十一話 悲壮なる決意
光芒が差し込む渓谷を青嵐が吹き荒び、草葉がオーケストラのようにさざめいた。母なる大地を思わせる泰然とした静寂を踏み潰すようにして、ひとつの音が響いてくる。
背後から迫り来るそれは、地を掻く獣のように粗暴な跫音だ。身体を反転させながら引き金を引くと、薄闇を切り裂くような銃声と共に顕霊が地に倒れ伏した。
泥の上でもがく顕霊を見下ろしながらじりじりと後退し、スライドが後退した銃をゆっくりと下ろす。草いきれに浮かぶ汗をぬぐい、額に張り付いた髪をかき上げる。
一体これで何度目の交戦だろうか。気絶している間に回復した幾許かの体力も、その後の連戦でとうに尽きかけていた。荒い呼吸を繰り返しながらマガジンリリースボタンを押すと、ホルスターから予備の弾倉を抜き取る。これが最後の弾倉だ。先の戦闘でインカムが断線し通信手段も失われたため、状況を確認することも助けを呼ぶこともできない。
――この十三発が尽きたら……。
ネガティブな思考が脳内を掻き乱し、弾倉を差し込む指が震える。体の震えを誤魔化すように拳を作り、自分の額を殴りつける。
――駄目だ……このままでは悪循環だ。
現場で真っ先に綻びを見せるのは肉体ではなく精神だ。そして精神と言う柱を失った肉体はいとも容易く崩壊する。無理にでもこの負の連鎖を断ち切らなければ。
先生であれば、こんな状況でも不敵に笑うのだろうか。
「無情組手、今度から倍にするかな……」
冗談を独り言ちてみても、乾いた笑いしか浮かんでこない。それでも歯を食いしばり、懸命に走り続けていると、周囲をうねる劫波の中に微かな違和感を捉えた。それは懐かしさすら覚える――人間の波長だった。
自分以外にも取り残されている人がいたのだろうか。不安と期待が入り混じった焦燥感に煽られて速度を上げる。
程なくして一体の顕霊を視界に捉えた。しかしその異形は更に拍車がかかっており、胸部から溢れ出した泥の塊は既に本体を超える大きさにまで膨れ上がっていた。
しかし好都合だ。あれではまともに動くこともできないだろう。今は顕霊などに構っている暇はないのだ。
視線を動かして周囲を確認する。先程から劫波は感知できているが、しかし肝心の人の姿が見当たらない。右眼へ意識を集中させて細い糸を手繰るように劫波を追っていくと、その視線はとある一点へ吸い込まれていき――呼吸が止まった。
「やッ…めろぉおおおおおお!!」
そう叫んだときには既に身体は動いていた。顕霊へ突撃すると、膨れ上がった泥の塊へ我武者羅に腕を突っ込む。すると途端に腕から脳へかけて痺れるような不快感が走った。これは精神干渉――自分がおびき寄せられた時と同じ感覚だ。
つまりこの泥はバッカルコーンのような捕獲器官ではなく――捕食器官なのだ。
顕霊は自身の霊脈を獲物の観想終末へ強制的に接続することで観想体へアクセスし、そこに保存された模倣子を捕食する。
そう――この顕霊は捕食しているのだ。
自分ではない――何かを。
歯を食いしばって意識を強く保ちながらより深く腕をねじ込むと、指先が何かに触れた。それを掴み、全力で引き抜く。
泥の中から現れたのは女性だった。力なく眼を伏せたその女性を担ぎ上げると、急いでその場を離れる。顕霊は膨れ上がった自重で動けないのか、追いかけてくることはなかった。十分な距離を取ったところで、女性を樹の根元へ降ろす。
「大丈夫ですか!?」
肩を揺すりながら声をかけると、女性はゆっくりと目を開けた。
「……だれ?」
「俺は情報官のアタミ・ヴィリヤカイネンです。あなた、自分の名前は分かりますか?」
「わ、たし……は……だれ?」
強い精神干渉を受けた者は感情鈍麻に陥ることがあり、彼女にはその兆候が見られる。意識が混濁しているらしく、受け答えも意識的なものではなく反射に近い。
