第十四話 桜華追想
名古屋城をまっすぐ望める大津の通りまで、奎堂と雁音と万吉は岡鹿門を送り出しに来ていた。
仙台藩士である岡は全国を見聞する任務を藩から賜っているため、早々に立ち去らねばならなかった。
「寂しいです奎堂殿・・・。でも僕は藩より大命を預かる身・・・心引き裂かれる思いです!」
ひっしりと奎堂にすがる岡を、雁音と万吉が白い目で見ている。
「勝手に引き裂かれていろ」
「おれが知ってるだけでもひと月以上はいたよなぁ・・・?」
しがみ付かれている奎堂に至っては、決して目を合わせないように煙草をふかしている。
そんな態度でも、長年の付き合いである為か、岡は動じない。
「奎堂殿は京へ向かわれるのですよね?」
「・・・まぁな。ほだけど、それは最終的にだ。今はその時じゃねぇ、大坂へ一度出ようと思っとる」
「ほほぅ、大坂へ?じゃあその時はぜひ僕も・・・」
「えぇー」
雁音と万吉が揃って声を上げた。
またこいつと対面するのだと思うとうんざりする。
できれば大坂でばったりと出会わない事を祈るしかできなかった。
袖を振り振り、一歩進んでは振り返りつつ、岡は西へと旅立っていった。
ただの見送りなのにどっと疲れた三人は、また塾までの道を引き返す。
すると、途中で奎堂が一軒の紙屋の前で歩みをとめた。
「あ・・・ちょっと寄り道してく。万吉、先に行って三弥の夕食の支度を手伝ってやれ。雁音はついてこい」
「おう!」
「紙屋?何用があるのだ?」
「ここの親父にたのまれてな。少し前に一筆作品をこさえたんだ。ついでに礼金を取り立てに行く」
「礼金を無理強いするなよ」
「うるせぇ。それなりの大作だもんでな、きっちりもらうもんはもらう」
雁音の呆れたため息を無視して奎堂はのれんをくぐった。
奎堂はそれなりの学者であり詩人である。確かに一筆一筆料金を取っても良い腕前だが、その態度に雁音はいつか顧客がいなくなってしまうのではと心配が尽きない。
そんな心配を他所に、奎堂の顔を見た店主は穏やかに微笑み、二人を中へと招き入れてくれた。
「ああ、松本様。丁度良かった、御礼をご用意していますよ、ささ、あがってください。お連れ様もどうぞ」
「すまんな」
遠慮なくどかどかとあがりこむ奎堂に続いて雁音は恐縮しながら草履を脱いだ。
すると、目の前に鎮座している衝立に目を奪われた。
「わぁ・・・」
「ん?どーした」
「お前がこさえたというのは、この衝立の事か?」
「ほぉ、お前俺の字、わかんのか?」
「勿論だ」
輝くような目でみつめる雁音に奎堂はまんざらでもない様子でそれを見守っていた。
すごいな、すごいな、とくるくる衝立の周りを歩きながら感動する彼女に、奎堂は感心した。
「狐女のくせにこの凄さがわかんだな・・・」
ふと、奎堂は雁音が本を難なく読めたりと基本的な教養があることを思い出した。
それに加えて書の良し悪しがわかるのは、それも大和の知人に教えられたからだろうか。
「お前、読み書きができる上に書がわかるなんて教養がいいじゃんかよ」
「ふん、私は大和で剣術と読み書きを習い、それに、駿府で弥四郎に軍学も習っているんだぞ」
「そりゃあ大したもんだ」
「あとはな、渡辺さまは書画が好きだったから、こういう善し悪しもわかるぞ」
「渡辺さま?」
「渡辺さまは私を大和から連れ出してくれた方だ。弥四郎と会うまではしばらく世話になっていたんだが」
「ふうん・・・?」
雁音がふんぞり返って自慢話をしているうちに、奥から紙屋の主人がお茶が入りましたよと声をかけてきたので、二人は話を切り上げて部屋に入った。
一方、万吉は忙しそうに夕食の準備をする三弥を手伝っていた。
