第二話 伝説の剣豪
少女雁音は懐かしい夢をみた。
それはまだ刈谷へ来たばかりの頃、刈谷城の市原口門と呼ばれる城門の塀によじ登り、遥か先に広がる衣浦湾を眺めていた時の夢。
刈谷城は衣浦の海に背を預ける形で構えられている。そこから吹く潮風を受けながら雁音はひとつ欠伸をした。
「雁音殿、見張りですか?」
「あ、弥四郎!」
ふいに声がかかる。
門の下から宍戸弥四郎が顔をのぞかせた。護衛の為に同行していたのか、彼の傍らには刈谷城の主・土井利善と身の回りの世話をする侍女もいた。
雁音はひょいと塀から身を投げ、利善と弥四郎たちの前にしなやかに着地した。
「利善様も!城下の見物ですか?」
「市原稲荷に行っていたんだよ。このところ城下は捨て子や日照りはもちろん、盗みや火付けも続いて、何かと不穏な空気だから、お祈りにね」
「神様にお祈りしないといけないくらい領内は荒れているのですか?ならば、私が出向いて鎮めてまいりましょう!」
「あはは、雁音は頼もしい剣士様だなぁ」
利善は雁音の前髪を優しく撫でた。
そしてふと思い出したように言う。
「そういえば、この長い刈谷藩の歴史の中でも日照りなどで皆が困った時期があった。民の心も荒み、乱暴を働く者が増えたが、そんな時、荒ぶる十人もの若者をその一太刀で沈めた剣士が現れた。
その名を剣豪・村雨。刈谷に伝わる伝説なんだ。雁音はその村雨のように頼もしいね」
「剣豪、村雨・・・」
夢はそこで途切れた。
与えられた小さな部屋が青白い光で照らし出されている。もう夜明けが近いようだ。
せんべいのように薄い布団から身を起こすと、身体を伝い本が一冊落ちた。
昨晩奎堂から譲り受けた本だ。
「読んでいるうちに寝てしまったか・・・」
ぱらぱらと本をめくると、夢の中で利善が語った剣豪村雨の伝承の文字が目に留まる。
この本の中には彼女がどこかでなんとなく聞いたことのある刈谷の昔語りが載っていたため、夢中になって読み進めているうちに寝てしまっていたのだ。
だからあんな懐かしい夢を見たのだろうと、雁音は頬を緩ませた。
「おおおおおお?!」
突如、穏やかな気持ちを劈く叫び声が、離れた部屋から漏れ聞こえた。
反射的に雁音は枕元の刀を手に取る。
「この声は・・・松本?!」
松本奎堂――――。
三河国刈谷藩士。通称を謙三郎。号を奎堂という。
代々文武両道に優れる松本家の次男として生まれ、幼いころから神童と呼ばれる程の才能を発揮する。
奎堂は二十二歳の時、その秀才さから藩より選ばれ、勉学に一心に身を傾けられる昌平坂学問所へ入った。
三河では出会う事のない他藩の秀才たちと出会い、勉学に関してはもちろん、個人的な幕府や世の中の情勢についての考えも奎堂は刺激を受けた。
やがて今の幕府のやり方に疑問を持ち始め、世の中を憂う言動をすることが多くなった。
「なんだあいつ?昼間なのに行灯を持って歩いてるぞ?」
「三河の松本奎堂とか言ったか?勉学のしすぎで気でも狂ったんじゃないか?」
ある日、奎堂は学問所の中を昼間なのに煌々と灯る行灯を手に歩いていた。
常人から見ると確かに異様な光景であり、すれ違う寮生たちは皆振り返り、中にはそうやって陰口をたたく者もいた。
そんな様子を見ていた仙台藩の秀才・岡鹿門は、お気に入りの奎堂を馬鹿にされ思わず抗議した。
「ちょっと!奎堂どのの悪口を言わないでくださいよ!あれだって意味があってやっているのですよ」
「何だよ鹿門、あいつこの前なんか本を読みながら団子の串を髪に差したりしてたぞ?とんだ変人だぞ」
「それは本に熱中していただけですってば!あまり悪口を言うとどうなるか!」
そんな岡の横を風が一閃凪ぐ。
次の瞬間、悪口を言っていた寮生の顔面に小さな火鉢がぶち当たっていた。
それは顔面に強くめり込んだ後、廊下に落ちて粉々に砕け散る。
「ぎゃあああああ!!!!!!」
「あぁ~。だから言ったのに・・・」
岡は目を覆った。