その上、女性の体から放たれる劫波はまるで荒波のようだ。
彼女の身に何が起きているかは明白だった。模倣子を捕食されたことで観想体が不活化し、体内聖霊の暴走によって乖魂病が急速に進行し始めたのだ。
「しっかりして! 意識を強く持ってください!」
女性の身体を一層強く揺すりながら必死に声をかけるが、しかしその呼びかけに応える様子はなく、虚ろな瞳を虚空へ彷徨わせながらぶつぶつと独り言ちる。
「くら……い……。……ど……こ……。だれ……か……」
体内聖霊の暴走に反して、彼女の瞳からは徐々に光が失われていく。
命の灯が――消えていく。
そして手を尽くす間もなく、女性が大きく瞠目すると――そのまま動かなくなった。
右眼にはもう何も映らない。
「……オ……ェ……」
視界が暗転して地面に膝を突き、逆流した胃酸を撒き散らす。右眼に激痛を覚えながらが何とか体を起こすと、女性の瞼へ手を伸ばす。
瞼を降ろせば、少しは救われるだろうか。
いや――有り得ない。
死者は喜ぶことも、悲しむことも、怒ることもできない。
こんなことで彼女が救われるだなんて、罪の意識を軽くしたいがための思い込みだ。
全ては自分のための偽善的行為に過ぎない。
そう理解していても、伸ばす手を止めることはできなかった。
指先が女性の瞼に触れかけた――その刹那、右眼が横方から迫り来る劫波を捉えた。
咄嗟に後方へ跳ぶと、顕霊が直前まで自分が居た場所へ着地した。それに続いて低木の奥から複数の顕霊が姿を表すと、低い唸りを上げながらこちらへにじり寄った。
同じ距離を後ずさると、顕霊の背中越しに女性の虚ろな瞳と目が合った。そこには何の感情も映されてはいない。
すぐにでもこの場を離れなくてはならない。本能が警鐘をかき鳴らすが、まるで視線が固く結ばれてしまったかのように眼を逸らすことができなかった。
自身の中に渦巻く感情を理解することができない。
悔悟? 悲憤? 哀惜?
不の感情をありったけ煮詰めたどす黒い泥が今にも口から溢れ出しそうだ。
しかしその間にも顕霊はこちらを品定めするように、じりじりと詰め寄ってくる。
このまま動かなければ自分も彼女と同じ道を辿ることになる。この場所でいくら懺悔したところで、彼女が蘇ることはないのだ。ならば、自分が今やるべきことはひとつしかない。
顎の骨を砕かんばかりに歯を食いしばると、瞼を強く閉じて視線を断ち切る。
――ごめん。
心の中でそう呟くと、女性へ背を向けて遁走する。
「……くそッ」
自分は何のために戦っているのだろう。
これでは十年前と何も変わらない――無様で無力な存在だ。
「……ちくしょうがァあああああああああ!! 」
やり場のない怒りを咆哮へ乗せて吐き出しながら無我夢中で足を動かす。しかし我武者羅に走ったことで、体力はすぐに底をついた。
肺が焼けるような熱を持ち、足が鉛のように重い。そんな弱った獲物を追い詰めるように新たな顕霊が四方から姿を表した。
獣のように飛び掛る顕霊を避けようと力を込めるが、足が棒のように動かない。横薙ぎに振るわれた顕霊の爪を咄嗟に腕で防御すると、鈍い衝撃と共に骨の軋む音が聞こえた。
樹幹へ叩きつけられ、肺から血を含んだ空気が押し出される。間髪を入れず襲い来る顕霊に対して必死の防御態勢を取ると、奥歯を噛んで衝撃に備える。
しかし予想とは裏腹にこちらへ届いたのは微かな風切り音だった。視線を上げると、濡れたように煌く刀が顕霊の頭蓋を貫いて樹幹へ突き刺さっていた。
皓皓たる刀身はまるでそれ自体が発光しているかのような淡い天色を纏っている。これほど美しい刃は未だ嘗て見たことがない――しかしそれを包む典雅な刀装には見覚えがあった。
