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4(ランプを割ること)

 キヨコさんは時々、突拍子もないことをする。

 釘打ちやらごみ拾いもそうだが、ある時は庭で本を燃やしていたことがある。午前中に講義のない日、康平が部屋でのんびりしていると、庭で本を燃やす彼女の姿が見えた。

 一体、何をしていたんだろうと思って帰りに訊いてみると、

「読んでてあんまりむかむかした本だったから、燃やしてやった」

 ということだった。一種の焚書行為らしい。彼女に燃やされるとなると、相当ひどい本だったと思われる。ちなみに、最後のページまできちんと読んだとのことだった。

 そんなふうにストレス解消法にはバラエティに富んだ彼女だったが、ある日康平はその方法をいっしょに試す機会に恵まれた。

 大学であんまり頭にくることがあって、すっきりしない気分のときのことだ。あんまり頭にきたので、講義はあったがそのまま家に帰り、月釦書肆で本を読むことにした。

 店の少し前で偶然、前に見たキヨコさんの叔父だという人とすれ違う。向こうも気づいたらしく、軽く会釈をして行き違った。何か用事でもあったのだろう。

 康平は店に入ると、読書スペースに座ってキープしておいてもらった本を読みはじめた。が、それでも何だか気分が晴れない。あんまりくさくさしているので、このまま虎にでもなってしまわないか心配なくらいだった。

「……もしかして、何か嫌なことでもあった?」

 と、カウンターに座っていたキヨコさんが訊ねる。

「わかりますか?」

「そりゃあね。だって、入口のところで頭がコップの栓みたいに引っかかった山椒魚そっくりの顔してるよ」

 釣り好きの小説家が気に入りそうな、気の利いた例えではある。それで康平が大体の事情を打ちあけると、彼女もそれは康平の言うとおりだと同情してくれた。

「親譲りの無鉄砲じゃなくても、それはそうなるよね」

「やっぱり、そうですよね」

「寿司を腹一杯食べさせてやった小僧に、でたらめの番地を教えるくらいひどいことだよ」

「そうですか?」

「――うん、決めた」

 と言って、彼女は立ちあがった。

「何をです?」

 康平が訊くと、彼女は威勢よく肩をそびやかして言った。

「邪知暴虐の王は除かなければならぬ」


 近所の魚屋でバケツいっぱいに氷をもらうと、キヨコさんはどこかに向かって歩きだした。季節はそろそろ夏になりかけで、暑いといえば暑い。が、そんなに大量の氷をどうしようというのか。

「一体、何をする気なんですか?」

 道々、康平は訊ねてみた。が、

「ついてくればわかるよ」

 と、キヨコさんは取りあおうとしない。

「…………」

 平日の昼間で、あたりには当然のように人影はなかった。大きな道からも外れているので、車もほとんど通っていない。陽射しに関してはもう夏のそれで、ナイフみたいに鋭かった。じっとしていると、じりじり焦がされてしまいそうである。

 通いなれた道なのか、キヨコさんの足どりに迷いは見られない。まったく、近所の散歩にでも行くような風情だった。

「どこに行くんです?」

 康平は再び、訊いてみた。

「――公園」

 キヨコさんの答えは短い。

「何しにですか?」

 この質問には、やはり答えはなかった。その代わりに、

「ワニってさ、一年に二、三回の食事で生きていけるんだって」

 と、やや途方もない話をはじめる。

「ずいぶん燃費がいいんですね」

 康平は文句も言わずに先をうながした。

「うん、そう。さすが恐竜の時代から生きてるだけはあるよね。ワニって、完成された生き物なんだよ。きっと神様に愛されてるんだろうね」

 因幡の白兎の皮を剥いだのは――いや、あれはサメのほうか。

「変温動物っていうのは、基本的に燃費がいいんだって。というより、人間みたいな恒温動物のほうが特別に燃費が悪い、のかな。エネルギーのほとんどを体温維持に使うから、しょっちゅう物を食べてなくちゃならないんだな。だからせっせと生きる努力をしなくちゃならない」

「因果なものですね」

「そう、因果なものだよね。おかげで生きることは難しくなっちゃうんだから」

 そうこうするうちに、彼女の言う公園に着いたみたいだった。陸橋の下に作られたこぢんまりしたもので、公園と言うのがはばかられるほどの大きさである。おざなりに置かれた遊具も含めて、ごみ捨て場と言ったほうが表現としては適切そうだった。