何故かいつもより炊くご飯の量が多く、おかずが華やかだ。
「これくらいで足りますかね・・・」
「なぁ三弥さん、今日はかなり御馳走なんだな?」
「ああ、夕食の分だけじゃなくて、明日の花見用の分もつくっていますからね」
「花見?花見に行くのか?!」
「行くのは奎堂さんとご妻子です。私たちはお留守番ですよ」
万吉の顔が一気に明るくなるが、三弥はいつも通りの薄暗い瞳を万吉に向けやんわり制した。
それは昨夜の事にさかのぼる。
生徒が帰った塾室に三弥と雁音は呼ばれた。
一服煙管をふかしながら奎堂はお願い事を彼らに語り、それを聞いた三弥はやれやれとため息をついた。
「なるほど、それで、私に塾の留守をお願いしたいと?」
「お前だから頼んでんだ」
「・・・・・突然花見だなんて。気持ち悪いですね」
「気持ち悪いって何だよ」
「家族水入らずだなんて、久々ではありませんか?」
奎堂には妻子がいる。
それは家同士の決められた婚姻だった。
奎堂の妻はてつといい、犬山藩士の娘で、御淑やかな女だ。塾に入り浸り、乳飲み子のいる本宅に戻らない事が多い奎堂にも文句一つ言わない。
奎堂の子息である甲太郎を産んでからあまり体調がすぐれないのもあったが、滅多に雁音たちの前には姿を現さなかった。
「んー、まぁほだな・・・」
どこか他人事のように奎堂は適当な相槌をうつ。
「何が裏にあるのですか?大方察しはつきますが、しっかり説明してくださいよ」
「京に向かうにあたって、てつを離縁する」
「え・・・」
珍しく三弥が動揺する。
二人のやりとりを大人しく見守っていた雁音も一瞬目を見開いた。
「だから三弥、お前にこの塾を任せたい。お前はどうせ、京へ行けんだろ?」
「京へ行かれて・・・何をされるおつもりで?」
「桜や頼、雲浜たちの志を、継ぐ」
「頼先生たちの・・・」
三弥は少し震えていた。
恩師であり、大獄で命を散らした頼の名を聞き、三弥は俯いた。
その恩師たちが捕らえられた京へ行くという奎堂の言葉は彼には刺激の強いものだった。
「お前には辛い京への旅だし、事も事だ。無理強いはしない。だからこの塾を」
「い・・・行きます・・・!私もっ、頼先生の志を・・・継ぎたい・・・!!!」
「ほうか。ならこの塾は閉める」
奎堂がそう言い放つと、三弥はまた俯いた。
雁音はその沈黙を待って静かに言った。
「てつさんを離縁するほどの事か?郷里に妻を置いて志を果たそうとする者などこの世にごまんといる」
「なんだ狐女、ここは俺が独り身になるって喜ぶところだぞ?」
「最悪な冗談だな」
雁音は真顔でそう吐き捨てるが、奎堂は動じない。
「てつの両親には明日俺が話をつけにいく。だが、てつには花見が済むまで言うな」
「ですが、奎堂さん・・・」
「俺たちがこれからしようとしている事に、女子どもを巻き込むなんてできん」
一瞬、三弥は雁音を見たが、彼女は険しい表情のままぴくりとも動かず奎堂のその先の言葉を待っていた。
「三弥、お前はどうすんだ?お前はいとを離縁せんのか?」
「私は・・・・しません。危ない思いも妻にはさせないように努めます」
「ほうか。お前も俺についてくるならそれなりに後始末はちゃんとしとけよ」
「はい」
俯いたまま返事をした三弥を一瞥し、奎堂は「話はそれだけだ」と退出していった。
三弥にもいとという妻がいる。年頃なのでと受けた縁談だったが、いとは大獄の後の三弥の精神的な支えとなってくれ、三弥もいとを大切にしていた。
さすがにその縁は切れないと、三弥は唇を噛んだ。
「何も壊していかなくても良いのにな・・・あのバカタレは」