刀の銘は村雨――古今無双の譚器だ。見れば先程までは即座に再生していた顕霊が、光の粒子となって虚空へ溶けていく。
この反応は霊蝕――特定の条件下でのみ発生する聖霊の不活化現象だ。この顕霊は霊蝕によって骨子となる霊脈を破壊された事で、元来の姿へ回帰しているのだろう。
「刀を!」
事態を把握しきれずに唖然としていると、聞き覚えのある声に現実へ引き戻された。咄嗟に樹幹から村雨を引き抜いて声の主へ投げ渡す。
節くれだった指が村雨を掴んだ直後、無数の閃耀が空を走ると、周囲の顕霊が千々に裂かれていった。淡雪のように溶けていく残光の中心に、見知った姿がある。
「犬塚……隊長……!?」
犬塚隊長は流れるような所作で村雨を鞘へ収めると、こちらへ手を差し出した。
「立てるか?」
「ありがとう……ございます」
差し出された手を取って立ち上がると、目下の疑問を口にする。
「隊長、その女性は……」
見れば犬塚隊長は肩にぐったりとした女性を担いでいる。
「心配は要らない、気を失っているだけだ」
犬塚隊長はそう言うと、女性を慎重に担ぎなおした。その言葉に安堵の息を吐く。気になることは山程あるが、真っ先に確かめておかねばならないことがある。
「犬塚隊長がいらっしゃるということは……ここが最前線なんですか?」
そう言いながら周囲を見回す。報告によれば白驟雨が防衛に当たっている筈だが、それにしては人の気配が全く感じられない。
「……やはり、知らなかったか」
犬塚隊長はそう呟くと、なおも毅然とした態度で言葉を続ける。
「十数分前、参謀本部は最終防衛ラインを関所まで後退させた。白驟雨も既に私の指示で撤退させてある」
「撤退……? どうして……」
「事態は想像以上に深刻だということだ。君の眼なら……そろそろ見えてくるだろう」
犬塚隊長の視線を追った先に見た信じ難い光景に、すうっと全身から血の気が引いた。
迫り来る劫波は波なんてものではない。数先数万と折り重なり、こちらを飲み込まんとする巨大な存在感はまるで海そのものだ。
絶望感すら飲み込まれ、心中には虚ろな無力感だけが残されている。
抗う気など微塵も湧き上がらないが、しかしそれを恥ずかしいとは思わない。当然だ――あんなものは人間がどうこうできるレベルを遥かに超えている。
「早く逃げましょう! このままでは飲み込まれます!」
「……それはできない」
犬塚隊長は危機的状況にも拘わらず、極めて平静な口調でそう言った。
「防衛線を押し込まれ、避難も間に合っていないのが現状だ。ここを突破されれば、霊災は関所ごと人々を飲み込むだろう」
「だったら……一体どうすれば……」
冥冥の裡に零れた言葉に対して、犬塚隊長は静かに言葉を作る。
「あれは……私が止める」
「なッ――!?」
耳を疑う台詞に息を呑むが、何とか絞り出すように言葉を続ける。
「で、ですが犬塚隊長は既に戦える体ではないと……」
隊長の決定に口を挟むなど烏滸がましいことは重々承知だが、それでも言わずにはいられなかった。犬塚隊長は先生と同じく、とある事件が原因で観想領域に深いダメージを負っている。
戦えないからこそ――前線を退いたのだ。
「だが、力を失った訳ではない」
そんなことは分かっている。しかしそれは詭弁だ。
村雨を起動するだけでも観想領域への負荷は相当なはずだ。そのうえ譚奏術まで発動すれば間違いなく無事では済まない。文字通り命を賭けることになるだろう。いや、賭けるなどという次元ではない。こめかみに銃口を当てて引き金を引きくようなものだ。
「……死ぬおつもりですか?」
口端から零れ落ちたその言葉に犬塚隊長は浅く眼を伏せると、
「誰がために命を賭して戦う――それが、私の選んだ道だ」
堂々たる態度で悲壮な決意を示した。
これが――これこそが英雄と呼ばれる所以か。
それに対して自分はどうだ?