「こっち」

 と、キヨコさんはその公園の奥へと歩いていく。公園内に人影はない。わざわざこんなところに来る人間がいるとも思えないし、公園のほうでもそれを期待しているようには見えなかった。

 やがて、彼女は足をとめる。

 そこはボールで壁当てをするのに都合のよさそうな、コンクリート製のごつい橋脚部分を前にした空間だった。剥きだしの土と、わずかな雑草のほかには何もない。彼女は、「よいしょ」とバケツを置いて、息をついた。

「あの、キヨコさん、何をするんですか?」

「投げるの」

 実に簡明に、彼女は言った。

「投げるって……何をです?」

「氷」

 聞くまでもなく、それ以外にない。

「こう、思いのたけを込めてね、あの壁に氷をぶつけちゃうわけ。勢いよく、力の限りを尽くして、ね」

 彼女はそう言って、バケツの日よけを除くと、氷片を一個手に取った。それから白い打ちっぱなしのコンクリート壁に狙いを定めると、

「うりゃあぁぁ!」

 と叫び声をあげて投球モーションに入る。腰を回し、肩を回し、振り切った指先から放たれた氷の塊は、大質量の前に無残にも美しく散華した。なかなか堂に入った投球フォームである。

「投げるときは、何か叫ぶのがコツかな」

「……なるほど」

 康平はよくわからないままうなずいて、とりあえず氷を手に取った。冷気というよりは、何か物理的な反応のようなものが指先に伝わる。暑さで溶けて、氷からは水滴がしたたり落ちていた。その表面は、薄暗がりの中でもきらきらした光を含んでいる。

 この行為に一体どんな意味があるのか、康平にはさっぱりだった。空気を手で摑まえようとするのと同じくらい、無意味なことにも思える。

 それでも、気づいたときには氷をつかんだ手を振りかぶっていた。

「……ふざんけんじゃねえぇ!」

 叫んで、左足の踏み込みからきれいに右肩を回し、氷塊を投擲する。氷は見事に一直線を描いて、粉々に砕け散った。

 ――何故だか、意外とすっきりした。

「じゃあ、どんどん行こうか」

 と言って、キヨコさんは次の氷を手に取る。

 それからは二人とも、思いつくかぎりの罵詈雑言を並べて礫を投げまくった。「こんちくしょう!」「バカにすんな!」「うつけもの!」「この、ろくでなしが!」「守銭奴め!」「お前のせいだろうが!」「アッチョンブリケ!」「アッチョンブリケ?」

 ほとんどの氷を投げ終わると、バケツの中は水だけになった。あたりには光の塊のような砕氷と、それが溶けた水の跡が広がっている。血なまぐさい戦闘と悲劇的な破壊の結末を連想させる、痛ましい痕跡だった。

 それらはすぐに土に染みこむか蒸発するかして、長くは残らないだろうけれど。

「何か、すっきりしたみたいです」

 と康平は不思議と満足して言った。

「それはよかった」

 キヨコさんはゆっくり減圧するみたいに息を吐いてから、額の汗をぬぐった。それから不意に、

「……新美南吉の童話にね、『おじいさんのランプ』っていうのがあるんだよね」

 と、言う。

「何ですか、急に?」

 首を傾げる康平を半分無視して、キヨコさんは続けた。

「おじいさんは貧しかったんだけど、若い時にランプを売る商売をはじめるの。新しい文明の利器は、こんなにも明るいって。それでなかなかうまくやってたんだけど、そのうち電気が通るようになって、ランプの商売はもうだめだって思っちゃうわけ。それで、おじいさんは自分の商売をだめにする電気を恨んじゃうんだな」

「まあ、わかります」

「恨むんだけど、ある時ぱっと思うわけ。新しいもっと良いものができれば、古いものはなくなってしまう。それが当然なんだって。で、ランプの在庫を夜中に持ちだして、全部に火を点けて池のそばの木に吊るすわけ。それから、わしの商売のやめかたはこれだ、って石を投げてランプを割っちゃうの」

「…………」

「で、その話を孫にして言うわけ、自分で言うのもなんだけど、わしはなかなか立派だった、って」

「確かに、そうですね」

「うん、わたしもそう思う――でもこの話、わたしが好きなところがもう一つあるんだ」

「何ですか?」

 康平が訊いてみると、キヨコさんは言った。

「ランプ売りをやめたおじいさんが、本屋になるところ」

「そりゃ、気に入るでしょうね」

 と、康平は笑った。

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