一話 悪夢のような
まどろみから這い出すように瞼を持ち上げると、視界には夜陰に包まれた聖堂が広がっていた。入り口から奥へ伸びる身廊と、それを挟むように並べられた木製の長椅子。翼廊を越えた先に広がる内陣には簡素な造りの祭壇が置かれている。
朦朧とする意識の中で頬に硬く冷たい感触を覚えたことで、今更ながら自分が床に倒れ伏していることに気付く。
全身が圧迫されてひどく息苦しい。喘ぐように鎌首をもたげると、全身へ覆いかぶさるように微かな温度を持つ何かが圧し掛かっていた。
「お義父さん……?」
義父は眠るように目を伏せたまま、全身をだらりと弛緩させている。
「お義父さん……重いよ……」
もがくように義父の下から這い出すが、やはり反応は無い。薄明かりの元に倒れ伏す義父へ手を伸ばしたところで、ふと違和感を覚えた。
――明かり?
ここは夜の屋内だ。照明も今は全て落とされている。それにも拘わらず、辺りはどこか幻想的な仄明るさに満たされていた。
降り注ぐ斜光を追って持ち上げた視線の先に信じ難い光景を見て思わず息を呑む。
そこには崩落した天井から顔を覗かせた満月があった。壁に嵌め込まれていたステンドグラスは無残に割れ落ち、空虚な窓枠から淡い月華を誘い入れている。
事態の異常性に気付いたことで意識が急激に覚醒する。
「お義父さん! 聖堂が!」
慌てて義父の肩に手を掛けた瞬間、掌に不快な感触を覚えて咄嗟に手を放すと、赤黒い液体が手首を伝って滴り落ちた。
「え……?」
視界が溶けるように歪むと、脳が事態の理解を拒むように酷い頭痛が襲いかかる。放心したまま周囲を見回すと、聖堂の至る所に崩落した瓦礫が散乱しているのが見えた。
「お義父さん……アート……」
嗚咽混じりの声を振り絞りながら視線を泳がせていると、翼廊付近に積み重なった瓦礫の下で何かが蠢くのが見えた。その正体に気付いた次の瞬間、頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
それは、ひとりの少女だった。
月を溶かしたような美しい金髪を床へ流した少女は、助けを求めるようにか細い腕をこちらへ伸ばしている。
「ア……タミ……」
少女の絶え入るような声が微かに届いた。
「アート!?」
擦れた声で少女の名を叫ぶ。喉が痛んで鉄の味が口内に広がるが知った事ではない。
少女の下へ駆け出そうとした次の瞬間、視界に映るもうひとつの存在に気付いて背筋を刺すような悪寒が走った。不可視の腕に掴まれたように身体が硬直する。
少女の背後、祭壇の手前にひっそりと佇む影がある。
それは古びたローブを纏う老人だった。
深い皺が刻まれた男の顔は左半面が大きな火傷跡で覆われており、無造作に伸ばされた白髪の奥から闇を映したような黒の隻眼が静かにこちらを見下ろしていた。
敝衣蓬髪の姿からは考えられないほど強大な気配に、知らず呼吸が止まる。
永遠にも感じられた一瞬の後に男が音もなく腕を掲げると、その掌上に影が収束し始めた。それは物質からは程遠く、例えるならば削り取られた空間に取り残された〝無〟そのものを連想させた。
蠢く影はやがて一本の槍を形作る。穂先が向けられた先には、少女の姿があった。
次の瞬間、心臓を氷の手で握り潰されるような感覚が襲った。
――知っている。
「……や……めろ……」
恐怖に萎縮する喉を懸命に震わせて声を振り絞る。
――この先の現実を知っている。
「やめ……ろ……ぉ……ッ」
床に爪を立てて掻き毟るように体を引き起こし、がむしゃらに床を蹴って走り出す。
直後、男の手から槍が放たれた。
「アートォオオオオオオ――――ッ!!」
少女の名を叫び、手を伸ばす。
――こノ手は……。
「―――」
声が聞こえる。
「――ミ」
ひどく切迫した女性の声だ。
「アタミ!!」
その声に薄く瞼を持ち上げると、霞がかった視界は一面の緑に覆われていた。
ひどい頭痛がする。意識が朦朧として自身の置かれている状況が上手く把握できない。
ただひとつ思い当たるのは、先程から聞こえている声の主だ。しかし聞き慣れた筈のその声に、何故か微かな違和感を覚えた。
次の瞬間、脳裏に聖堂の光景がフラッシュバックする。
未だにリフレインする少女の声と、耳元に響く女性の声が重なった。
