのだ。
先生に、アートに――そして犬塚隊長に。
だからこそ、その恩に報いたいと思う。しかし自分にできることは限られている。幸か不幸か、先生がいない分の雑務が山ほどあったので、我武者羅に仕事に打ち込んできた。
無論、雑務を軽んじているつもりはない。しかしどうしても、やり切れない思いに駆られてしまう。だが、こんなことを考えていても仕方がない。
何度目か分からない溜息を吐き、頭を振って書類へ向き直った直後、入り口からノック音が聞こえた。返事をする間もなく扉が開かれたかと思うと、先生の後に続いてアートが部屋へ這入ってきた。
「よっ、お疲れ様。仕事、任せきりにしちゃって悪かったわね」
直接顔を合わせるのは三日ぶりだが、微笑を湛えながら小さく手を掲げる先生の様子は至って普段通りに見える。
先生と犬塚隊長はかつて師弟関係にあり、その付き合いは十五年来のものになる。先生は犬塚隊長についてよく憎まれ口を叩いていたが、内心では尊敬していたように思う。だからこそ先生の態度を非情だとは思わない。内心を推し量ることはできないが、それでも気丈に振舞える強さは見習うべきものだ。
椅子を引いて立ち上がると、表情が固くならないように努めながら言葉を返す。
「構わねぇよ。そっちはそっちで忙しかったんだろ?」
「まぁね。でもこれでようやく一段落ってトコかな」
先生は手にしていた資料の束を机上へ置きながら言葉を続けた。
「先の会議で不活化作戦の決行が正式に決まったわよ。時刻は明日の午前九時。はいこれ、議事録ね」
不活化作戦――霊災を完全に無力化するための作戦であり、目下の懸案事項だ。待ってましたとばかりに飛びつくと、議事録へ目を通していく。
作戦の総指揮は我らが日本支部参謀総長――里見袖露。そのまま眼光紙背に徹するが如く読み込んでいると、捕獲部隊の項で目が止まる。
「これ……本当に〝ブィリーナ〟が来るのか?」
「ええ、本部もそれほど事態を重く見ているってことよ」
先生はソファへ腰を下ろしながらそう言うと、
「犬塚さんが稼いでくれた時間のおかげで、万全の体制で捕獲作戦に臨めるんだもの。失敗は許されないわ」
感情を覚えさせない静かな声で続けた。
「そう……だよな」
呟きと共に、改めて紙上へ目を落とす。
ロシア支部第一特務部隊――ブィリーナ。
数ある特務部隊の中でも最強と名高いが、隊員の秘匿性が高くその能力は未知数であるため最強の部隊と呼ぶのは些か語弊がある。それにも拘わらず最強と謳われるのは、最強の士官が率いる部隊だからだ。
隊長の名は――イリヤ・グロズヌイ。
義務教育を終えた者ならば一度はその名を耳にしたことがあるはずだ。
人は彼を〝生ける伝説〟と呼ぶ。
イリヤは全国で二十人といない、連盟最高位の称号である〝騎士〟を授与された者のひとりだが、伝説とまで呼ばれる所以は別にある。
それは七十余年前の二十六世紀初頭、六花連盟のまで成り立ちまで遡る。
当時、世界の各国は霊災によって奪われた版図を取り戻すべく奮闘していた。
霊災という共通の敵を得たことで、国家間の争いは非常に稀であった――より正確に言えば争うほどの国力が無かったのだ――が、その水面下では版図減少による資源不足が戦争の火種として燻っていた。
各国の情勢に暗雲が立ち込めた頃、アーサーと呼ばれる男が自警団を率いて現れた。
いくつもの防災で名を馳せた自警団は人類の再生を旗印として掲げ、各国を巡りながら方舟の情報を持ち帰るための有志を募った。少数の精鋭が集まる頃には、自警団はアーサー王伝説から名を取った〝円卓騎士団〟と呼ばれるようになっていた。
そして円卓騎士団はついに、世界有数の霊災区域であるアララト山から方舟の情報を持ち帰ることに成功する。
しかし生き残った団員ははゴットフリート・フォン・オルブライトとイリヤ・グロズヌイのたった二人だけであった。そしてその後、生き残った二人によって円卓騎士団を前身とする国際組織、六花連盟が設立されることとなる。
ゴットフリートが逝去した今、イリヤは伝説と化した逸話の、唯一の生き証人なのだ。そんな人物が不活化作戦の中核を担うというならば失敗はあり得ないだろう。
安堵の溜息を吐き、紙上から視線を戻す。
「これで……ようやく終わるんだよな」
「そう願うわ」
「願うことしかできないってのは、もどかしいけどな」
「……そうね。けど、私たちにもできることはあるわ。これから忙しくなるわよ」