雁音が大きくため息をつきながらそう言うと、三弥はさみしそうに笑った。
「それが松本奎堂。心根は繊細で優しい人なんですよ」
「ふぅん、優しいねぇ・・・。まぁ、あいつが選んだ道だ、私にはとやかく言う資格はないからな」
「雁音くんはそれでいいのですか?」
「何がだ?」
「女子どもは巻き込みたくないと奎堂さんは言いました。貴女はそれでいいんですか?」
「私はあいつの用心棒であり、同志だ。私は巻き込まれに行くんだ、放っておいてくれ」
「相変わらず貴女は。これじゃあ誰かさんの心臓が持ちませんね」
「何か言ったか?」
「いいえ。では花見の準備を盛大にしないとですね」
三弥はよっこらしょと立ち上がると、台所へ食材の確認へ消えて行った。
奎堂が花見先に選んだのは、尾張八事の興正寺という桜の名所だった。
広大な寺の敷地に所狭しと咲き乱れる桜が、視界を薄桃の世界に染める。
雁音はそんな桜の一本にもたれ掛かり、遠くに見える奎堂一家を見守っていた。
雁音一人を遠くから護衛に付け、三弥と万吉がこしらえた豪華な花見弁当を奎堂は楽しむ。
子どもを抱えながら微笑む妻のてつに、思わず口元が緩んだ。
それは絵に描いたような仲睦まじい家族の姿。奎堂は逃げるように刈谷を後にして以来、支えてくれたてつに精いっぱいの優しさを向けていた。
そんな光景を見守りつつも、自身もその桜の名所と言われるに相応しい景色を雁音は堪能していた。
黒い髪にはらはらと桃色の花弁が降り積る。それを手に取り、ふと昔のことを思い出した。
「渡辺さまも、桜が好きだったよな・・・今頃どうされているのか」
雁音が大和を出る際に世話になったという渡辺という男。
刈谷城を目指して旅に出てからはすっかり手紙も出さずに過ごしてきてしまっていた。
懐かしい人の顔を思い浮かべながら、雁音は目前に広がる光景をうっとりと眺めた。
その夜、奎堂は小さな灯りを頼りに、書斎で筆を走らせていた。
一気に白紙を墨の文字で埋め尽くし、天井を見上げて深呼吸をする。
心を落ち着かせようと詩文を書き始めたが、どうも筆が震える。
己が始めようとしている事への高揚感。
それに伴い失うものの恐怖。
全てが入り混じり奎堂に覆いかぶさる。
「すっげぇ雁音、それ八事からもってきたやぁ?」
「そうだ。袖に入れて持ってきたのだ」
狐共、と奎堂が普段からくくっている従者二人組の声がした。
雁音一人を護衛にと縁側に置いていたが、そこへ万吉がやってきたのだろう。
何気なく奎堂はその障子の向こうからの会話に耳を傾ける。
「うわぁ!まるで満開の桜だなっ!」
「どうだ!お前は留守をしていたからな、おすそ分けだ。それは八事の桜はそれは見事な光景だったぞ!」
万吉が大げさなのはいつもの事だが、満開の桜という言葉が気になった奎堂は重い腰を上げて襖をあける。
すると、闇に包まれているはずの庭先に、薄桃色の光景が広がっていた。
「これは・・・?」
「あっ、兄貴ぃ!」
奎堂に気付いた万吉が駆け寄ると、興奮気味に話し始めた。
「これなっ、桜の花びら、雁音が八事からもってきただって!」
「八事から?」
「ほだよ、袖にいーっぱい入れてきただって!」
「なんだそりゃ、袖に入れて持ってくるって。まるで・・・」
かなりの量の花弁が地面にばら撒かれている。
奎堂一家が花見をしている間、暇を持て余して桜の花を集めて袖に詰めている用心棒の姿が目に浮かんだ。
「前も話した、大和から私を連れ出してくれた渡辺様に教えてもらった遊びなんだ。渡辺様は桜が好きでな、こうして家に持ってきて、ばら撒いてまた愛でるのだぞ」
「渡辺・・・って・・・」
