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7(王様の耳)

 数日後、康平のところに珍しくキヨコさんが訪ねてきた。康平が店で本を買うか読むかするのが二人の主な接点だっただけに、康平は少し驚いている。

 部屋はどれくらい片づいていたかな、と埒もないことに思いを巡らしつつ、康平は玄関先で対応した。

「実は、ちょっとお願いがあるんだよね」

 という、キヨコさんの話だった。

 店と違って、彼女はエプロンはつけていない。プリントのついたチュニックにパンツ姿という、さっぱりした格好だった。軽く香水の匂いがする。

 お願いそのものは簡単で、車の運転を頼みたいということだった。彼女は免許を持っていない。ちなみに、車も持っていない。

「いいですよ」

 と、康平は軽くうけおった。自動車のことなら、あてがある。

 その場で電話をして、いくつかの貸し借りの確認と取り引きの末、快く自動車を借りられることになった。

「できるだけ早く」

 ということだったので、休日ながら大学まで出かけ、そこで車を借りてくることになった。できれば三日ほどのあいだ、車を使いたいという。

 康平は大学まで出かけ、そこで車だけ借りて帰ってきた。車の持ち主である友人は歯槽膿漏が痛むかのような苦々しい笑顔を浮かべ、キーを渡してくれる。

 車は持っていなくても、運転にはそれなりに慣れている。大学から無事に本屋の前まで来て車を停めると、ほどなく裏手からキヨコさんが現れて手を振った。

「ちょっと運びたいものがあるから、そこで待っててくれるかな」

 と、彼女は言った。

 言われたとおりに車の中で待機していると、彼女は大きめのバケツとスコップを重たそうに抱えて運んできた。康平が手伝おうとすると、

「大丈夫だから」

 と平気そうに言って、後部座席に積んでしまう。

「何ですか、それ?」

 康平がのぞいてみると、バケツの中には石がいっぱいに詰めこまれているようだった。河原で集めてきた石だろう。どれも角がとれて丸くなっている。これだと、けっこうな重量になるはずだった。

「ストレス解消」

 彼女は助手席に座って、シートベルトを締めながら言った。

「今度は一体、何を思いついたんです?」

「これをね、山に埋めるの」

「は?」

「例のあれね、古代ギリシャから連綿と続く、由緒正しいストレス解消法」

「……聞いたことありませんよ」

「王様の耳はロバの耳、というやつ。ミダス王の秘密は土に埋められ、床屋の精神は守られる」

「この石が、キヨコさんの秘密ですか?」

「――そういうこと。二十キロくらいはあるかな」

 康平は諦めたようにエンジンを回して、出発した。何を言ったって、どうせ無駄なのだ。キヨコさんはいつだって、キヨコさんなのだから。

 行き先は、彼女が昔行ったことのある山の中だった。康平は指示されたとおりに車を走らせて、そこへ向かう。街中を離れ、人家がまばらになり、やがて林道に入った。キヨコさんは窓の外ばかり見ている。さすがにストレス解消に行くだけあって、いつもより元気がなさそうだった。

 林道はずっと緑の影が続いて、時折谷底の渓流が見下ろせた。ほかに車は走っていない。天気も上々で、なかなかのピクニック日和ではあった。

 それでも時々、後部座席で石の転がる音が聞こえて、安穏とはいえないドライブの目的を思い出させる。

「康平くんは、『シッダールタ』って知ってるかな?」

 不意に、彼女が口を開いた。

「いや、何ですかそれ? 仏教の話ですか」

 アクセルを少しゆるめて、康平は訊き返す。

「ヘルマン・ヘッセの小説。例の、〝詩人になりたい、もしくは何にもなりたくない〟の人」

「それは知りませんけど」

「『シッダールタ』はね、仏陀の悟りをテーマにした作品だけど、仏陀本人の話というわけじゃないの。というか、そんなことはどうでもよくて、わたしはこの小説でけっこう好きなところがあるんだな」

「どこですか?」

「主人公がバラモンたちから離れて、一人になるときがあるの。で、すっかり何者でもなくなった彼は、ある女性に会うわけ。彼は苦行者だったから何も持っていないんだけど、相手に向かってこう言うの。私には三つのことができる。それは考えることと、待つことと、断食することだ」

「ふむ」

「そういうのって、わりといいと思わないかな? そういうふうに言えたら、楽かもしれないなって――」

 しばらくすると、ちょっとした広場のようなところがあって、そこで車を停めた。広めの駐車場には、ほかに車はない。看板には「みんなの広場」と書かれていた。あまり個性的とはいえない、集客効果の期待できなさそうな名前だった。

「それじゃあ、伝統に(のっと)ってわたしはこれを埋めてくるから」

「了解です」

 康平はうなずいた。つまり、見にくるな、ということだ。

 彼女を見送ると、康平は駐車場をぶらぶらと歩きだした。少し行くと、サッカーグラウンドほどの大きさで、青々とした芝生が広がっている。歩きながら、手をついて、くるりと側転してみた。ポケットから携帯が草の上に落ちる。

 芝生の真ん中で立ちどまって、太陽に手をかざしてみた。手の水かきのところに、真っ赤な血潮が流れているのが確認できる。そのままぼんやりと、キヨコさんの言うストレスについて考えてみた。

 木陰に寝転んで休んでいると、やがてキヨコさんが戻ってきた。さすがに汗をかいて、暑そうだった。バケツの中身は空になっている。

「今度はタオルも持ってこないとね」

 帰りの車でクーラーの冷気を浴びながら、彼女は言った。ぱたぱたと、胸元に空気を送っている。

 次の日と、その次の日も、彼女は同じことを繰り返した。おかげで、さすがに元気になったようである。ストレスを三日分も山に埋めれば、それは元気にもなるだろう。

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