先生はそう言いながら、角型封筒をこちらへ差し出した。
「護送任務……?」
封入されていた通達書の文字を読み上げる。護送任務自体は初めてではないが、珍しいことに変わりはない。怪訝に思いながら通達書へ目を通していく。
護送対象は――里身・戍孝防衛官。
「なんか、変わった名前だな。それにこの苗字……誤字じゃないのか?」
「確かに珍しいけど、それで合ってるわよ」
「へぇ……」
疑問はあるが特に追求することもせずに読み進めていくと、護送先の欄に書かれた文字を見て思わず素っ頓狂な声を上げる。
「……青ヶ島!?」
先生はどこか自慢げにひとつ頷くと、
「そう。青ヶ島にある〝フラスコ〟へ要人を護送するのが今回の任務よ」
フラスコは青ヶ島のジオフロントを改造して作られた世界有数の研究所だ。その最下層には言わずと知れた方舟が眠っており、その他にも膨大な技術遺産を擁するフラスコは反政府組織などの標的にされやすいため、数ある施設の中でも随一の警備が敷かれているという。無論、自分のような一介の士官がおいそれと近づけるような場所ではない。
「何でウチにこんな重要な任務が……?」
先生はそこで僅かに口を噤むが、すぐに気を取り直して言葉を作る。
「……不活化作戦に人員が裂かれて、単純に人手不足なのよ。けど、上だって無謀じゃないから無茶振りはしないわ。今回の私たちの役割は〝対象がフラスコへ入場できるようにサポートすること〟よ」
「入場か……そう言えば細かい規定があったような……」
「その中でも私達が協力する条件は二つ。ひとつは〝五名以上の部隊への所属〟そしてもうひとつは〝聖研局に所属する技術士官の同行〟よ」
「でも……ウチってどっちもクリアしてないよな?」
「三人というか、実質二人しかいないからねぇ」
横目でアートの様子を窺うが、彼女は口を引き結んだまま動かない。監察官という立場上、彼女を頭数に挙げるべきではない。
「と言うことで要人の他に二名、一時的ではあるけど隊員が加わることになったわ」
先生は手を打ってそう言うと、新たに二枚の資料を差し出した。紙上へ目を落とすと、見覚えがある顔が並んでいた。
「あれ、この名前って確か……」
呟きながらアートへ視線を向けると、彼女は無言で頷きを返した。その様子を見た先生が書類を団扇のように揺らしながら言葉を作る。
「そう。アートの譚器の開発者とその助手よ。実は今日、これから譚器の正式な受け渡しがあるのよ。前回は色々あって手続きを終えられなかったから」
「ああ……そう言えば……」
そう言葉を零すと、隻翼の黒鳥を従えるアートの姿を思い出す。あの日、アートは緊急事態ということで受け渡しの途中で譚器を持ち出したらしい。
「開発者は譚器の受け渡し後も一定期間のサポートが義務付けられているから、元からアートとは一緒に行動する予定だったのよ。その手続きのついでに任務への同行を頼んでみたら、快く引き受けてくれたってワケ」
「マジか……」
そういった交渉には疎いが、無茶な願いだということは自分でも分かる。頼むほうも頼むほうだが、引き受けるほうも引き受けるほうだ。
「と言うことで、私はこれから別の会議に顔を出さないといけないから、私の代わりにアタミが受け渡しに立ち会ってきて頂戴」
「俺が?」
「そうよ。それにまだ二人に会ったことないでしょ? 顔合わせのついでよ」
それはまた随分と急な話だ。自分は構わないが、アートがどう言うか分からない。それに先方の都合もあるだろう。諸々の気掛かりを窺うようにアートへ視線を向けると、
「先方にも既に許可を取ってある。厚意は受け取っておけ」
「そういうことなら勉強にもなるし、願ってもないことだけど」
すると先生は膝を打ってソファから立ち上がると、
「オーケー。それじゃあ私はそろそろ任務の打ち合わせに行かなくちゃだから、詳細についてはまた全員揃ってから話すわね」
そう言って部屋の出口へ進み、扉へ手を掛けながらこちらを振り返ると、
「二人とも、よろしくね」
そう言葉を残して嵐のように去っていった。
残された二人の間を静寂の帳が降りる。まさに「嵐のあとには静けさが訪れる(After a storm comes a calm)」だ。しかし雑談をする雰囲気でもないので、書類を拾いながらアートを振り返る。
「とりあえず、俺達も行くか」
「……ああ」