「この世は今先の見えない真っ暗闇だ。灯りをつけなきゃ歩けねぇくらいにな」
岡の隣に、行灯を手にしたままの奎堂が立つ。火鉢を投げた張本人である。
蹲って痛みに震える寮生に奎堂はそう言いながら冷たい視線を落とす。
「そんな情勢も見抜けずのうのうと生きている奴がこの昌平黌にいるとはな・・・。お前たちはこの国を背負っていくにはあまりにも不出来だ」
左の傷ついて光を失った目もあいまって、その視線はあまりにも冷たく鋭い。
それは、奎堂を慕い共に過ごす岡でさえも、背中に冷やりとしたものを感じた事件だった―――。
「ハっ・・・!?」
岡鹿門は目を覚ます。
明け方の青白さに照らされた部屋で、彼は大の字になって寝ていた。
気付けばびっしょりと汗をかいており「夢ですか・・・」と胸を撫で下ろすと、首だけを動かして辺りを見回した。
すぐ隣では奎堂が酒瓶を抱えながら静かに寝息を立てている。
「はぁ~・・・良かったぁ」
ぐるりと岡は奎堂の方に身体を向けると、彼の腰に当たり前のように手を回した。
「おおおおおお?!」
それは夜明けの静けさを劈く奎堂の叫びだった。
すぐさま障子の向こうから誰かが走って来る音が聞こえた。
「何事!!!・・・・だ?」
雁音が寝間着姿のまま帯刀し、獣のような俊敏な動きで部屋に滑り込む。
すると、岡が奎堂の腰にすがりつき恍惚の表情を浮かべて寝転がっている光景が真っ先に目に飛び込んできた。
一度それから視線を外し、酒瓶が放置され、書物が散乱する部屋をぐるりと見渡す雁音。
しかし、特に異常を感じず、また寝転がっているそれに視線を落とす。
「えっと・・・なにがあった?」
「わかんねぇのか助けろ!岡に憑りつかれてんだよ!」
「はぁ?」
岡鹿門は雁音によって布団と縄で速やかに簀巻きにされた。
「こいつは隙あらばくっついて来やがる。これからは捕縛対象にしろ」
「あ・・・ああ」
「酷い!酷いですこんな仕打ち!ああっ酷い!」
巻寿司のような状態で嘆く岡に、雁音は欠伸をしながら答える。
「お前が寝ていた松本をビックリさせるからだろう?自業自得だ」
「だって~奎堂どのが学問所を辞める時の夢を見てしまったんですよぅ、思わず寂しくなって」
「思わずで抱きつくんじゃねーよ!」
岡を布団の上から踏みつける奎堂。
岡は「あっ!あっ!」と嬉しそうに声を上げた。
雁音はその様子を見ながら一つ欠伸をした。
まだ奎堂に踏みつけられている岡を放置し、部屋から廊下へ出る。
縁側の先の空はまだ夜が明けきる前の色だ。
すると、廊下の向こうから万吉が眠たそうに歩いて来た。
「お・・・?早いなぁ雁音」
「万吉、おはよう。お前も早いな?」
「いや・・・おれは厠行ったらまた寝るだよ・・・ふぁあ・・・」
「そ、そうか。よく寝るな」
まだ夢に片足を突っ込んでいる万吉に道をあけた。
眠い目をこすりながら万吉は雁音の横を通過しようとするが、ふとその手前で止まって言った。
「そういやさぁ・・・兄貴も早起きなんだなぁ?さっき玄関の前で会ってさ」
「え?何を言う、奎堂はずっとここにいたが?」
「ふぇ?・・・ん~、じゃあ誰だ?三弥さんかやぁ・・・」
雁音が不審に思った刹那、万吉の後ろに影が揺らめく。
「万吉伏せろ!」
雁音は万吉の腹を思い切り蹴り飛ばした。
雁音の一寸先、そして蹴り倒された万吉の上を鈍く銀に光る刃が掠めた。
「くそっ!・・・松本!敵襲だ!」
「はぁ?!」
簀巻き岡を盾にしながら奎堂がひょっこりと私室から顔を出した。
見れば用心棒の目の前には、それよりも遥かに大きく、刀を抜いた男が立っている。
奎堂の眠気は彼方へと吹き飛んだ。
「なるほど、お前が松本奎堂か。その命、もらい受ける・・・!」
「させるか!」
カチャリと刃を下段に構えて、男はそのまま強い一歩を踏み出し間合いを詰めてきた。
雁音がすかさず剣を抜いて突き出す。
刃の腹でそれを男は受け流すが、雁音は無駄のない刀捌きで第二第三の突きを繰り出す。
「なっ」
