雨女と踊る
雨を降らせたのが始まりだと思う。
だからというわけではないけど、この小説は論理的な目で読まないことをお勧めしたい。
しかし、お勧めするだけで絶対じゃない、貴方の芸術の在りどころがそこなら、僕は喜んで受け入れるよ。
───雨──
机や椅子などが雑然と散らかされた教室の黒板には、か細くもはっきりとした字でそう書かれている。
窓の外では、一瞬テレビのノイズと見間違えるような豪雨が煩く泣き声をあげていた。その声も同様、それに酷似している。
その先の景色を見ようとしても、ノイズしか見えない。隔離された世界のようだった。
─目を閉じた。僕も君も。
僕は俯いている。
水がポタポタと滴り落ちた。
制服が濡れたことに気を落としているのだろうか。
雨に弄り散らかされ乱れた黒髪が、水の重みでだらんと垂れ下がっていた。
「腐った枝垂れ桜みたいだな。」
腐った花々に隠れた僕の涅色の水晶は、爪が伸びきっている僕の足を映す。
この様子では、目の前にいる女にも気づいていないだろう。いや、見ないようにしているのか。
窓際から僕を見つめている女。
ロリータファッションには珍しい透き通った水のような色彩のものを身に纏っている。
きっと、この女ほど天気雨を着こなせる者はいないだろう。
ボーラーハットの中から流れ出る美しい瑠璃色の髪。それはさながら──
「雨夜の品定めって奴かしら?」
女は僕から僕へ視線を移し、くすっと笑って見せた。
すこし喋りすぎたみたいだ。
女と僕の水晶が映し合う。
僕はその水縹色や髪とお揃いの瑠璃色が混ざり合う瞳に吸い込まれてしまった。
僕にそれを形容することは不可能だ。オーロラだとか、日食や流星だとか、そんなものよりも遙かに・・・──。
女と僕は窓際にある唯一きれいに整っている席に腰を下ろした。
「なぜあなたまで座ったの?」
「君が鏡みたいだったから。君が座ったら僕も座る。そう思ったんだ。」
「それは昨日の夕食が鯨だったから?」
「そうかもしれない。」
雨風が窓をノックする。隣人である彼のノックはいつも少し強めなんだ。
僕の左耳と彼女の右耳は居留守を使うことにした。後で謝らないとな。
「ねぇ、雨は好き?」
「・・・好きだよ。少なくとも僕は。」
「それは嬉しいわね。理由を聞いても?」
「嗚咽も涙も誤魔化せるから。らしい。」
「素敵な理由ね。でもそれって、あなたの言葉でしょう?」
「君には分からないよ。もちろん僕にも。」
「忘れているから?」
「忘れていることを忘れてるんだよ。」
「忘れん坊も大変ね。人間の骨髄みたい。」
「そんなことないさ。忘れっぽいのは良いことだよ。勿論人間の骨髄もね。
特に辛いことを忘れたときなんか喜びで夜も眠れないよ。」
「喜び?虚しさの間違いじゃないの?
