三章一節 - 氷上の葛藤
比呼は氷の上を進んでいたが、ある場所を境に進めなくなった。ここから先は氷が薄い。いくら比呼が華奢で身軽だとはいえ、氷を踏み抜いてしまう。
しかし、ここからでは子どもに手が届かない。
しかも、池に落ちた子どもはすでに相当体力を奪われているらしい。何とか薄い氷にしがみついているが、這い上がる力はないようだ。
真っ青な顔に紫の唇をして震えている。
少し氷への体重のかけ方が変わっただけで、少年のつかまる氷の端が割れてしまう。慌てて他の氷にしがみつこうとするので、触ったそばから氷が砕け、それがいっそう焦燥を生む。
何とか、もう一度氷の縁にしがみつけても、同じことの繰り返しだ。
「何やってんだよぉ~?」
後ろから子どもの涙声が聞こえる。
「早く助けてやってくれよぉ~」
「やっぱりお兄ちゃん悪い人なの?」
「与羽ねーちゃんなら、あっという間だよ」
比呼は唇を噛んだ。雷乱はまだ戻ってこない。
――僕が、何とかするしか……。
意を決して、氷に腹ばいになった。そうすると、薄い氷が軋むのがよく分かる。
これは自殺行為だ。分の悪いことはしないに限る。
暗殺者の本能がそう告げる。自分には何の利益にもならないのに、命を懸けるなどばかげていると。
だが、彼はもう華金の暗殺者――暗鬼ではない。与羽と約束したのだ。人を助ける。与羽を守ると。
――僕はもう中州の民。
比呼は腹ばいに氷上を進もうとした。
しかし――。
「それ以上進むな! チビ!」
背後からかかった声に、比呼の動きがぴたりと止まる。
――チビ……?
いつか、とてつもない衝撃を受けた言葉だ。しかし、それを言った長身の青年は、今は北の同盟国――天駆にいるはず。
比呼は少しだけ後退して、振り返った。
まず見えたのは、人の背丈の三、四倍はあろうかという長い竹竿。こいのぼりにでも使えそうだが、太さはあまりない。細い竹を継いでその長さにしているようだ。
そして、それを持った長身の男の右顔面に浮かぶ火傷の跡。頭に巻いた、濃紺の手ぬぐい。
やはり、以前比呼に暴言を吐いた人物とは違う。彼同様にしっかりした体つきをしているようだが、中年の男性だ。
「そこから先は、氷が薄い。いくらお前がチビでも落ちるぞ」
一歩だけ氷の上に踏み出した男が竿を振った。長い竹がしなり、比呼の斜め前の氷を砕き割る。冷たいしぶきと氷の破片を浴びて、比呼は身をすくめた。
その瞬間体の下で氷がきしむ。何とか割れずにすんだが、比呼は慌てて体の位置を変えた。
「じゃあ、どうすればいいんですか!?」
比呼は大きな声で尋ねた。子どもまで、まだ手は届かない。たとえ男の持つ竿を差し出したとしても、少年にそれを掴む筋力は残っていなさそうだ。
「そうだな……。この竿につかまって空中から――、って言うのは無理だしなぁ」
男は、一度氷を叩き割った竿を垂直に戻しながら言う。相当な腕力だ。
「さっきはああ言ったが……」
そうつぶやいて、比呼を品定めするように見る。
「まぁ、お前なら大丈夫だろう。――落ちろ」
今度は、比呼のすぐ横に竿が振り下ろされた。