男は小さく驚くと、今度は鍔で確実に雁音の剣戟を受け止め、庭にもつれ出る。
「なかなか見事な剣・・・貴殿の名は?」
「失礼な奴だな。武士なら礼儀正しくまずは自分から名乗ることだなっ!」
雁音は重なる鍔から刃を滑らせその首を狙うが、見切った村雨の髪を数本切っただけで弾かれる。
少しだけできた間合いを挟んで村雨は雁音に律儀に名乗る。
「これは失礼した。俺は村雨だ」
「村雨・・・」
瞬間、雁音の気迫が緩む。
村雨と名乗る刺客はその瞬間を見逃さなかった。
すぐに下ろしていた刃を返し、そのまま上に斬り上げた。
「隙あり!」
「あ・・・っ、用心棒!!!!」
奎堂は簀巻き岡を投げ捨て、思わず駆け出そうとするが、雁音は僅かに上体を反らし、寝間着の前を斬られただけに留まった。
寝間着と、更にその下のさらしのようなものが切れ、同時に懐に入れていた本も落ち出す。
村雨は今度は大きく目を見開いて驚いた。
「なっ!?・・・・女子なのか!」
「は・・・?」
その言葉に少し眉間に皺を寄せた雁音は、左手で腰にあった鞘を振り抜き村雨の横っ面を殴打した。
そのまま村雨は土煙を上げ大地に突っ伏した。
「お前の目は節穴か?!・・・まったく!」
雁音は静かになった村雨に鋭い残心の視線を向けながら一つ文句を言った。
ぴくりとも動かないのを確認すると、納刀して落とした本を拾った。
昨夜奎堂から大事に取っとけと言われた刈谷の伝承がまとめられた本だ。
軽く表紙の砂を払い、ぱらぱらとめくる。
「・・・うむ、やはりな。奎堂見ろ、刈谷の伝承にも載っている、この刺客は剣豪村雨だ!本当にいるのだな!」
「いやお前!前!前!しまえ!」
雁音は納得の表情でその項目を開いて見せたが、奎堂は手を前に翳して視線を遮った。
村雨の刃は雁音の着物を帯ごと切り裂き、白く控えめな胸や、しなやかな太腿を隠せなくなっていた。
思わず奎堂は自分の羽織を投げ渡す。
「おおすまんな。寝間着は一枚しかないというのに、朝からとんだ災難だ」
「いやお前それよりも、女だったのかよ?!」
「はぁ~?!お前!今まで私を何だと思ってたんだ?!」
雁音は奎堂の羽織を着ると、憤慨してずんずん縁側まで近づいて来た。
奎堂は目のやり場に困りながら言い訳をする。
「・・・いや、こんな男所帯に妙になじんでるから・・・」
「何を言ってる?岡も女だてらになじんでいるではないか!」
「えぇ?!僕は男子ですよぉ!ひどいですぅ」
「何だと?!まぎらわしいぞ!」
「お前もまぎらわしいわ!」
雁音を男だと思っていた奎堂と、岡を女だと思っていた雁音はお互いに混乱した。
そんな賑やかな中、万吉は廊下で蹴飛ばされて倒れたまま夢の続きを見ている。
そこへむくりと村雨が起き上がった。
「いや御見それした・・・。なんという剣術。女、改めて名を聞かせてほしい」
「私は雁音だ。お前もさすがの剣術だ。同時に十人もの敵を斬ったという伝説の剣豪なだけはある」
「よしてくれ、それはもう昔の話だ」
戦意はないと見ると、雁音は村雨に歩み寄りながら素直に名を名乗る。
そして地べたに正座する村雨の視線まで雁音も姿勢を落とした。
「お前は昔も刈谷が荒れた時期に颯爽と現れた。今回も刈谷を乱す奎堂の悪い噂を聞いて退治しにきたのか?」
「その通りだ。我らが郷土刈谷を脅かすものを見過ごすわけにはいかなかったからな」
「言っておくがその噂は出任せだ。悪意ある者が奎堂があたかも悪いかのような噂を流し、お前のような刈谷を大切に思う者たちを煽っているのだ」
「・・・」
村雨は奎堂に視線を上げる。
完全に無防備な奎堂の様子と、それを守る凄腕の用心棒の態度を鑑みて「そのようだ」と深く息を吐いた。
「主勝だな。わかったなら潔く刈谷に帰・・・」
「俺を雁音殿の弟子としていただきたい」
「・・・ん?」
朝日が町全体に降り注ぐ。
奎堂の塾がある人形町は名古屋城から程近い、活気に満ちた通りだ。
動き出した町の賑やかさが塾の中まで聞こえてくる。
奎堂たちも朝餉の時間である。