バームクーヘンみたいにぽっかり空いた記憶の。」
隣人が唸り声を挙げその勢いを増す。
窓に映るその様子は、もし滝の激流にこの部屋が流されていると言われても疑う余地がないほどに荒れ狂っていた。
「えっと・・・なんの話をしていたっけ?」
「それってジョーク?笑えないわ。」
ノイズが一瞬真っ白になったかと思ったら、ついには怒鳴り声を挙げた。雷だ。
君はおしとやかに笑い出した。
あなたも笑っているわよ。不気味に。
昔からフラッシュを焚かれるのは苦手だった。
昔・・・っていつだ。ノイズのせいだな、今また白く空っぽに光ったノイズ。
「私、子供の頃から雷を聞くとおかしくって仕方ないの。」
「じゃあ僕もそうだ。きっと。」
「君の頭痛もね。」
「頭痛なんてないっていつも言ってるだろうが─・・・あぁ、ダメだ。また僕が出てきたよ・・・」
「だって頭痛って本人しか分からないだろ?」
「じゃああなたはその本人なの?」
「僕が痛くなければ僕が痛い。そういうことさ。」
今度は今までと一風変わった奇怪な声が轟いた。
彼女は笑いをこらえている様子だった。
「今のはキリンの鳴き声ね。」
「柘榴でも食べたのかな。きっと噛まずに飲み込んだんだ。」
「もしそうだったら、喉が抉れた音ね。」
「そうだといいね。」
キリンの泣き声はぱたりと止んだ。もう壊れてしまったのだろう。
「あなたはどうしてここにいるの?」
「雨宿りだよ。君もそうでしょ?」
「それは期待してるの?それなら私も雨宿り。」
「期待は嫌いだ。アイツは失望の友達だから。」
「友達?それは少し違うんじゃない?だって、あなたと君は友達じゃないでしょう?」
「祈ってるんだよ、きっと。だから君もここにいる。」
「コーヒーは嫌いよ。」
怒鳴り声は一層強くなった。踏切に飛び込んだときみたいで親近感が湧く。
「雨宿りなら窓は開けない方がいい?」
「別に構わないよ。僕は雨宿りしてるだけだから濡れるのは大丈夫。」
「それって雨宿りっていうのかしら?」
「視える視えないは瞼を開ける開けないとは関係ない。それと同じさ。」
彼女は鍵が壊れた窓を開けた。錆びた金属が擦れる音がする。
雨雲が教室に入り込んでくる。僕と彼女は嘲笑しながらノイズと混ざり合った。
「なぜ手を差し出すの?」
「最悪な見晴らしになろう。僕たちも。」
「それって最高ね。雨女を口説く物好きがいるなんて。」
「雨女と踊りたいだけさ。」
僕たちは深く煩い雨に沈んだ。お互いがお互いを引きずる様に。
僕たちは沈み、壊れ踊った。干からびたリュウグウノツカイがゆらゆら蠢いている。
鉛白色の彫刻となったタツノオトシゴは、希望から逃げるように浮いていく。
エイ・・・。錆びて草臥れた巨大なエイが雷に抱かれる。幸薄そうに消えていった。
そんな海の不幸が僕たちを囲む。
僕たちは踊り続けた。
雨が僕たちに突き刺さる。
緋色の雨雲に僕らは成り果てた。
隣人が僕たちを切り裂く。
僕たちの踊りのアクセントだ。
雷が僕らを焼き焦がす。
僕たちの鼓動が重なった。
あぁ。そのすべてを僕は見ている。
最低で二度と見たくもない、醜く目を奪われる景色だった。彼女はなにを思うのだろうか。
───私が雨なら、あなたはバケツね。
───空っぽなバケツ。あなたにはなにもない。
───才能も努力も人間性も。あると思ってもそれは他人も持ってる劣等品。
───だからまたひっくり返して空にする。これじゃないって言って。
───そのくせ嗚咽と一緒に希望論だけは唱えてる。
───気付いてるんでしょう?あなたがいなくても世界は回る、クルクルクルクル、あなたなんてなかったってね。
やめてよ。やめてくれ。おい、やめろよ。黙れよ。これ以上僕を見るな。煩い。違う。違うんだって。俺は人間だ。醜くて歪みだらけでいい。だから空っぽじゃない。 そうだ。 俺は最底辺の人間だ。 絶望も闇も知ってるんだ。
空っぽじゃない。俺のバケツの中には、汚水みたいな形容できないような・・・・・・──
───だから、私はそんなあなたと踊りたい。二人沈み果てるまで。
そうか・・・僕は空っぽだ、認める。むしろ今空っぽでありたいと切に思っている。
だって、そうでないと君を受け入れられない。空っぽな僕を君で満たせないから。
踊りも終盤。もう僕たちは沈みきりそうだった。
僕は君の細い首に手を伸ばした。
「最後は美しく終わらせて?」
「勿論。また踊ろう。」
───雨──
僕は鏡を割った。
夢は覚めてしまえば忘れていく、むしろ覚えていないことのほうが多い。
でも、確かにそこに何かがあった感覚だけ残る。圧倒的な喪失感が。
それを感じるたびに僕は不安で仕方なくなる。朧げに目の前にぶら下がっているそれは、本当は失ってはいけない、失わぬように守ってきた何かなんじゃないかって。
僕は姿形、記憶すらもない不確かなそれを描き出したかった。
だから僕は満足できる喪失感を得るまで、不確かを書いた。夢現を書いた。朧げを書いた。
読んでくれてありがとうございます。