震える掌へ視線を落としながら己へ問いかける。
犬塚隊長のように死をも厭わぬ強い意志があれば、誰かを救えるのだろうか。
この場所に留まれば間違いなく命を落とす。全身が今すぐ逃げろと警鐘を鳴らす。しかしどうしても、亡骸となった女性の瞳が脳裏から離れない。
震える手を誤魔化すように拳を作ると、息も絶え絶えに言葉を絞り出す。
「だったら……俺も残ります。俺もここで……戦います」
今、己の身体を突き動かしているものは勇気などではない。自らの贖罪のために彼の正義にあやかろうとする、極めて後ろ向きな感情だ。
「……娘と同じことを言うのだな」
犬塚隊長は少しだけ寂しそうに微笑むと、そう言って女性の身体を慎重に抱え直した。その優しげな所作に確信を得る。
「やっぱり……娘さんですよね。どうしてここに?」
「追いかけてきたそうだ。独り残る私の身を案じて、こんなところまで……」
犬塚隊長は眉尻を下げながら瞼を伏せて、しかし口端に笑みを湛えながら言葉を作る。
「情動に絆されることを悪と言うつもりはない。君や娘の気持ちも嬉しく思う。だからこそ力を貸してくれると言うなら、ひとつ頼まれて欲しいことがある」
犬塚隊長は噛み締めるように伏せた瞼をおもむろに持ち上げると、遠方から迫り来る巨大な劫波を見つめながら言葉を作る。
「このままいけば十分と待たずにぶつかることになる。娘を守りながら戦えるような相手ではないが、私はここを離れる訳にはいかない。だから――」
そう言って振り返ると、こちら真っ直ぐに見据えながら言葉を続ける。
「――娘を関所まで連れて行って欲しい。私の代わりに、娘を守ってやって欲しいのだ」
息が詰まり、少女の虚ろな瞳が脳裏を過ぎる。
「……できません」
力なく項垂れると、懺悔するように震える唇から言葉を零す。
「十年前も、今日も……俺は誰も救えませんでした」
その言葉を皮切りに、胸中の悔恨が言葉と成って溢れ出す。
「俺には……誰かを救う力なんてない……。娘さんを守るなんて……できません」
こちらの言葉へ静かに耳を傾けていた犬塚隊長が、やがて短く言葉を作った。
「死が怖いか?」
「……怖いです」
質問の意図は理解できなかったが、その瞳に促されるまま言葉を零していく。
「自分が死ぬことが……誰かの死を目の当たりにすることが……。そしてなにより……自分の弱さが誰かを殺すことが……怖い……」
現実逃避だということは自覚しているが、それでも尋ねずにはいられなかった。
「どうすれば……隊長のように強くあれるのですか?」
「その問いに答えることができるのは他でもない君だけだ」
犬塚隊長はきっぱりとそう言い切った。厳格だが、しかし突き放すのではなく、共に寄り添い激励するような口調だ。
「君は既に答えを得ている……だからこそ、今この場所にいるのではないか?」
「それは……」
そう言われても心当たりはない。それでも、その言葉を信じて必死に思考を廻らせる。
「これまで生きてきた中で、君の前には多くの選択肢があったはずだ。それでも君が戦う道を選び続けたのは、諦められないものがあったからではないか?」
「諦められないもの……?」
凍て付いた意志に微かな火が灯り、導かれるように己の心へ触手を伸ばしていく。
どうして自分がこんな理不尽に苛まれなければならないのか、どうしてこれ以上苦しまなければならないのか――事件の夜から十年間、数え切れないほどの自問を繰り返してきた。
辛いとき、苦しいとき、悲しいとき――何度も何度も己に問いかけた。
訓練の中で血反吐を吐いたとき、気絶するまで教本に齧りついたとき――死ぬほど辛いことは何度もあった。それでも、答えが変わることは一度もなかった。
何故なら、己の無力と後悔を噛み締めるだけの日々は――死ぬよりも辛かったからだ。
だからこそ後悔するだけの日々を繰り返さないために、二度とあのような悲劇を起こさないために――戦い続けると決めたのだ。
「あります……どうしても、諦められないものが」
犬塚隊長はどこか遠くへ思いを馳せるように目を伏せながら「そうか」と呟くと、
「先程私は誰がために戦うと言ったが、あれは見栄だ」
少しだけ先生と似た悪戯っぽい笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「私も諦められないもの――何よりも大切なもののために戦っているにすぎない」
「隊長の大切なものって……」
「娘が生きる――この世界だ」
犬塚隊長は遠く空を望むと、まるで祈るようにそう言った。
それほどまでに大切な娘を、こんなにも頼りない自分に、それでも託そうと言った。
犬塚隊長にとっても断腸の思いであったことだろう。期待や責任――自分とは比べ物にならないほどの柵の中で、それでも最善を尽くそうとしている。
それに対して自分はどうだ?