奎堂、三弥、雁音に村雨、そしてまだ夢見心地の万吉と簀巻きの岡という、愉快な塾の面々は食卓についた。
「いただきます」
それぞれ手を合わせ、昨夜の献立よりも貧相な朝餉に手を付け始める。
しかし、割烹着姿の三弥は手を付けず、冷めた顔で奎堂に問う。
「それで・・・どうして一夜にして門下生が増えているんですか?」
「まぁ俺の人徳だな」
「まったくだ。松本が厄介なものを呼び寄せているんだからな」
「なぁ、おれさぁ・・・何で廊下で寝てたんだろ?」
「あのぉ~そろそろこれ解いてもらえませんか?」
「三弥殿とやら、朝飯はこれだけか?」
米を口に運びながら、各々好き放題言い始めるのだった。
そんな我が道を突き進む面々に三弥が耐えかねて吠えたのは、丁度万吉が皿を洗い終えて戻ってきた時だった。
「食べ盛りの弟子が増えて、うちはもう限界です!」
家計簿を机に叩き付けながら憤慨する三弥に、奎堂は面倒くさそうに返す。
「へーへーわかってらぁ、働きゃいいんだろ・・・」
「それだけじゃ足りませんよ!元塾生たちにきっちり今までの塾代を払ってもらうべきです!」
「はぁ~・・・めんどくせぇ」
「別に奎堂さんに回収しに行けと言っているのではありませんよ。彼らに回収に行かせればよいのです」
「用心棒たちにか・・・?」
渋々奎堂は隣に座る雁音にそれを申し入れるが、明らかに雁音は顔を顰める。
「断る!私は用心棒だ!お前を置いて何故お使いをせねばならんのだ!万吉と村雨に行かせろ!」
「そう言うと思ったわ・・・」
きっぱりと断った雁音の後ろから万吉が顔を出す。
「金の取り立てか?おれ借金の取り立てはやったことあるで任せてくれよ兄貴!」
「俺も手を貸そう。金を取り立ててこればいいんだな?」
「いやこいつらに平和的回収は絶対無理だろ!」
ふんふんと鼻息の荒い万吉と、刀に手を掛ける村雨を一瞬見ただけで奎堂は諦めた。
そこへ相変わらず簀巻きから解放されない岡が転がってきた。
「奎堂どの!こんなときこそ僕の出番ですねぇ!」
岡は簀巻きから解放されることを条件に、塾代の回収へと赴いた。
とりあえず静かな環境でいたかった奎堂は岡を軽い気持ちで送り出したが、彼は思ったより早く昼前には塾へ戻ってきた。
ちゃんと懐に塾代を携え、更に塾再開の宣伝までしてきたと言う。
「はい!塾代ですっ」
「すげぇ・・・」
「意外なところで役に立つのだな、お前」
三弥に塾代を手渡す岡に万吉と雁音は感心した。
「ふっふっふ。塾運営において大事なのは愛嬌と度胸とお金の工面!いつか奎堂殿と塾を開いた時の為に身に着けたんですよぅ!」
「へぇ、お前そんな夢があったのか・・・」
しかし同時に岡の野望を垣間見てしまった雁音であった。
かくして奎堂の塾は再び始動した。
徐々に塾生がやってくるようになり、すぐに雁音たちは家事や内職から解放されるようになった。
奎堂は面倒くさがっていた割には、塾生たちの前に立つと活き活きと教授を始める。
「でゅっふふ・・・これですよこれぇ。奎堂どのはやっぱり学問をしている時が輝いているのですぅ~」
「そ、そうだな」
「兄貴、かっこいいなぁ!」
「流石、刈谷の秀才松本奎堂だな」
岡の少し怖い笑い方については深く考えないことにして、雁音は確かに奎堂が元気になったようで胸を撫で下ろした。
数日前までは完全に腐りきっていた奎堂だったが、塾を再開してからは身なりも良くなり、酒の量も減っている。
万吉や村雨もその様子を見て嬉しそうに同意した。
夕刻、その日全ての教授を終え、奎堂は私室に向かった。
奎堂の私室は塾のある母屋の中庭を挟んで裏側にあたる。やはり主の部屋らしく、その部屋の前の廊下には庭を見渡す縁側がある。
そんな特等席に誰かが座っている事に気付いた。
「用心棒」
「おお、終わったか?ご苦労だったな」
ここのところ村雨の一件以来奎堂への襲撃もなく、少し退屈そうにもしていた雁音がそこにいた。
