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第一話 ちいさな刺客

―― 松本奎堂まつもとけいどう


三河国刈谷みかわのくにかりや藩士。通称を謙三郎けんざぶろう。号を奎堂けいどうという。

代々文武両道に優れる松本家の次男として生まれ、幼いころから神童と呼ばれる程の才能を発揮する。


十八歳の折、槍の稽古中に相手の槍の柄が刺さり左目を失明するも、その才能は止まることはなく遂に選ばれて幕府の最高学府・昌平坂学問所しょうへいざかがくもんじょへと入学する。

全国から集まる数々の秀才を抜きんでて学生最高位の舎長を務め、その後故郷刈谷で藩主の勉学を教授するまでに上り詰めた秀才中の秀才。


その後、三河の隣国尾張名古屋で私塾を開くと、その名声は尾張三河中に知れ渡り、多くの門下生が日々その教えを乞いに集まってきている――――。




「――はずなのに!これはどうしたことですかぁああああ~~!!!!!」

「あ?」



一人語りを終えた岡鹿門おかろくもんは泣き崩れた。

そんな旧友を一瞥して、奎堂は構わず酒をあおっている。

かつて神童などと呼ばれていた面影はなく、乱雑にまとめられた長い髪に何日着たかもわからない着物。

十八の頃失明したという左目の大きな傷もあり、どちらかと言えば堅気ではない、とても塾をしているとは思えない風体を彼は醸し出していた。



「昼間からお酒をそんなに!なんて哀れなお姿!ああ嘆かわしい!」

「うるせぇなぁ岡、遥々仙台から小言言いに来たのかよ」

「門下生はどうされましたか!授業は?!!」



遥々仙台から名古屋を訪ねてきた旧友に、とん、と酒瓶を置くと奎堂は面倒くさそうに答えた。



「はぁ。尾張のやつらときたら汚い。塾代を持って来よらんからな・・・塾は休みだ」

「ああああああこんな奎堂殿ではないはずです~」



多くの人に待望された刈谷の秀才が教授する塾。

最初こそ多くの門下生を抱えて繁盛したが、どういうわけか近頃は生徒の姿も見かけず、建物自体も目に見えて荒廃し始めた。



「奎堂殿は昌平黌しょうへいこう一の秀才!今頃は学者として大成功してるものだと思っていましたのに!久々に尋ねてみたらこんな体たらく!」

「だから・・・生徒が塾代もってこりゃ俺だって教授してやらぁな」

「僕の奎堂どのは!もっと志高く!今頃は故郷刈谷の英雄になられているはずだったのにぃ!!」

「っ!」



子どものように感情を爆発させる岡の言動に奎堂は反応した。

その手に持つおちょこに力が入る。



「うるせぇ!」



目にもとまらぬ速さで投げ飛ばされたおちょこを、岡は見てもいないはずなのにするりと避けてみせた。

奎堂が物を投げる癖は以前からのもので、同じ学問所で一つ屋根の下過ごしたことのある岡はそれを心得ているのだ。


しかし、岡を無事に通過したおちょこはというと、たまたま庭の木戸から入ってきた人物に直撃したのだった。



「痛っ!」



短い叫び声と共に崩れ落ちた男に、更に後から入ってきた生地の良い着物を着た男が駆け寄る。



「大丈夫か弥四郎やしろう!」

「お、おちょこ・・・?何故おちょこが飛んでくるでござるか??」



何が起こったのか混乱する弥四郎と呼ばれた男と、それに声をかけた人物に奎堂は見覚えがあった。



「弥四郎に・・・利善としよし!」



思わず立ち上がりその名を呼ぶ。

突然の乱入者に、奎堂の先客・岡鹿門は口をとがらせた。



「えーちょっと誰なんですかぁ?僕と奎堂どのの仲を邪魔しないでくださいよぉ~」

「お前こんなところに何しにきた!帰れ!」



そんな岡の文句に被せるように奎堂の声が飛ぶ。

罵声に近いその声に、名を呼ばれた二人はびくっと身をすくませた。



「申し訳ありません、これには訳が・・・でも!」



最初はしおらしく謝罪をした利善だが、すぐに強い意志を持った視線を奎堂に向けた。




