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第七話 御典医

薄靄のかかる朝。

塾の縁側に立ち、外の空気を吸い込む雁音。

昨日貫かれた右肩をひと撫でする。そこはたくさんの布で固く結ばれている。

医者ではない弥四郎の手当てなので、傷は開いたままだが、一晩経つと彼女は歩き回れるくらいに回復していた。



「・・・不覚だった。」



日ノ影との戦いの光景を思い返す雁音。

彼が放ち、雁音が斬り伏せた影たちは全て砂のように崩れて消えた。

あれも妖術の類であろうか。



「日ノ影・・・あいつは一体・・・。あんなバケモノ、刈谷の伝承には載っていなかったぞ・・・?」

「雁音殿!」



廊下の角から、まだ寝巻姿の弥四郎が足早にやってきた。



「身体に障ります!」

「弥四郎・・・ありがとう、もう平気だ」



小走りで駆け寄り、自分の羽織を雁音にかけてやる弥四郎。

それをありがたく着込むと、雁音は笑顔を向けた。

弥四郎の処置が良かったのか、ずいぶん雁音の顔色は良い。



「貴女という方は・・・まったく。拙者の心臓が持ちません」

「お前には、浜松にいた頃から世話をかけっぱなしだな」

「いいえ、貴女の為ですから」

「弥四郎、お前が同志で心強い。ありがとう」

「・・・同志でござるか・・・」



弥四郎は感謝を示した雁音に苦笑した。



「そういえば弥四郎、お前はこんな朝早くにどうしたのだ?」

「あっ、奎堂殿の様子を見に行こうと。昨日、雁音殿と一緒に帰って来てから夕食にも顔を出されなかったので」

「何だと?」



朝日が差し込み始めた自室で、奎堂は布団も出さずに寝ころんでいた。

夜中起きては浅く寝ての繰り返しだった。


雁音が斬り伏せた影の腹から、まるで生もののように吹き出る血、雁音の肩から流れる血・・・

あの赤い光景がなかなか頭から離れない。


そこへ、襖の外から勢い良い足音が聞こえた。

断りもせずに襖を開けて開けて入って来たのは雁音だった。



「松本!飯くらい食え!三弥がまた心配するぞ!」

「用心棒・・・」



雁音を見た奎堂は、急いで起き上がり、目を見開いた。



「お前・・・傷は?!」

「傷?あぁ、こんな傷、大したことではない。そこらの不抜けと私を一緒にするな」



はぁ、と大きく息をつく奎堂。

そのまま俯いてしまった奎堂の目線まで膝をついて合わせる雁音。



「しかし、これではまるでお前の方が怪我人みたいではないか。夕食も食べなかったそうじゃないか、しっかりせぬかっ」

「ああ・・・すまん」



奎堂はあっけなく謝罪した。

いつもであれば激怒して、あーでもないこーでもないと言い始めるところだ。



「な、なんだ・・・いやに素直だな、気味が悪いぞ」

「お前が死ぬかと思ったら、俺は・・・」

「私が死ぬ心配を?」



思わぬ反応に不気味がる雁音に、奎堂は少しむっとする。

雁音はそんな奎堂のささやかな抗議も気にせず、懐から紙に包んだいなり寿司を取り出した。



「夜食にとつくってもらったいなり寿司だ。やる。食べて元気を出せ」

「俺は狐じゃねえ・・・。それに食う気もない」

「少しでも食べねば元気は出んぞ。ならば・・・」



更に懐から笹の葉の包みを取りす雁音。それを開くと、手のひらに包まれる程の大きさで、丸く茶色い物体が現れた。

一気に怪しい目を向ける奎堂。



「俺を殺す気か」

「ばかたれ、これはゆべしという食べ物だ!柚子に味噌や鰹節やらを詰めたものだ。ありったけの滋養が詰まった有難い保存食なんだッ!」

「そんな躍起にならんでも・・・」

「じゃあそれなら・・・」

「いやいい、それでいい、もらうから・・・」



これ以上何も食べなければ、何を今度は懐から出されるかわからない。

奎堂は意を決して物体を受け取って、少しだけ口に含んだ。