手には奎堂が以前押し付けるように譲った本を持っていて、労いの言葉をかけてきた。
「刈谷の伝承、そんなに楽しいのかよ?」
「ん?ああこれか?私はよそ者なのでな、刈谷の伝承は知らないことが多くて興味深い」
「よそ者?お前どっから来たんだよ?」
「刈谷に来る前は浜松にいた。その前は京にいた。・・・巡り巡って、今は利善様に仕えているのだ」
「なんだそれ、まるで旅芸人だな。何でまた今は利善に仕えてるんだ?」
雁音はその奎堂の問に一度「ふむ・・・」と考えたが、すぐにいい言葉が思い浮かんだのか自信満々に答えた。
「一華咲かせるためだ!」
「ひとはな?なんだそれ」
「私には夢がある。それを叶えるためにここにいる!」
「ほう。夢ねぇ」
「お前には何か夢はないのか?」
「夢なぁ・・・俺の夢はとうの昔消えてなくなったな。だからこうして適当に塾を開いとる」
「・・・そうか」
「な、何だよ、そこまで落胆するこたないだろ?」
それまでは興奮気味に話していた雁音が、奎堂のその答えには寂しそうな顔をした。
奎堂はその表情に戸惑った。彼女が奎堂に刀を突きつけた日以来、普段の勝気な顔、激怒した顔、岡の変態行動に困惑するという表情しか見たことがなかったからだ。
こんな顔をするのだと、奎堂は戸惑いながらもそこから目が離せなくなった。
雁音はその表情のままぽつりと問う。
「お前はただの学者に成り下がったのか?」
「ただの学者・・・」
その言葉を雁音に言われるのは二度目だった。
奎堂は思わず鸚鵡返ししていた。
出会った日からは怒涛の日々が続いてすっかり忘れており、奎堂は改めてその言葉に向き合うことになった。
「いや・・・ただの学者って、俺は元々ただの学者だ。成り下がってるたぁ結構なお言葉だな?」
「はぁ、わからんならそれでいい。とにかくお前を守ることが今の私の役割だしな・・・」
「どういう事だよ、お前は俺に何て言ってほしいんだよ」
雁音は答えに困る奎堂にため息を一つ吐くと「そうだ」と懐から手紙を取り出した。
「昼頃飛脚が来た。お前は教授の最中だったので預かったのだった」
「お、おお・・・」
思わずはぐらかされ、奎堂は少し怪訝な顔をした。
仕方なく手紙を受け取りちらっと差出人を確認する。見覚えのある文字が並んでいた。
すぐに奎堂は中身も確認する。
「・・・・兄上?」
「どうした?刈谷の本家からか?」
「何だこれ?境川の橋まで来いだぁ?いつだよ・・・って明後日じゃねぇかよ。急に何で」
「何かあったのか?」
「わからん。詳しい事が一切書いてない」
奎堂の兄からということは刈谷からの文だ。雁音も思わず立ち上がって奎堂の手元を見る。
しかし、日時と場所の指定だけされたその手紙からは詳しい事は何も読み取れなかった。
「刈谷に行くしかねぇか」
「刈谷に・・・」
「用心棒、もちろんついてくるよな?」
刈谷は奎堂のよからぬ噂の流れる、刺客の巣窟でもある。
奎堂の言葉に雁音は真剣ながらも挑戦的な微笑みを浮かべ、力強く返す。
「ああもちろんだ!」
【ちょっぴりあとがき歴史紀行 その2】
今回登場した村雨のモデルは、刈谷の民話「伝説の剣豪村雨」からつくりあげたものです。
徳川泰平の世である江戸時代。戦はなくても、日照りや物価の高騰などで民たちの暮らしが苦しくなる時代には村雨のようなスーパーマン的民話が多く見受けられます。
奎堂たちが生きていた当時の刈谷藩は、財政的にも辛く、城の外の民たちにはもちろん、藩士たちにもその苦しさがのしかかってきます。
奎堂の刈谷の生家では裏で野菜を育てていたり、奎堂自身も、紙が大変貴重な為、何度も同じ紙に文字を書いたり、文字の練習には廊下に水で文字を書いたりしたという話が伝わっています。
藩士で学者という身分である奎堂も、案外質素を通り越した困窮状態にも耐性があったのでは・・・と思ったりします。
安政の大獄以前も、そしてこの後も、奎堂は過酷な状況に何度も陥りますが・・・。本当に昔の人は強いなぁと思うのです♪