「奎堂殿!御命を狙われています!早く!どこかへ身を隠してください!」




庭の松の木から、スズメが二羽騒々しく羽ばたいた。

羽音の残響が消えるのを待ったかのように、間を置いて奎堂は問うた。



「・・・俺の命を?」

「奎堂どののお命を狙う?!そんな物騒・・・むがぁ!」

「ほぉ、上等じゃねぇかよ」



騒ぎ出す旧友の口を塞ぎ、奎堂は挑戦的に笑ってみせた。


奎堂はその命を狙われた事はないが、故郷で一度幽閉されたことはある。

それは今目の前にいる利善に向かって、刈谷藩の現状を憂い、改善する案を提案した事が原因だった。


奎堂の故郷刈谷は、神君家康公の従兄弟である水野勝成が初代藩主を務め、更に母・於大の方が過ごした地でもあり、江戸幕府においては重要な土地とされてきた。

代々神君にゆかりある名家が治め、幕府には盲目的に従い、その治め方を徳川泰平の世にずっと貫いてきた保守的な国だった。

折しも黒船の来航をきっかけに騒がしくなった世の中、そこで奇抜な意見を述べた奎堂は当然危険人物とされ、実家から一歩も出るなと罰を受けたのだ。


奎堂が名古屋に出たのはそれから間もなくの事だった。



「刈谷の奴ら・・・俺を幽閉するだけじゃあ飽きたらねぇってことか?」

「そ、そんなわけでは!」

「はんっ!俺の首がそんなに欲しけりゃいくらでもくれてやる、取れればの話だがな!」



何故か口を塞がれて嬉しそうな岡を脇に抱えたまま、奎堂は縁側で大見得を切った。

庭の二人からは悲鳴のような声があがる。



「奎堂殿!そんな!」

「本当に危険なんです!すぐにお逃げください!」

「はんっ、どうせ俺は、故郷の英雄にもなれなかった裏切者だから、な・・・・っ?!」



一人舞台をしていた奎殿の喉元に、ひゅうと、冷たく光る物が触れる。

奎堂は視線だけを下に向けた。


見ると、カラスのような黒い装束の子どもが、右手で振り抜いた刀の刃をぴたりと喉元で止めている。



「いやああああ!!!!奎堂どのに何するんですかぁ!」

「・・・この腑抜け学者の首を言われた通り取ろうとしただけだが?」



先に絶叫したのは、奎堂が驚いて力を抜いたため自由になった岡の方だった。

その叫びに対し、奎堂から攻撃的な視線を反らさず、その子どもは生意気な口調で、しかし律儀に答えた。



「なん、だよお前」



ようやく声を振り絞った奎堂に、今度は低く真剣な声色で子どもは答える。



「お前はただの学者に成り下がったのか?」



まっすぐな瞳にそう問われ、奎堂の息は止まる。

その少しつり上がった狐のような子どもの目に、奎堂は驚きもしたが、ふと妙な懐かしさも覚えた。



雁音かりがね殿!いけません!」

「何だ、寸止めしただろう?弥四郎」



思わず弥四郎が声をかけると、その子ども、雁音は面倒くさそうに弁解した。



「我々は奎堂殿を守るためにここに来たんです、それを危険な目に遭わせるなんていけません」

「はーい・・・」



生意気にもそっぽを向いて弥四郎の説教を聞く雁音。

どうやら弥四郎や利善の仲間らしく、刀を鞘に納めた。



「何なんですかあなたたち!突然奎堂どのを襲いにくるなんて!っきゃああああ!」



また喚き出した岡に、雁音は再び鯉口を切った。

突然目の前に翻った刃に、岡は盛大に縁側に倒れ込む。



「騒ぐな。さっきから聞いていれば馴れ馴れしいなお前。・・・こちらの方は、三河国刈谷が藩主・土井利善様であらせられるぞ!頭が高い!控えろ!」

「刈谷・・・・藩主?!」



利善と呼ばれた人物は、岡が驚きの声をあげたことに恐縮しながら「すみません、そうです・・・」と小さく答えた。

殿としての威厳を微塵も感じないこの男は、少しやつれ気味で色白だが、奎堂に藩政の改革を進言された藩主なのであった。

不安なのか利善は「こういう時、何か藩主とわかるものを提示した方が良いであろうか?家紋が入った何かとか…」とこそっと隣の弥四郎に問い「結構ですよ、殿」と笑顔でやんわり断られた。