後悔と言い訳ばかりで何も成そうとしていない。その先にあるものの恐ろしさを、自分は知っているはずなのに。
慙愧に堪えない。忸怩たる思いだ。
だが後悔する機会が与えられているだけ、自分は幸運なのだろう。
まだ――遅くはない。
自分に取れる最善は既に示されている。
「犬塚隊長……お願いがあります」
拳を強く握り締めると、犬塚隊長の双眸を真っ直ぐに見つめながら言葉を続ける。
「娘さんを関所まで送らせて下さい」
犬塚隊長は深い笑みを浮かべると、慎重に少女を肩から降ろした。
「君は痛みを知り、弱さを知り、そして……それに抗うことができる。そんな君だからこそ娘を任せられる」
少女を受け取り、しっかりと肩に担ぐ。ずしりと圧し掛かる――命の重さだ。
「必ず……必ず無事に送り届けます。ですから、隊長もどうかご無事で」
犬塚隊長はひとつ頷くと、
「ヴィリヤカイネン情報官……いや、アタミ・ヴィリヤカイネン。君は誰も救えないと言ったが、君のおかげで私は娘を巻き込むという最悪の選択肢を取らずに済んだ。それは、私にとってこれ以上ない救いだ」
そう言って踵を返し、背中越しに言葉を続けた。
「やはり、君に会えて良かった。娘を――頼む」
その背中へ精一杯の目礼を返すと、関所へ向けて走り出す。
身体の震えはもう止まっていた。
迫り来る巨大な劫波を正面に捉えながら、村雨の柄頭に手を置く。
「お前にも世話になったな。これからは私の代わりに、あの子を助けてやってくれ」
目を伏せると、娘の様々な表情が走馬灯のように脳裏を過ぎる。
「……誕生日、祝ってやれなかったな」
内心で娘と妻の名を呼び、謝罪の言葉を紡ぐ。
「それでも、あの子の未来をせめて笑顔で見守れるように――ここから先は一歩たりとも通しはしない」
瞼を持ち上げて柄を握ると、言葉と共に村雨を抜き放つ。
「――連理開放」
犬塚隊長の下を離れて数分と経たずに、背後で二つの巨大な劫波がぶつかり合った。
「隊長……ッ」
強く後ろ髪を引かれるが、それを振り切るように前だけを見据えて走り続ける。しかしその間にも顕霊は立て続けに現れては、こちらの行く手を阻んできた。
銃で接近を牽制し、徹底的に交戦を避けていくが、それでも身体の動きは徐々に重く鈍くなっていく。疲労による一瞬の隙に接近を許し、横薙ぎに振るわれた腕を紙一重で避けつつ顕霊の膝を打ち抜くと、USPのスライドが後退したまま停止した。
「くッ……」
USPを投げ捨てると、我武者羅に足を動かす。
武器は無くなった。後は走り続けることしかできない。
両足の感覚は既に無くなっていた。全身が痺れるような熱を持ち、視界が白く霞む。
今にも意識を失いそうだ。
その刹那、がくん――と景色が空へ落ちた。膝が地に落ち、上半身もそれに続いて倒れようとする。咄嗟に空いた手で地面を受け止めると、手首に激痛が走った。肘を緩衝材として少女を庇うように逆の肩から地面へ倒れ込む。
口内の泥を吐き出しながら必死に呼吸をする。立ち上がろうと地面に爪を立てるが、膝が言うことをきかない。もう少女の体重を支えるだけの余力さえ残されていないらしい。
少女を地面へ降ろすと、膝に手を突いてやっとのことで身体を起こす。
