三章二節 - 融氷の道
隣で氷が砕けた瞬間、比呼の体の下にあった氷もその重みに耐え切れなくなり、割れてしまった。何か音がしたのかもしれないが、衝撃と恐怖で混乱した比呼には何も分からない。
「落ち着け、チビ」
男が比呼の目の前にある氷を砕きながら言う。
「死にたいのか? 与羽の顔に泥を塗ったら許さんぞ」
どうしてここで与羽の名が出てくるのか。
――ああ、僕が与羽に仕えているから……?
あんたを信じると言った与羽の言葉がよみがえる。
比呼の体から、無駄な力が抜けた。混乱していた心が落ち着きを取り戻す。
体を浮かせておくための、必要最低限の動作。水の冷たさを感じないほどの集中力。
暗殺者として鍛えてきた技術だったが、今その心にはかつてのような黒い塊はない。
比呼は冷たい水を掻いた。
一掻き、二掻き――。三掻きで池に落ちた少年のところまでたどり着く。
張っていた氷は、長い竿を持つ男によって全て割られていた。背後ではまだ氷を砕く音がする。
比呼は少年のかじかむ冷たい手を強く握った。
「がんばれ……」
そう声を絞り出し、その手を引く。少年をしっかりと胸に抱き、すぐに体の向きを変えた。
そこには、一本の道。水路ができていた。氷がまっすぐ池の縁へ向かって割られていたのだ。
比呼はそこを泳いだ。
片腕に抱えた少年の体は冷たいが、意識はある。弱々しく比呼の着物を掴もうとするが、手がかじかんでできないようだ。
彼を安心させるためにも、比呼は少年を抱える手に力を込めた。
水路の終点には、例の男が立っている。そこは十分氷が厚いらしい。
比呼は少年の脇を抱えて持ち上げようとしたが、寒さで筋肉が痙攣している。しかし、男が危なげない動作で少年を抱き上げ、後ろの子どもたちに渡した。子どもはすぐに、濡れた着物を脱がされ、乾いた着物で包まれる。
「掴まれるか?」
次に男は比呼へと手を差し出した。
弱々しく手を伸ばすと、手首をがっちり掴まれ、吊り上げるようにひっぱり出される。肩関節が悲鳴をあげたが、比呼は気にしなかった。せいぜい捻挫程度だろう。
「思ったよりは重いな」
そう呟き、男は自分の着物で比呼の体をしっかりと包み込んだ。
「ご苦労さん」
「あ、あなたは――?」
寒さで歯をがちがち言わせながらも、比呼は尋ねずにはいられなかった。
「その前に、少しでも暖かいところに行こう」
男は軽々と比呼を肩に担ぎ上げ、何重にも着物に包まってがたがた震えている少年を抱き上げた。
「竿は置いといてくれていい」
氷を砕くのに使った竿を一瞥して、歩きはじめる。




