終章一節 - 春立ちぬ
こちらに駆けてくるのは、中州城下でも有名な医師の家系――薬師の娘と、池に落ちた子どもの母親。
比呼は凪がまっすぐ自分のところへ来てくれるのを期待したが、彼女はその手前――池に落ちた子どものわきに膝をついた。当たり前と言えば当たり前だ。
凪は持って来た竹製の水筒の中身を木椀に注ぎ、子どもの看護をしているアメに渡した。言葉で指示されなくても、アメはそれをゆっくり子どもに飲ませる。凪とともにやってきた母親はその様子を不安そうに見つめていた。
雷乱はそれを見ながら、焚き火に枝をくべている。
次に彼女は比呼のところにやってきた。絡柳が立ち上がり、比呼の脇を譲る。
「凪……」
比呼は隣に膝をついた凪を見上げた。
次の瞬間、凪の左腕が首に巻きつき、比呼のあごをつかんで頭を大きく反らせた。
開いた口に水筒が押し付けられる。そして、水筒の中身を直接流し込まれた。
乱暴なやり方だったにもかかわらず、液体は楽に喉を通っていく。顔を上向けられた痛みもない。同じようにして、何十人何百人という患者に薬を飲ませてきたのだろう。
液体は冷たかったが、それが喉を通った途端その場所から体が温かくなってくる。
比呼は礼を言おうと、凪を見るために頭を動かした。
その時、側頭部に触れている柔らかいものに気付いた。凪は、比呼の頭を自分の胸に抱え込むようにして薬を飲ませたのだ。そうするのが、一番安定が良く楽なのは分かっている。
しかし――。比呼は自分の体が一気に火照ったのを感じた。おそらく、薬の効果ではない。
「な、凪!?」
慌てて離れようとすると、凪は簡単に比呼の頭を抱えていた手を離してくれた。薬を飲ませたのだから、もういいということか。
しかし違った。
凪の脇には池に落ちた子どもを抱えた母親が立っていたのだ。凪の薬のおかげか、子どもはもう震えておらず、ほほも色を取り戻しつつある。
「えと……」
まっすぐ自分を見下ろしてくる母親にどうして良いか分からず、比呼はとりあえず地面に正座して姿勢を正した。
「あなたは……、華金の暗殺者?」
華金は中州の南に位置する大国。かつて何度も中州に攻め入り、未だに非友好的な関係にある。比呼は、昨秋そこから暗殺者としてやってきたのを、この国の姫君――与羽に救われた。
暗殺失敗は許されない。国に帰れば命はなかっただろう。それを察した与羽が、自分の臣下としてこの国にとどまらせてくれたのだ。
「元…ですが、……そうです」
しかし、かつて暗殺者だった引け目は消えないし、この母親だって比呼を良い目では見ていないだろう。