二つの声の主が同じ人物であることは直感できた。しかし前者がまだ幼さを残した少女のものであるのに対し、後者は既に変声期を迎えた大人のものだ。
意識が覚醒に向かい始めたことで徐々に現実が輪郭を帯びていく。ここにきてようやく先程まで見ていた聖堂の光景が夢であることを理解した。
そう――あれは遠い過去の記憶。
十年前――当時十一歳だった自分を襲った、まさに悪夢のような現実だ。
「返事をしろ!! アタミ!!」
耳に装着されたインカムの向こう側で、女性は未だに自分の名を呼び続けている。震える指でスロートマイクのスイッチを押すと、
「よぉ……アート……」
血の味がする喉から零れたのは、そんな間の抜けた返事だった。
「アタミ!! 無事か!?」
その声に今更ながら自分の身体へ意識を向ける。鈍い頭痛はもとより、全身を裂傷特有の焼けるような痛みが走っているが、どちらも大事に至る程ではないようだ。
名を呼ぶアートの声と全身を襲う痛み――こうして見ると、あの夜と近しい状況と言えるかもしれない。なるほど、あの夢を見た理由にも得心がいった。あるいは走馬灯と言ったほうが状況的には正確かもしれない、などと笑えないことを考えながら口を開く。
「……なんとか」
絶妙なバランスで引っかかった樹の枝から落下しないよう身体を起こしながらそう言うと、返事の代わりに安堵の色を含んだ吐息が聞こえた。しかしそんな様子もすぐに身を潜めると、代わりに毅然とした声が飛んでくる。
「状況はどうなっている?」
鎌首をもたげて周囲を確認する。横を見ても下を見ても、目に入ってくるのは青々とした葉と枝ばかりだ。視線を上げると、不自然に開けた梢の隙間から曇天が覗いていた。
意識が完全に覚醒したことで、ようやく自分が置かれている状況を把握できた。いや、より正確に言うなら思い出した。そうだ、俺は――
「交戦中に崖から飛び降りて……なんとか樹に引っかかって助かったらしい」
驚愕とも呆れとも取れる短い間の後にアートの声が続く。
「それで、その場所は安全なのか?」
深く息を吐いて両目を伏せると、右眼に意識を集中させる。
「今のところ周囲に敵の気配は無いが、今後もそれが続くとは限らないだろうな」
「……そうか」
平坦だが、僅かに不安を滲ませた声が返ってきた。
「アタミ……」
アートは言葉を続けようとするが、そこで小さく言い淀んだ。彼女が言わんとしていることは十中八九、自分の状況に関することだろう。それも言い難い類のものらしい。
「アート、お前が通信に出てるってことは、近くまで来てるんだよな?」
「ああ」
自分の記憶が正しければ、彼女は合流するまで時間を要するということだった。その彼女が通信に参加できるほどの距離に居るということは、つまり――
「――俺は、どれくらい気絶してたんだ?」
事態の確信をつく言葉に、小さく息を呑む音が聞こえる。そして逡巡するような短い沈黙の後に、アートの声が届いた。
「……およそ二十分だ」
その言葉に全身が粟立つ。二十分という時間は戦場においてあまりに大きすぎる。
「よく聞け、アタミ。現在全ての防衛部隊は、第一特務部隊を殿として微速後退を続けている。我々増援部隊は既に編成を終えて、十分後に前線と合流する予定だ」
しかもそれが撤退戦ともなれば――
「合流予定地点はそちらの現在位置から北に千五百メール。前線部隊との距離は……およそ九百メートルだ」
――状況は最悪だ。
最前線が九百メートル北にあるということは即ち、今自分が居るこの場所は敵陣の真っ只中だということだ。
咄嗟に左手を制服の内側へ伸ばすが、そこには空のホルスターがあるだけで肝心の得物は無い。それもその筈だ。気絶する直前まで手に持っていたのだから、恐らくは崖から落下した際にどこかへ落としたのだろう。周囲へ視線を配りつつ、努めて平静に答える。
「……分かった」
この静寂もおそらくは台風の目のようなものだろう。何にせよ、これ以上ここに留まる訳にはいかない。二十分もの間無事でいられたことは奇跡的としか言いようがないが、これ以上運否天賦に身を任せるのは紛れもなく自殺行為だ。
アートからの返事は無い。しかし歯噛みする彼女の表情がありありと思い浮かぶような沈黙だった。すると、ややあってから情動を押し殺すような低い声が届く。
「どうするつもりだ?」