関所まであと僅かだ。少女を抱えていなければまだ動ける。ここへ置き去りにすれば、自分は逃げきれるかもしれない。
「……ハッ」
反吐が出る。そんな選択は死んでもごめんだ。
枝葉を踏み締める音に振り返ると、背後から複数の顕霊が唸りを上げながら迫っていた。顕霊はこちらを遠巻きに包囲すると、獲物を品定めするように顎を震わせる。
深く息を吸い込み、顕霊の空ろな眼窩を真っ直ぐに見据えると、
「もう……誰も……」
少女を背にして震える両腕を大きく広げながら、魂を振り絞るように咆哮する。
「……死なせねぇ!」
顕霊が怨声を撒き散らしながら凶爪を振り上げた――その刹那、渓谷の静寂を切り裂くような銃声が鳴り響くと、顕霊の頭部が弾かれたように大きく仰け反った。
呆気に取られたまま振り返ると、美しい金髪を上風に靡かせた女性が、掲げた銃を静かに降ろしていた。その周囲を蛍のような寂光が漂いながら一虚一盈している。
「アート……?」
その幻想的な光景に我が目を疑い、冥冥の裡に言葉を零す。あまりの絶望的状況に幻覚を見ているのだろうか。
「よくやった、アタミ。後は任せろ」
いや、その毅然とした口調は紛れもない彼女のものだ。瞠目するこちらの横を通り抜けて顕霊の前へ進み出たアートが再び銃を構えながら口を開く。
「譚器開放――」
小さく紡がれたその言葉に呼応するように、銃身から光が溢れ出した。その幻想的な光景に羽化という言葉が自然と思い浮かぶ。
非物理的なその光の正体は――星幽光。聖霊の活性化に伴う特殊な劫波であり、受容することで光を見たような錯覚に陥ることからこう呼ばれている。
銃から放たれる星幽光は先程までのような白色ではない。矛盾を孕み、畏怖すら覚えるそれは――漆黒の光。現実にはあり得ない、劫波が見せる幻視だからこその幽暗な輝きだ。
星幽光が銃口へ収束していくと、やがて輝きが臨界点に達し――同時にアートが引き金を引いた。銃声の代わりに響いたのは、澄んだ笛の音のような高音だった。星幽光がマズルフラッシュのように炸裂すると、光の幕を突き破るようにして何かが放たれた。肉眼には影のようにしか映らなかったそれを、右眼ははっきりと捉えていた。
それは――彗星のような尾を引きながら放たれた黒色の弾丸だった。飛翔する弾丸が顕霊を打ち抜くと、その体が光の粒子となって霧散していく。村雨のときと同じ現象だ。
しかし顕霊は怯むことなくアートへ襲い掛かる。獣のように跳躍し、腕を振り下ろそうとした顕霊が背後から打ち抜かれた。
顕霊を打ち抜いた弾丸が慣性を感じさせないほどの速度で旋回すると、まるで意思を持った生き物のように木々の合間を飛翔しながら顕霊を次々と貫いていく。
最後の顕霊を貫いた弾丸がアートの元へ帰還すると、ゆったりとした速度で彼女の周囲を旋回した。先程までは気付かなかったが、弾丸から薄絹のような何かが展開している。
――翼?
それは弾丸ではなく――隻翼の黒鳥だった。
その正体は変異した聖霊の集合体――顕霊と本質を同じくするものであり、そこにある違いは偏に人という意思の介在だけだ。
疑問は山ほどあるが、しかし脅威が去ったことによる安心と疲労からか、身体がどっと重くなり、視界がブラックアウトしていく。
薄れゆく視界の中で、アートがおもむろにこちらを振り返った。