気を取り直して利善はまた本題を持ち出す。



「奎堂殿、もう一度言います。あなたは御命を狙われています!今日はあなたを保護しにきました!」

「保護?俺はこの通り、今は何も狙われるようなことはしてねぇ、名古屋で大人しくしてるだろうが。保護なんていらねぇよ」

「今刈谷では、あなたが危険人物で、この世から排除しなければならないという物騒な噂が広まっているのです」

「噂・・・?」



物騒な噂に、また岡が顔を歪める。



「はんっ!ただの噂だろ。わざわざ名古屋くんだりまで俺を殺しにくる奴なんかいるかよ」



すると、利善一行が入り開け放たれていた木戸から大声がする。



「お前か!?松本奎堂とかいう大悪党は!」



一同の視線は木戸から入ってきた、小柄な狐色のもさもさ髪をした少年に向けられた。

少年は小さな刃渡りのドスを構えて吼える。



「仁義にかけて、おれはお前を許さんかんな!この万吉まんきち様が退治してやるぜ!覚悟ぉ~!!!」

「大悪党・・・?」


呆然と皆が見ている中、万吉と名乗りを上げた少年は、ドスを前に突き出しながら奎堂に向かって走り出す。

しかし、一番奎堂の近くにいた雁音が、自分の目前を通る不逞の輩の腕に冷静に手刀を落とした。

手首を強く叩かれた事で、思わず万吉はドスを取り落とし、その力がかかるまま地面に突っ伏した。



「痛えっ!!!!」



顔面を強打したようで、万吉はその状態で大地に鎮まった。

雁音がしゃがんで呼び掛ける。



「弱っ。おいそんなに強く叩いていないだろ?」

「いてぇ・・・いてぇよぉ」

「お前なんでこんな弱いのに松本を狙った?」

「ひっく・・・だ、だってよぉ・・・ひっぐ」

「泣いてないで答えろ。弱いくせに、何故こんなことをする」



万吉の、狐色のもさもさがまとめられた後ろ髪を掴み上げ、顔を覗き込みながら尋問をする雁音に岡は白目を剥く。



「あなた・・・そこまで弱いと言わずとも・・・」

「雁音殿は自分より弱い男子には厳しいですからね」



苦言を呈した岡に弥四郎はやんわりと補足をした。

あっという間に終わった襲撃騒動を見た利善は、すかさず振り向いて奎堂に同意を求めた。



「奎堂殿!これで信じてもらえましたか?貴方に危機が迫っていることを!!」



泣きじゃくる弱い襲撃者を一瞥する奎堂。



「危機ねぇ・・・」

「あ、まだ疑っていますね?!」

「まさか利善お前!こいつ使って三文芝居打ったんじゃねぇだろうな?!」

「いやまさか!違います!」



奎堂に疑われた利善は、打ちひしがれている少年の横に雁音と同じようにしゃがむ。



「万吉君、だったね?・・・どうしてこんなことをしたんだい?」

「ひぐっ・・・ま・・・松本奎堂は災いを刈谷に連れてくる・・・」

「え?」

「そう聞いたんだ!こいつは刈谷に居ちゃいかんだ!だからおれが二度と刈谷に近づかんように懲らしめてやろうと思っただ!」

「そんなことを誰が・・・?」



涙ながらに三河の訛りで語る万吉に更に利善は追究する。



依佐美よさみ村でだんご食ってたら・・・そう人が話してるのを聞いただよ」

「領内の噂と同じですね。・・・奎堂殿申し訳ありません、私が至らぬばっかりに刈谷に尽くしてくれたあたなを危険な目に遭わせて」



やはり刈谷の領内での噂であったことに利善は頭を下げた。



「やめろ利善、お前は何も悪くないじゃないか。俺が刈谷で煙たがられてんのは前からの事で」

「いえ!」



利善は今までで一番大きな声で強く否定する。



「奎堂殿は刈谷の為に、政の改正を上申してくれたのです。しかし、受け入れることができなかった保守派の者たちが奎堂殿を排除しようとした。それを私は止められなかった。忠義を尽くしてくれる奎堂殿に私は本当に何てことを」