その問いかけに即座に答えることはできなかった。選択肢はあれど、それをすんなりと胃の腑に落とせるほど達観してはいない。しかし事ここに至って他の選択肢を模索する時間は残されていなかった。
「最短経路で前線部隊と合流する。無謀は承知の上だが他に選択肢は無いらしい」
最短経路と言えば聞こえは良いが、それは即ち最前線の最も苛烈な戦場へ身を投じるということに他ならない。
やっとのことでそう告げると、アートは消え入りそうな声で「そうか」とだけ呟いた。
話の接ぎ穂を失ったことで重苦しい沈黙が彼我の間を流れる。しかし手を止めるわけにはいかない。周囲をあらかた探したが、どうやら樹の上に目的のものは無いらしい。枝に引っかかったのでないとすれば、考えられるのは更に下だ。
頑丈そうな枝を伝って樹幹へ身を寄せると、細心の注意を払いながら降下を試みる。一メートルほど降りたところで、苔むした地面が見えてきた。一面に広がる緑と茶色のグラデーションの中に一際目立つ黒点がひとつ打たれている。どうやら徒手空拳という最悪の状況だけは免れたようだ。
思わず安堵の息を吐きかけた――その刹那、右眼の奥を鋭い痛みが走った。咄嗟に樹幹を蹴って前方へ飛び、空中で不恰好にもがきながら地面へ脚を伸ばす。
「――ぐッ!!」
靴底が地面を捉えるが、しかし綺麗な着地とは程遠く、ぬかるんだ地面の上を二転三転して苔塗れになりながら何とか制動する。その直後、背後から枝がへし折れる音に続いて血の滴る生肉を踏みつけたような不快な音が聞こえた。
「どうした!?」
アートの切迫した声が響く。しかし即座に返事をすることができなかった。地面に膝を突いたまま振り返ると、樹幹の根元に粘着質な音を立てながら蠢く塊が見えた。
それは辛うじてではあるものの――人のような形をしていた。
青白い人骨に黒色の泥を塗りたくったようなそれは、およそ人体では真似できない方向に捻じ曲がった全身の間接を軋ませながら、真っ暗な眼窩でこちらを見据えていた。
息を凝らして半歩後ずさりながら通信機に指を添えて口を開く。
「〝顕霊〟だ。負傷体だが……活性率は高いままだ」
息を呑む音が聞こえるが、それも即座に毅然とした声に切り替わる。
「アタミ、今すぐそこを離れろ」
「ああ――」
樹の上から見た銃の落下地点を思い出しつつ、顕霊の姿を視界から外さないにように後ずさりで距離を取っていく。あと数歩下がれば、銃に手が届くはずだ。
「分かっ――!?」
体を起こそうともがき続ける顕霊の数メートル手前に、小さく輝く銀色の物体が見えた瞬間、全身の血の気が引いた。咄嗟に空いた手を首筋へ這わせると、そこある筈の細い鎖の感触が――無かった。
「……どうした?」
アートの訝しむような声に答えるでもなく、冥冥の裡に声が零れ落ちていた。
「指輪が……」
「指輪だと……?」
その言葉を聞いて即座に事態を察したアートが通信機の向こうで声を荒げた。
「――ッ何を考えている!? そんなものは放っておいてさっさと逃げろ!!」
その言葉に唇を噛み締めて、止まっていた歩みを再開する。
「分かって……る……」
――分かっているとも。
指輪がどんなに大切なものであろうとも、己の命と引き換えにできるものではない。そんなことは考えるまでもなく分かりきっていることだ。
――分かりきっている……が……。
顕霊へ視線を戻す。人体に則していた筈の骨格は捻じ曲がり、まともに動けるようには見えない。しかし全身を損傷してもなお獲物を捕らえんと欲する獰猛な両の眼窩はこちらを真っ直ぐに見据えていた。
――今ならまだ指輪を回収できる……。
一歩、また一歩と進めていた歩調を――
――もしかしたら。
――かもしれない。
そんな希望的観測が――緩めてしまった。
そんな一瞬の逡巡を待っていたかのように、視界に映っていた顕霊の姿が撒き散らされた苔と泥だけを残して――消えた。
その刹那、右眼の奥に燃えるような激痛が走った。思考のプロセスを強引に省いて直感で身体を操作する。消えた対象を視線で追う暇さえ惜しんで跳躍すると、直前まで自分が居た場所を顕霊が地面ごと抉り取っていった。
その光景に冷や汗が背筋を伝う。
鮮烈な死の気配が強烈な実感となって圧し掛かり、体が鉛のように重い。
しかしこちらの反応を座して待つ程、顕霊は甘くはない。泥にめり込んだまま首の動きだけでこちらを振り返った顕霊が、地面を掻き毟るように四肢を引き絞った。
――来る!
