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10(月夜の晩に、拾つたボタン)

 それからしばらくした頃、月釦書肆のガラス扉には「準備中」の札がかかって、それが表に返されることはなかった。

 康平は大学から帰るたびに、それを確認してから家に戻った。家では最低限の用事を済ませると、あとは時計を眺め、決まった時間になると眠った。

 そのあいだに、ちょっとしたことがあって映画研究会をやめた。やめた理由は、自分でもよくわからない。何かが嫌になったのかもしれないし、最初からそのつもりだったのかもしれない。先輩は誰もとめず、惜しみもしなかった。退会届はあっさり受理された。

 しっぽのなくなった犬みたいに、何だか体が軽くなった気がする。油断すると、そのまま宇宙のはてまで飛んでいってしまいそうだった。朝、目を覚まし、電車に乗り、大学に行き、必要なことを済ませ、電車に乗り、家に戻り、夜になると決まった時間に電気を消し、眠りにつく。

 ……繰り返しだった。

 今日と、それ以外の日を区別する手段のない、完全な繰り返し。

 康平は世界の形をうまく把握できなくなっていた。それはあやふやで、曖昧で、とりとめがなかった。星のない夜の海を漂っているみたいに、自分がどこにいるのか時々、わからなくなってしまう――

 そんなある日、家のポストに手紙と、何かの鍵が入っていた。手紙の差出人は「禾原熹世子」だった。康平はその場で封を破いて中身を取りだした。

 手紙には大体、次のように書かれていた。


〝――叔父さんのことについては、警察に出頭するつもりです。ついては、しばらくお店のほうには戻れなくなると思うので、鍵を預けておきます。本は自由に読んでください。お代はあとでもらいます。康平くんといっしょにいると、楽しかったです。――かしこ〟


 三度ほど読み返してから、康平はその手紙をしまった。そして部屋に戻って、あらためて鍵のほうを眺めてみる。

 その鍵には、ボタンの形のキーホルダーがつけられていた。何の変哲もない、四つの穴がついた白いプラスチックのボタンである。


 ――月の釦、だ。


 そのことに気づいて、康平ははっとした。これは、キヨコさんが月夜の晩に拾った、たった一つのボタンだった。何にも役立てられず、どこにも捨てられない、ただ波打ち際に落ちていただけのボタン。

「…………」

 康平はそっと、ボタンといっしょにその鍵を握りしめてみる。それは指先に沁みて、心に沁みるようだった。誰かが、詩で詠っているとおりに。

 彼女はやっぱり、ああするしかなかったんだろうか、と康平は思う。大切なものを無造作に否定されて、大事なものを無理解に批判されて。世界を守るために、世界を壊すために。

 月の釦を、どこにも捨てることができなかったから――

 そう思うと、康平はたまらなく悲しい気持ちになった。何が悲しいのかは、自分でもわからなかったけれど。

 康平はもう一度、手のひらの鍵とボタンを眺めてみた。

 ――月夜の晩に、拾つたボタンは

 やっぱり、どこにも捨てられそうになかった。

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