「もういい利善、終わったことだ」



奎堂の諦めたような言葉に周りは沈黙するが、万吉だけがまだすすり泣いている。



「おい、もういい加減に泣き止め。もう痛い事はしないから」

「いや・・・・いい話だよぉ」

「は?」



雁音が少し優しく声をかけると、少年は更に顔を鼻血と鼻水と涙でくしゃくしゃにしていた。



「そういう事だったんだな・・・。松本奎堂がこんないい感じの奴だなんて・・・おれ・・・おれ感動して」

「そ、そうか・・・」



雁音はそのくしゃくしゃの顔から少し視線を背け、適当に相槌を打った。

そして少年は顔の色々を腕でひと拭いすると、奎堂に向かって言い放った。



「よし決めた!おれ、兄貴の子分になる!」

「あ、兄貴・・・?」

「ほいで、兄貴の近くで、兄貴の命を狙う不逞の輩を退治するだ!」

「不逞の輩のお前がよく言うな・・・」



突然兄貴と呼ばれ奎堂は困惑し、雁音は小さな声で苦言を呈した。



「やめろ、俺は博徒みたいな奴なんかとお近づきになりたくねぇぞ!」

「兄貴ぃ!」

「やめろ~!」



兄貴ときたら子分で、何やら任侠のような関係になってしまう。

奎堂は足にすり寄ってきた狐色髪の子分に全力で抗った。



襲撃騒動も落ち着いた夕刻―――。

雁音と万吉が、並んで奎堂の前に正座していた。



「ということで、この二人を身辺護衛のために置いていきますね」



その横から利善が朗らかな笑顔でそう告げる。

既に不安そうな表情は消え去っていた。



「おい待て利善!弥四郎を置いていくならまだしも・・・ちんちくりんと博徒なんか護衛になるかよ!」

「雁音殿はこう見えて刈谷で最も腕の立つ剣士ですよ。拙者より強いです」

「いやいや説得力皆無だからな?弥四郎お前が残れ!」

「え、しかし拙者は・・・」



お前が残れと言われた弥四郎は困った顔で笑った。

そんな奎堂に万吉が前のめりに主張する。



「兄貴~!俺がいるぜ!」

「お前はちんちくりんに一撃でやられてたよなぁ?!黙ってろ!」



すかさず次に岡鹿門が身を乗り出した。



「奎堂殿!僕もおりますぅ!」

「お前は論外だ!早く仙台に帰れ!」

「やーん」


「ふふふっ」



利善が次々に切り捨てる奎堂の様子を見て笑い出す。



「奎堂殿、あなたのまわりには素晴らしい同志がこんなにいるのですね」

「はぁ?!俺に同志なんて・・・」

「これなら、私は安心して刈谷へ帰れます」

「・・・・」



奎堂は利善の言葉に不満げに押し黙った。

利善はその反応にまた笑った。



「弥四郎から聞いてはおりますが、もう少し周りにいるものに目を向けてみてくださいね?」

「…そうかよ」



消え入りそうな声で奎堂は返事になっていない返事をした。

夕焼けに向かって、弥四郎を伴った利善は刈谷を目指して帰っていった。

その後ろ姿が見えなくなるまで奎堂は玄関先から見送る。



「はぁ。利善の奴やっかいなものを置いていきやがって…」

「利善様はな」

「ん?」



第一印象から一変して静かに事の流れを見守っていた雁音が口を開く。

奎堂は用心棒となった隣の小さな剣士を見下ろした。



「お前が寂しいんじゃないかって言ってた。だから私や万吉を置いていったのだ」

「寂しい?俺が?馬鹿言え」

「お前が先の大獄で多くの仲間を失った事を心配していた」

「…ふぅん」

「まぁ安心しろ。私がお前の同志になってやる、寂しい事はないぞ!」



ふいに雁音が奎堂を見上げ、思わず目が合ってしまった。

自分に刃を突き付けた時とはまた違う、そこには純粋無垢な子どものまなざしがあった。



「お前が…?」



奎堂は急いで利善の行った方に視線を逸らした。

「たわけたこと言ってんじゃねぇ…用心棒の分際で」と小さな声で否定した。

雁音がその言葉にどんな反応をしたのか、彼は決して見ようとはせず、ずっと茜色に染まる空を見ていた。


そんな二人の後ろで見送っていた万吉と岡。

二人とも達成感に満ちた顔をしていた。



「いやぁ、いい一日だったなぁ」

「奎堂どのの命を狙っていた輩がよくいいますねぇ、次狙ったら僕があなたを殺しますからね~?」