恐怖に凍りつきそうな足を無理やり動かして再度地面を蹴ると、その直後、顕霊が強大な四肢をバネにして巨大なバッタのように跳躍した。
先程とは違った低空飛行による突進を間一髪で回避すると、巨大な質量によって巻き起こされた風圧が頬を薙ぎ、背後で小規模の爆発が巻き起こった。
――動け……!!
これで終わりではない。まだ次が来る。
立ち止まれば、死あるのみだ。
――走れ!!
地に根を張らんとする足を引き剥がすと、撒き散らされた苔と泥の中で一際存在感を放つ自動拳銃を見据えて全力疾走する。
目標まで残り一メートルを切ったところで、勢いよく体を反転させて制動を試みる。苔の上にレール状の痕を残した爪先が、地面から張り出した樹の根を捕らえた。
ノールックで銃を掴み上げると同時に顕霊が四肢を軋ませながらこちらを振り返り、深い闇を孕んだ対の眼窩と視線が交差する。直後、泥に塗れた下顎骨が勢いよく開かれると顕霊が全身を震わせながら大きく吼えた。
骨の髄まで響くような咆哮を、歯を食いしばって真正面から受け止める。自身を鼓舞するように右足を一歩踏み出して半身に構えると、大きく息を吸いながら左手に持った銃を掲げて呼吸を止めながら右手を添えた。
一瞬の対峙の後、顕霊は四肢で地面を抉りながら猛烈な勢いで突進した。蜘蛛のような爬行でこちらを轢き殺さんとする顕霊を正面に見据えながら極限まで集中力を高める。
時間にすればほんの一瞬だろう。早鐘を打っていた鼓動が止み、全身の熱が意思を持ったように脳へ収束する。臨界点を迎えた熱が脳内で泡のように弾けると、訪れたのは水を打ったような静寂だった。極限まで減速した時間の中で掲げた銃口を僅かに逸らし、照準を定めて引き金を引く。
炸裂音を合図に世界が速度を取り戻し、周囲の音が蘇った。
ダブルタップによって放たれた二発の弾丸が流星のような軌跡を描きながら飛翔した。
硝煙の尾を引く初弾が捉えたのは顕霊の右肩甲上腕関節だ。銅色に輝くパラベラム弾が黒色の泥を撒き散らしながら肩甲骨と上腕骨の接合部分を粉砕する。
間接の破壊によって生じた僅かな隙間を続く次弾が潜り抜けると、その直線上に位置する股関節に着弾した。それは初弾と同じように黒色の泥を撒き散らしたが、間接の強度の差故えか直接の破壊には至らなかった。
しかし右腕をもぎ取られて尚も踏み出そうとしたその一歩を支える程の強度は残されておらず、肩へ分散していた自重の集中も相まってあえなく自己崩壊を迎えた。
自身を支える右腕と右足を失ったことで、顕霊は突進の勢いのまま転倒した。数メートルほど地面を抉り取って、ようやく動きが止まる。
手の届きそうな距離まで接近した顕霊へ銃口を向けたまま弛むことなく見下ろす。顕霊は未だに二本の手足で立ち上がろうともがいている。銃を構えたまま後退すると、
「――ッは」
そこで思い出したように肺に溜まった空気を一息に吐き出した。
深呼吸をして肺に新鮮な空気を送ると、体内の熱が徐々に引いていくのが分かった。緊張でグリップに張り付いた手を剥がしながら、おもむろに銃を下ろす。
「アタミ?」
こちらの無言を訝しむアートの声に、呼吸を整えながら返事をする。
「大丈夫だ。それに――」
そう言葉を返しながら周囲を見回して目的のものを見つける。
撒き散らされた泥の中から細い鎖を引き抜くと、その先には泥に塗れた銀色の指輪が掛けられていた。指の腹で泥を拭うと、表面に彫られた勿忘草の刻印と内側に刻まれた「A.E.W」のイニシャルが露になる。
安堵の息を吐くと同時に小さく肩を落とすと、予想されるアートの反応に肝を冷やしながら歯切れ悪く言葉を続ける。