三河の赤味噌とは違う、やさしい味噌の味とさわやかな木の実のような味が広がる。どこかで食べたことのある味だった。



「これに似たもんを、昔十津川で食べたことがあるな・・・」

「・・・そうか」

「お前の出身が大和というのは、十津川の事か?」

「・・・・・・確かに私は大和の国の人間だ。だが、どこの村で生まれたのかわからんのだ。気付いたら、兄上と一緒に森の中を彷徨っていたからな」



一瞬、妙な間のあとに、雁音は答える。



「気づいたらって・・・どういう事だ?」

「兄上によれば、森に入って迷子になったのだそうだ。兄上も私も小さかったからな、それ以来家に帰れず終いだ」

「兄上は今は?」

「知らん。死んだかもしれないし、生きているかもしれない。とうの昔に別れたっきりだからな・・・」



奎堂には兄がいる。自分の激しい性格とは対象的で、釣りなんぞというたいそう根気と我慢のいる趣味の持ち主である。

今は刈谷を離れてはいるが、兄とは肝試しに呼び出されたりと何かしら交流はある。自身と兄に置き換えて考えると、何とも言えない気持ちになった。



「お前、意外にも大変な思いをして来たんだな」



奎堂はいつもより優しい目を雁音に向けた。

それと目があってしまい、雁音は思わず上体ごと反らしながら取り繕う。



「いや!何も悲しい事はないぞ?私には夢がある。そのひと華を咲かせる為に、こうして利善さまにお仕えしているのだ!」

「ひと華か・・・」

「ああ!」



雁音は自信満々にふんぞり返って腕組みをした。

雁音は以前も、何故利善に仕えてるのかと奎堂が聞いた時と同じ答えを言った。

彼女の澄み切った、そして強い光を湛えた目に奎堂はまた何か懐かしさを覚えた。

何か、忘れていた温かさが心に滲んでくるような感覚があった。



「だったら、そのひと華咲かせるまで・・・何が何でも生き残れよ。死ぬな、絶対に」



奎堂の隻眼が少し揺らぐ。

雁音は初めてそこで、奎堂が今にも泣きだしそうな顔をしている事に気づいた。



「ま、松本・・・」

「・・・・・・・すまん、しばらく一人にしてくれ。飯はちゃんと食べるから」



俯く奎堂をしばらく見つめた後、雁音は無言で部屋を出た。

部屋を出た先で、雁音は弥四郎と会った。

きっと心配して外で控えていてくれたのだろう。



「いかがでしたか、奎堂殿の様子は」

「弥四郎・・・。私はあいつの古傷を抉ったのかもしれない」



いつもの勢いのない雁音に、弥四郎は優しく微笑んだ。



「奎堂殿は、人が傷つくことろが見たくないのでしょう。根は優しい方ですからね」

「武士ならば、これくらいの事、見慣れているだろうと思っていたのだが」

「あっはは、こんな時勢でも、深い切り傷や血飛沫を見るのは雁音殿のような剣豪か、医者くらいでしょう」



弥四郎は顔を思わず崩して笑った。

奎堂よりも大人な振る舞いをする弥四郎だが、彼は奎堂よりも年下である。しかし時折、こうした屈託のない笑顔を見せる。

雁音はいつだったか、利善が「だから案外弥四郎は子どもに好かれるのだ」と話していた事を思い出した。つられて雁音も頬をほころばせる。



「ふふっ、そうだな、一応徳川泰平の世だからな」

「あ、医者と言えば。昨日のうちに万吉殿に高岡まで走ってもらい、本日村上先生に雁音殿の傷を診て頂けるようお願いしました」

「え?忠順ちゅうじゅんさまに??」



村上忠順むらかみただまさとは、弥四郎がここに来る前に訪ねていた刈谷藩の御典医だ。村上家は代々御典医の役目を賜る名門家で、彼らは医の知識だけではなく、熱心な神道家でもあり、また歌会を催す程文才にも学問にも長ける。

忠順はその現当主であり、利善の良き理解者である。当然利善の近くにいる雁音たちとも親交はあり、忠順ちゅうじゅんさまと呼んで親しんでいる。刈谷を離れてから、久々に雁音は彼の名を聞いた。