「またまたぁ~怖い事いわないでくれよ二度としねぇよ~」



岡は奎堂より遥かに背丈がない。

万吉や雁音と並ぶと同じ小さなものの類に含まれる程の背だ。

そんな小さな二人が一日の総括を述べていると、その背後に黒い影が近づいた。



「・・・本当でしょうね?」



冷ややかな声と共に、ひたりと万吉の背中に刃が当てられた。

それはよく手入れされた包丁だった。



「ぎゃああああああ!!!!」



万吉の泣き叫ぶ声が前の二人にまで聞こえた。

振り返るとそこには、割烹着姿の男が、輝く包丁を万吉に馬乗りになりながら掲げている所だった。

岡は完全に腰を抜かし、お得意の白目を剥いている。



三弥さんや?お前なにやってんだ?」

「奎堂さん、本当にこいつを仲間に入れるおつもりですか?」

「まぁそんなところだな」

「あなたを一度殺そうとした者ですよ?」



奎堂は取り乱すわけでもなく、いつもの面倒くさそうな表情のまま、馬乗りになる人物に声をかけた。

三弥と呼ばれた男は掲げた包丁はそのままに、無表情に奎堂に問う。

異様な光景のまま、淡々と会話が交わされた。



「ちょ、ちょっと・・・!誰なんですかあなた!」



勇気を振り絞った岡が、半べそ状態で叫んだ。



「私は伊藤三弥。頼三樹三郎先生の弟子にして、奎堂さんの弟子でもあります」

「え、頼?あの大獄で亡くなった?」

「ったく・・・」



奎堂は頭をかきながら近づくと、三弥の振り上げられた腕をつかんだ。



「俺は大丈夫だ。利善が護衛まで置いて行ってくれたんだ。死んだりせんから安心しろ」

「・・・・・そうですか」



三弥はそれを聞くとまた無表情のまま、出てきた玄関の中に戻っていった。

その背中に向かって万吉が泣き叫ぶ。



「何だよぉあいつぅ!」

「いつの間にいたんですか?!」

「あいつは伊藤三弥。俺の住み込み塾生で刈谷以来の友人だ。ちょっと大獄で心折れちまってな。そいで常にあんな状態だ」

「大獄で?」

「根はイイやつなんだ。まぁ仲良くしてくれや。・・・ほじゃ、飯にするぞ」



死ぬ思いをしてすっかり腹を空かせた万吉と岡の前に、貧相な夕食が並んでいる。

白米は白米だが明らかに古米。少し黄ばんだその隣には薄くてお椀の色が透ける、具のない味噌汁のようなものが並び、しおれた沢庵が二切れ申し訳程度に添えられている。

以上だった。



「・・・これは晩飯か?」



少し眉間に皺を寄せて雁音が問う。



「そうですよ。かれこれ塾のお料金が入らなくなって半年。とうに豪華なおかずなんて調達できる余力はありません」



淡々と三弥は答え、奎堂は無言のまま食事を開始している。

これがこの塾の常なのだと、小さな三人は悟った。



「これは重症ですね・・・」

「大丈夫かこの塾・・・」

「文句言ってないで早く食べてくださいよ。食べ終わったらあなた方にも内職を手伝ってもらいますからね」

「え、内職?」

「えっと、お三方のお名前は?」

「雁音だ」

「岡鹿門ですぅ」

「おれは万吉!」

「そうですが、雁音くん、岡殿、万吉くん。このあと内職を教えますね」



当たり前のように責務が与えられそうになり、雁音は勇敢にも立ち上がった。



「いや待て!万吉はまだしも、私は用心棒で岡は客人じゃないか・・・内職などとは」

「雁音くん、この塾で働かざる者・・・食うべからずです」

「は、はい・・・」



雁音はあっけなく敗北した。

そして三人は三弥から夜遅くまで家事から内職まで言いつけられ、働かされた。

雁音が昨日までいた刈谷も決して裕福な藩ではなかった。

紙など特に節約を言いつけられ、何度も文字を書いた上からも使っていたし、城内で野菜だって育てていた。


塾を開いている松本奎堂であれば、まだこの城よりもましな暮らしをしているだろうと信じていたが、それは雁音の幻想と消えた。

思わず出てしまいそうなため息を押し殺し、薪を節約した、ほぼ水のような風呂を済ませ、廊下を歩く。


ふと、進行方向の縁側に、奎堂が座っているのを見つけた。