「――それに……指輪も回収できた……というか、した」
「まさか、戦ったのか!?」
信じられないといった口調でアートが声を上げる。
「いや、その……何と言うか不可抗力で……」
「馬鹿が!! お前という奴は……本当に……!!」
「……すまん、今のは俺が悪かった」
程なくインカムの向こう側から呆れを含んだ吐息が聞こえてくると、
「謝っている暇があったら、さっさとそこから離脱しろ」
「……ああ」
アートの言うとおり、謝罪も反省も生きて帰ってからにしよう。何よりこれ以上ここに留まるのは危険すぎる。何故なら――
未だに泥の中でもがき続ける巨体を迂回しながら横目で確認すると、完全に破壊した顕霊の手足は既に再生を開始していた。
――何故なら顕霊を通常兵器で討伐することは、ほぼ不可能なのだから。
顕霊の体に纏わりついていた泥がまるで意思を持ったように蠢きながら患部へ収束すると、粘土のように変形しながら破壊された部分を修復していく。見れば成型を終えて黒曜石のように硬質化した泥によって、間接部分の再生はほぼ完了していた。この調子ならば敏捷性を取り戻すのに数分とかからないだろう。
「――移動を開始する」
走り出しながらそう告げるが、返事は無い。無愛想にも思えるが、彼女に関してはこれが自然体だ。自分に対しては――特に。
これ以上話すことは無いのだろうと思い通信機から指を離して速度を上げると、
「……アタミ」
ややあってから、ぽつりと零れ落ちるようなか細い声が届いた。
続けて慌てたように息を呑む音が聞こえる。先程の声は本人も意図しないものだったのだろうか。例えそうだとしても、聞こえてしまった以上無視する訳にはいくまい。
「どうした?」
しかしアートはすぐには答えなかった。燻るような沈黙の中、走る速度を僅かに落としながら返事を待っていると、
「……すぐに行く。それまで死ぬな」
これまた蚊の鳴くような声が届いた。
今度はこちらが息を呑む番だった。てっきり愚痴か嫌味のひとつでも言われるものだと思っていた。しかし驚きこそすれど言われて嬉しくない言葉ではない。無意識に小さく笑みが零れ落ちる。
アートがこの場に居なくて本当に良かったと二重の意味で思う。こんなに緩んだ顔を見られたら何を言われるか分かったものではない。
こちらの態度を悟られないように努めて平静に言葉を作る。
「ああ、ありがとな」
通信機の向こうで鼻を鳴らすような音が聞こえると、一方的に通信が切られた。そこは相変わらずなのか、と笑みを苦笑いに変えながら通信機から指を離す。
小さく息を吐いて気を引き締め直すと、速度を一定に保ちながら悪路を進んでゆく。
厳かな静寂の中を己の足音と木々のさざめきが響いている。しかし先程までの重苦しいものとは違った、どこか心を研ぎ澄ますような静寂だった。
深く息を吸うと湿った空気からは土と樹の匂いがした。冷たい空気を肺に溜めたまま僅かに目を伏せると、周囲を満たす静寂へ向けて全身の感覚を開放する。
付近に生物の気配は無い。しかしそのさらに遠方から、断続的に伝う漣のようなものがある。脳の中枢を刺激するようなそれらの波が、敵性生物である顕霊の存在を残酷なまでに知らしめる。
ひとつひとつは微かなものだが、それらが数百、数千と折り重なることで強大な津波のように襲い掛かり、こちらの意識を飲み込まんとする。恐怖に絆されそうになる身体を奮い立たせながら一歩、また一歩と地を蹴って歩みを進める。
生き残るために――走り続ける。
「これが……」
数時間前の自分の言葉を思い出しながら、身に刻むように反芻する。
「……聖霊災害」