昼下がり。

品の良い装飾が施された籠が奎堂の塾の前に止まった。

一人の長身な初老の男が風呂敷包みを持って降り立ち、丁寧に籠かきに労いの言葉をかけ、塾の門をくぐる。

丁度、玄関の掃除をしていた割烹着姿の三弥がその男に気付いた。



「村上先生・・・!」

「おお、三弥か。久しぶりだね」

「すみません、遥々名古屋まで。うちの怪我人と、ついでに食欲不振の奎堂さんも診ていただきたいです」

「はははっ、相変わらずお前は皆を気遣えるいい子だな」



忠順はそう笑うと、三弥の頭をぽんぽんと撫でてやり「じゃあお邪魔するよ」と玄関に入っていった。

三弥は突然のお褒めの言葉に少し目をしばたかせ、気を取り直して後を追った。



「忠順さま!」

「急なお願いをお聞き届けいただき、ありがとうございます」

「三弥といい弥四郎と雁音といい、今日は懐かしい顔にたくさん会えてうれしいよ」



三弥に通された部屋には、雁音と弥四郎がかしこまって座って待っていた。

傍らにはお湯や布団などしっかり治療の用意がされている。

忠順はすぐに風呂敷の包みをほどき、包まれていた木箱から色々道具を取り出す。



「さて、早く傷を縫ってしまおうか雁音。それからゆっくり思い出話でもしよう」

「はい、お願いします」

「おっと、弥四郎と三弥にはご退室願おうか?」



雁音が忠順の前に進み出て、着物を緩めようとするが、手を翳してそれを止め、笑顔で弥四郎と三弥にやんわりと退出を促す。

到着してすぐ休む間もなく、すぐに忠順は傷の手当てに取り掛かった。

素直に部屋から廊下に出て、少し離れた場所に控えていた弥四郎と三弥だが、弥四郎は落ち着きがない。



「弥四郎さん、村上先生にお任せしておけば大丈夫ですよ」

「そうでござるが、静かすぎて・・・」

「確かに、針で肉を縫うなんて痛そうなものですが・・・雁音君は強いですね」

「はぁ、また我慢をしているのでしょう。雁音殿はそういうところを押堪えてしまう節がありますから・・・」

「すごいことじゃないですか。流石用心棒として雇われるだけの事はあります」

「雁音殿は女子です。そもそも傷でも残ったら、まだ年若いのに不憫で」

「・・・なら弥四郎さんがお嫁にもらってあげたらどうですか?」

「えっ?!」

「まぁ、あの子がいっぱしの女子らしい人生を望むならの話ですけどね」



三弥は相変わらず闇を抱えたような目をしていたが、少しばかり意地悪そうな笑いを浮かべた。

三弥より弥四郎は年が上であるが、彼は奎堂への対応を見てもわかる通り、元々年上だろうが容赦ない。

いつもは奎堂に向けられる容赦のない言葉だが、奎堂が本調子でない事もあり、待っている間の暇つぶしという事も相まって、それから暫く弥四郎へと向けられた。



「さあこれで大丈夫だ。じきに血も止まるし、傷もそう目立たなくなるだろう」

「ありがとうございます忠順さま」

「まったく君は傷が絶えないね。君は慣れっこだが、周りの者が心配するから程々にしておきなさいと昔からあれほど」

「申し訳ありません、でも私は用心棒だから」

「はいはい、君の役割はちゃんとわかっているよ。また何度でも綺麗に縫ってあげるから、すぐに私を頼りなさい」

「はい」



傷の縫合はすぐに終わり、雁音は縫ったばかりの肩が痛むので着物が羽織れず、上半身を晒で巻いただけの姿で忠順の小言を聞いた。

忠順は医者という事もあり、雁音は刀を振りまわす仕事上、何度も世話になった。

いつしか傷の処置にも慣れて、暇を持て余してしまう治療中は忠順に色々な事を相談するのであった。

雁音は奎堂の様子を相談してみた。


極端に奎堂は血を嫌っているように見える事、自分が怪我したわけでもないのに食事も摂らないほど落ち込んでいること。

もしかしたら、仲間を失ったことを思い出させてしまったのではないかと心配事を洗いざらい話した。


忠順は治療道具を片付けながら、静かに相槌を打ち聞いてくれた。

そして治療道具を風呂敷に包み終えると、懐から簡易の筆記具を取り出した。



「ならば、大獄の折、謙三郎を匿った野田八幡宮の宮司を訪ねると良い。今から紹介状を書いてあげよう」

「野田八幡宮・・・今留いまるの森の・・・?」

「野田八幡宮の榊原という男だ。大獄の折の謙三郎の話を聞けると思う。彼がどうしてこんな所で燻っているのか、わかると思うよ」

「ありがとうございます!」



さらさらと筆を走らせ始めた忠順も、刈谷藩という徳川ゆかりの藩医でありながら、強い尊王派の立ち位置にいる。

だから刈谷にいない奎堂の様子も仲間から伝わってきていたし、利善の側にいることから幕府の内情も把握できた。

彼は奎堂のような行動を起こすことはできないが、少し離れて世の中を広く見渡す事ができる。やはり相談をして正解だったと雁音は思った。



その頃、少し離れた廊下では弥四郎が待ちぼうけをしていた。三弥は夕食の支度があると早々に立ち去って行ってしまっていた。

治療は終わっているはずなのに中々声がかからない。もしかしたらあまり容体が良くなかったのでは?と、弥四郎の心配は募るばかりだった。

そこへ万吉がやってくる。

彼は昨晩忠順を呼びに走ったため、その後は自室で休息を取っていた。



「お、弥四郎じゃん。どーしたよ?」

「あっ、万吉殿。雁音殿の治療が終わるのを待っているのです。もうとっくに終わったはずなのですが」

「じゃあ入って聞いてみればいいじゃん?」



部屋に向かおうとする万吉の袖を引いて止める弥四郎。



「何だよぅ?」

「いやいや!万吉殿!雁音殿は肩を怪我されて治療しています」

「うん?だから終わったか聞いてみればいいだら?」

「だっ・・・しかし!!治療中という事はっ、肌を見せておられるところへ男が踏み入っては!!」

「ああ~。そんなん、めっけもんじゃん。いいんだよ」



そこへ勢いよく障子が開き、上半身晒だけの状態の雁音が出てきた。

手には忠順が書いてくれた紹介状が握られていた。



「弥四郎!私は今留の森へ行くぞ!!」

「かっ・・・・雁音殿!!!そんなあられもない姿でっ・・・!!!!!!」



弥四郎は悲鳴をあげ、万吉は「おぉ~」と有難く拝んだ。

かくして、雁音は無事治療を終え、更に奎堂ゆかりの人物に会える機会を手に入れることができたのであった。




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