明かりが漏れる背後の部屋が彼の私室なのだろう。

既に寝間着姿の奎堂は雁音に気づき声をかけてきた。



「こんな遅くまでご苦労だな、用心棒」

「まったくだ。私は用心棒だ、雑用をするためにここにいるわけじゃない」

「ごもっともだ。まぁ許してやれ、お前らを指導している三弥は楽しそうだったからな」

「楽しそう?」

「こんな賑やかなのは久々だからな、たまにはいいもんだ」



軽く奎堂は鼻で笑ったが、少し寂しさが垣間見えた。

時折奎堂はやるせない寂しさや憤りを表情に見せる時があると雁音は思った。

そんな彼の隣に雁音は笹の葉に包まれた何かを置く。



「やる」

「何だこれ?いなり寿司・・・?」

「私の好物だ。刈谷を出る時に利善様が持たせてくれたものだ。さっきどうにも腹を空かせていた万吉にもわけてやった。あいつもいなりは好物らしいぞ」

「いなりが好きってお前ら狐かよ」



奎堂は五つ並んだ黄金色の美味しそうないなりを一つつまんだ。

しばらく味わっていなかった贅沢な一品。じわりと口の中に広がる揚げの旨味と酢飯を、一口一口大切に堪能した。

もう一つのいなりに手を伸ばそうとして、ふと思い出すことがあった。



「狐ねぇ。・・・ほいや、刈谷の伝承に万吉って名前の狐がおったな・・・」

「ほう?そうなのか?」



珍しい話を始めた奎堂の横に、雁音は同じように腰を下ろした。



「万吉きつねって言ってな、刈谷の万吉稲荷に住む狐で、雨が降りそうになると知らせてくれる親切な狐だ」

「ほぉ!それは万吉より役に立ちそうな万吉だ」

「違いねぇわ。・・・そうだな・・・」



奎堂はそういって背後の私室に入ると、手に一冊の本を持って出てきた。



「確かこれに載ってた」

「これは?」

「刈谷の民話や伝承が載ってる本だ」



雁音は受け取ってぱらぱらと目を通した。

特に挿絵もなく、淡々と刈谷の伝承がまとめられているその本は、ずいぶん表紙も柔らかくなって読み込まれている。



「・・・・お前は刈谷が好きなんだな?」



載っている話も興味深いが、雁音の口からまず出た感想はそれだった。

「はぁ?」と思わず雁音を見下ろし奎堂は抗議する。



「馬鹿言え、刈谷が好きなら今頃こんなところにおらんわ」

「ならこんな書物、捨ててしまば良いではないか?」

「・・・・・・」

「どうせ俺は、故郷の英雄にもなれなかった裏切者・・・」



都合が悪くなると黙り込む奎堂に、雁音は昼間彼が口にした言葉を引っ張り出してきた。



「お前は案外故郷想いの優しい奴だな?」

「はんっ、俺は刈谷の人間に幽閉されたこともある。だれがあんな国・・・・・・俺は寝る」



少し意地悪そうに言う雁音を残して、奎堂は立ち上がる。



「あ、おい、この本は?」

「そんなもんお前にくれてやるよ!大事に取っとけ!」



ぱしん!と勢いよく私室の障子が閉じられた。

すぐさま部屋の灯りは消える。



「何だその態度!それが命を預ける用心棒に対する態度かぁ~?!」



雁音は一応部屋に籠った主に嫌味を述べた。

そして、手元の本をもう一度見る。



「まったく素直じゃない奴だ」



小さな声でそう呟くと、頬を緩めた。

初夏の夜の涼風に撫でられながら、雁音は月明かりの下でまた本を開いた。



【ちょっぴりあとがき歴史紀行 その1】


松本奎堂の故郷・愛知県刈谷市。

愛知県のほぼ中央に位置し、現在は最先端技術を駆使した自動車関連産業の工場が立ち並ぶものづくりのまちとして発展しています。ですが、古くは徳川家康の母・於大にゆかりある刈谷藩の城下町として栄えた歴史豊かなところでもあります。


物語の中で奎堂が語った民話「万吉稲荷のきつね」。今の都会的な刈谷からは想像もつかないですが、かつては葦が生い茂る原っぱがたくさんあり、きつねに関する民話が数多く残っています。


最近、わずかに昔を偲ぶ自然が残る依佐美できつねが目撃され、新聞記事にもなりました。

今もどこかで、そっと民話は生き続けているのだと思います♪

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