雁音はない胸をはってふんぞり返った。万吉や奎堂の反応を見てご満悦の様子だ。
奎堂は少しその光景に見とれてから、ふらりと部屋に戻り、埃をかぶった漆の箱から一枚の紙を掴みとってきた。
そして、万吉と笑い合う雁音に少し高揚した声で問う。
「お前を大和から連れ出した京での師とは・・・渡辺純蔵か?!」
「え?そうだ、渡辺純蔵さまだ!何だ、お前知り合いなのか?」
「渡辺というのは偽名だ」
「え・・・?」
裸足のまま奎堂は中庭に降りると、桜を踏みしめながら雁音に読めと紙を突き出した。
それは手紙で、雁音はさらさらとその文字を目で辿る。
「あ!渡辺さまの字だ・・・!」
雁音は瞳を輝かせた。
奎堂が持ってきたのは、雁音が世話になった渡辺から、奎堂に近況を知らせる手紙のようだった。
懐かしい字を追って行き、最後の差出人の名前に目をとめる。
「桜・・・任蔵・・・」
はっと顔を上げて奎堂を見る。
奎堂は足元に散らばる薄桃の欠片を眺めながら語り始める。
「任蔵のおっさんはよ、桜が好きでな。だから、名前も桜って変えたんだとさ。桜を見に行った時は、その桜の花びらを袖に入れて持ち帰って、
部屋にばら撒いてまたそれを愛でるとか・・・わけわかんねぇ趣味もっとってな・・・風流のわかる、熱くて、危なっかしいおっさんだった」
膝をついて、奎堂はそのひとひらを拾い、眺めた。
その頭上から、はらはらと桜の花びらが舞う。
雁音がまた袖から出した花弁を奎堂の上から散らしていた。
「渡辺様は私に水戸学と世の中の情勢を説いてくださった。とても聡明で、風流で・・・でも語り出すと熱くて、宵越しの金は持たないし、情に脆いし、
まるで誰かにそっくりで・・・大好きな師だった。そうか・・・亡くなったんだな、私の師匠は」
奎堂は目を伏せた。
桜任蔵は京で病を得て死んだ。大獄も逃れた運の良い男だったが、病魔には敵わなかったのだ。
雁音は奎堂の目線の高さまで跪く。
「あの方の成しえなかった大義を、私はお前と共に果たしたい」
「…そうか。そうだな」
雁音の揺るぎない瞳に、奎堂は優しく微笑んで視線を合わせる。
「ぷっ」
すると、それを見た雁音が突然噴き出した。
「な、何だよ!」
「ふふっ・・・だって・・・お前、そんな可愛らしい表情もするのだな?」
「どういう意味だよ!」
「まぁ怒るな、美形が台無しだぞ!」
雁音はまだ袖に残る桜を奎堂に投げつけた。
「何だとてめぇ!」
奎堂も足元に散らばる桜の花をすくって投げ返す。
「俺にも桜を寄こせ!不平等だろぉが」
「うわ、バカやめろ!袖に手を入れるな!」
「俺は刈谷の俊才だぞ?バカとは聞き捨てならんな」
「自分で言うかフツー!」
じゃれ合う二人を見て、万吉は一生懸命頭を捻っていた。
「つまり・・・雁音の師匠って、兄貴の昔の仲間だったってことか?おわっぷ!」
万吉にも桜の塊が飛んでくる。奎堂が投げたらしく大笑いしている。
「ひでぇ!口ん中入った・・・!」
「万吉、お前もやるか!」
「おうっ!やられたらやりかえす!兄貴覚悟ー!」
「千年はええわ」
「ぎゃぁー!」
返り討ちにあう万吉に雁音も笑った。
万吉もおかしくなって三人で桜の中で笑い転げた。
「おい狐共!俺はいつか大義を成すぞ。手始めに大坂へ行く」
「ああ」
「おう!」
「俺についてこい」
主の言葉に、従者二人は力強く頷く。
奎堂たちが西へ向けて旅立ったのは、桜が散り果てた、元治元年初夏のことだった。
これで奎堂の故郷を舞台にした刈谷編が終わり、次からは大坂潜伏編に突入します!
奎堂の故郷の民話をとにかく盛り込んだ刈谷編なので、ぜひ刈谷の雰囲気を堪能してもらえたらと思います。